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名将言行録を読む』

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No.0786

 

 『名将言行録を読む』渡部昇一著(致知出版社)を紹介します。

 著者は昭和5年山形県生まれ。昭和30年上智大学文学部大学院修士課程修了。ドイツ・ミュンスター大学、イギリス・オックスフォード大学留学。平成13年から上智大学名誉教授に就任。幅広い評論活動を展開しています。著書も専門書を含めてじつにたくさん上梓されており、それらの一部は、この「一条真也の読書館」でも紹介しています。

 

 本書には「人生の勝敗を決める知恵の書」というサブタイトルがついており、帯には「彼らはなぜ名将と呼ばれたのか」「現在伝わる戦国武将の逸話は、すべてこの本に収まっている」と書かれています。本書は戦国時代の武将29名にスポットを当て、その武将たちの発した言葉、その真意を丁寧に書き記した本ですが、その目次構成は、以下のようになっています。

 

「プロローグ」すべては『名将言行録』に始まる
北条早雲  人心掌握術に長けた軍人政治家
北条氏康  謙虚にして冷静、しかも勇猛果敢な明君
北条氏規  すぐれた外交手腕で北条家の延命をはかった知将
太田道灌  才気煥発なるがゆえに恨みを買った悲運の人物
山中鹿之助  尼子再興に命を捧げた烈士
毛利元就  言動ともに完璧な戦国第一等の大大名
小早川隆景  毛利家存続のために知恵を巡らせた深謀遠慮の人
武田信玄  人情に通じた戦国時代の合理主義者
真田昌幸  徳川家康が勝てなかった軍略の天才
上杉謙信  武将が憧れ尊敬した武将の中の武将
織田信長  天下統一に手をかけて斃れた天性の戦略家
明智光春  信長の亡骸を隠した光秀の忠臣
細川藤孝  『古今和歌集』の秘伝を受け継いだ文武両道の異才
蒲生氏郷  信長、秀吉が信頼し重用した恐れ知らずの武将
島津義弘  明・朝鮮軍が恐れた大胆不敵な大将
伊達正宗  慎重さと大胆さを併せ持った「東北の王」
戸次鑑連  主君を支えて果敢に戦った無名の名将
立花宗茂  義を重んじ、筋を曲げない名将にして名君
豊臣秀吉  天下統一を果たした戦国一の人間通
黒田孝高  秀吉が信頼し最も警戒した戦国随一の切れ者
鍋島直茂  家存続のために知恵を働かせた佐賀藩の藩祖
福島正則  突然の逆風に見舞われた無骨な猛将
加藤清正  秀吉に生涯付き従った慈悲深い勇将
石田三成  ドイツ参謀本部の将校も認めた戦略眼を持った知謀の将
小西行長  一商人から大名に成り上がった覚悟の人
藤堂高虎  次々と主君を替えながらも本分を全うした武将
木村重成  大坂夏の陣で見事に散った稀代の若武者
真田幸村  真田一族の実力を家康に見せつけた講談の英雄
徳川家康  戦国の世を最後に制した勇将にして大政治家
「あとがき」

 

 目次を見ただけで壮観ですね。では、『名将言行録』とは何でしょうか。小説家であり文藝春秋社の創業者としても知られる菊池寛は、かつて『評注名将言行録』という本を編纂しました。同書を底本として、「現代の賢人」と呼ばれる渡部昇一氏が戦国の世の武将たちの姿を描き、それを学んでみようという趣旨でまとめあげたのが本書です。『評注名将言行録』は上・中・下の三巻に分かれますが、それぞれ300ページ前後もある膨大なものです。

 

 本書の「プロローグ」で、著者は次のように書いています。

 

 「実はこの『評注名将言行録』には、さらなる種本があります。それは岡谷繁実という人の書いた『名将言行録』(現代版は人物往来社 昭和四十二年)です。
菊池寛が『評注名将言行録』の『序』に書いていますが、岡谷繁実の『名将言行録』は「戦国時代の名将二百余人に就いて、千巻の文献の中からその言語逸話を蒐集したもので、日本武士道の本質はもとより、当時の武士の生活や人物を知るに絶好の参考資料」となってもいいものです。今に伝わる日本の武将の話はすべてこの『名将言行録』から出ているといっても過言ではない一大資料です。これを『現代に生きる人間学の名著』と評価する人もいます」

 

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   武田信玄(1521年12月1日~1573年5月13日) 


 

 29人の武将の中でも、特にわたしが敬愛してやまないのが、武田信玄と上杉謙信の2人です。本書には、次のように書かれています。

 

 「有名な武田節の一節に、『人は石垣 人は城 情けは味方 仇は敵』とありますが、大きな城を築くよりも大将にはするべきことがある、それはすなわち人をいかに働かせて合戦に勝つかを考えることだ、と信玄はいうのです。
 事実、信玄の息子の武田勝頼は韮崎に新府城を築いて滅びました。城を頼りにするようでは戦には勝てないということなのです。
 徳川幕府も幕末に、江戸を外国艦隊から守るためにお台場を築きましたが、結局、役に立ちませんでした。守りを固めるだけでは戦いには勝てないのです。それを教訓にして、明治の人たちは連合艦隊をつくったわけです」

 

 著者は、この「人は石垣 人は城」に関して、次のように述べています。

 

 「信玄は戦に勝って他国の土地を取っても、それを自分の家来に知行として与えることはしませんでした。知行としては甲州や信州で民もあり地の肥えたところをやって、新しく得た土地には郡代を設けて、税金を安くし、民を安心させました。これには3つの理由があります。
 1つには、長く戦場になったところだから耕し手も足りず、五穀も実らないだろうから、まず百姓を恵んで耕作を楽しむようにしなくてはいけない。
 2つには、位の高くない者にわずかな痩せた土地を与えたところで、妻子を養うことも、武具の準備もできない。3つには、人情として民はみんな昔はよかったと思うものだから、そんなところに新しい領主がやってくれば、たとえ利害損得が同じでも昔より悪くなったと思われるのがオチである。ましてや高い税金でも取ったら非常に恨まれることになる。
 そう考えて、他国を取ったら郡代を置いて税金を安くしたわけです。その結果、信玄一代の間に手に入れた国の民は決して背くことがなかったというのです。
 信玄は人情というものを非常によく汲み取った統治を行っていたわけです」

 

 また著者は、「甲斐の虎」と呼ばれた信玄の次のような言葉も紹介しています。

 

 「信玄は、人は生い立ちによってよくも悪くもなるといっています。7つ8つの頃から12、3歳までに、大名の子ならばよき大将の行儀作法を語り聞かせて育てるのがいいし、普通の武士の子であれば勇気のある武者の武勇伝を聞かせるのがいい。総じて人の心は12、3歳のときに聞き入れたことが基礎となって、一生の間、失われないものである、というのです」

 

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    上杉謙信(1530年2月18日~1578年4月19日)


 

 さて、次は信玄のライバルであった上杉謙信です。著者は、「越後の龍」と呼ばれた謙信について次のように述べています。

 

 「謙信はいつも信義を重んじ、嘘をつくことを恥としました。他人を決して欺かなかったので、敵は謙信を信用して、降参し和議するときも上杉家から人質をとることがありませんでした。謙信が約束したのだからそれでいいじゃないか、というわけですが、裏切り、寝返りが珍しくなかった戦国時代に口約束が信用されるというのは尋常な信用度ではありません」

 

 このような謙信の態度が、「非道を知らず存ぜず」という上杉謙信の名言につながったのでしょう。

 

 また、謙信は武を尊ぶ人物であり、武士を非常に大切にしました。著者は、謙信の「武人としての矜持」について次のように述べています。

 

 「居城のあった春日山(今の新潟県上越市)にお堂を築き、不識庵と名づけて、戦で死んだ武士を祀って自ら弔いをしました。主君が死んだ武士を祀らないようでは武士は安心して死ねません。そのことを謙信はよくわかっていたのだと思います。そういう謙信を主人としていただいていたからこそ、上杉家の武士は非常によく戦い、他国からも尊敬されていました。
 この話は今にも通じます。首相が靖国神社に参拝しないような国に、日本のために死のうと考える軍人は出てこないということです」

 

 謙信は非常に信仰心の厚い人でしたが、「神を尊敬しても頼らない」という信条の持ち主でもありました。ライバルの信玄も、迷信を大変嫌った人でした。このような武将の「こころ」の在り方について、著者は次のように述べます。

 

 「武将というものは、神様を尊敬しても決してそれに引っ張られてはいけないということなのです。宮本武蔵が『我、神仏を尊びて、神仏を頼らず』という有名な言葉を残していますが、それと同じ思想です。当時の武将は非常に謙信を尊敬しました。上杉家は武家として名門でもあります」

 

 上杉謙信は、いわば「武将の中の武将」であったのです。

 

 謙信は、義を重んじる人で、不正や不義を許すことができない人でした。川中島で何度も激闘を繰り広げた信玄に対しても、今川氏真と北条氏康が結託して、武田の分国に塩を売るのを禁じ、武田領内の民が大いに困っている時に、謙信は信玄へ塩を送りました。これがあの有名な「敵に塩を送る」という言葉の語源となった話です。このような謙信に対して信玄は、遺言で「上杉謙信は義人である。自分の死後に何かあれば謙信に頼れ」とまで言っています。また、一方の信玄は、人情に通じた合理主義者でした。「迷信に左右されるな」「勝利には正確な情報が欠かせない」などと言っており、各国に様々の人を派遣し、その土地の地勢、国の風俗、将軍の能力などを調べさせていたということです。

 

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    織田信長(1534年5月12日~1582年6月21日)


 

 信玄・謙信の他には、やはり信長・秀吉・家康の3人の「天下人」のエピソードが興味深かったです。まずは、織田信長です。信長は天下統一への計略として天皇の存在に注目しました。著者は、次のように述べています。

 

 「信長は天皇の威光というものをよく理解していました。
 『信長、思えらく、天下の大計は、天子を挟みて四海に令するに在り』
 天皇を担いで全国に命令を下す――これが天下を統一するためには一番重要なことだと信長は考えたのです。
 『応仁の乱』以降、100年以上も世の中は荒れていました。この世を平定して統一するためには天皇を担ぐよりほかにない、と思ったのでしょう。実際に、信長は自身が上洛する前から、当時の衰微した宮廷に金品を献上しているのです。
 おそらく最初にこの統一の原理に気づいたのは今川義元だと思います。その義元の上洛は信長が阻止しました。とはいえ、すぐに信長が上洛できるわけではありません。甲斐には信玄、越後には謙信という名将をいただく強国があります。そこで信長は頭を働かせたのです。甲斐や越後に比べると濃州(今の岐阜県あたり)や江州(今の滋賀県あたり)は弱いな、と。そこで、『強きに交わり弱きを攻める』という戦略を立て、謙信や信玄とは低姿勢で交わるのです。そして家康と仲良くして東の抑えを担当してもらい、自らは弱いと見た美濃を取り、近江を平らげます。そして、信玄と謙信が互いに競い合っている間に、いち早く京都に旗を立てたのです」

 

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    豊臣秀吉(1537年3月17日~1598年9月18日)

 次は、豊臣秀吉です。彼は、自ら仕えた信長を反面教師にしました。秀吉は、信長の死後に「信長公は勇将なり、良将にあらず、剛の柔に克つことを知り給いて、柔の剛を制することを知られず」というコメントを残しています。これは「信長公は勇将であったが、良将ではなかった。剛によって柔に勝つことはよく知っていたけれど、柔によって剛を制することは知らなかった」の意味です。また、秀吉はこのようにも言っています。

 

 「一度敵となった者は怒りに任せてその根を絶ち葉を枯らしてしまった。降参し服従した者を殺したから、恨みが絶えることがなかった。これは器量が小さかったからである。だから周囲の人には愛されなかった。
 たとえるならば、信長公は虎や狼のようなものだ。虎や狼に噛まれるのは恐ろしいけれど、恐ろしいからこそ、これを殺して害を免れようとする。明智が信長公を殺したのもそのためである」

 

 この秀吉の信長評について、著者は次のように述べています。

 

 「この『噛まれるのが怖ろしいから、殺してしまう』という見方は、明智の謀反に対する非常に鋭い洞察だと思います。
 よって秀吉は信長のやり方の間違っていたところを改めて、敵対する者は討ち滅ぼしたけれど、降参すれば譜代同様にねんごろに扱ったのです。そのため、昨日まで敵対していた者も、秀吉には身命を捨てて忠節を誓い、謀反を起こす者もなく、早く天下を平定することができたというわけです」

 

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    徳川家康(1543年1月13日~1616年6月1日)


 

 そして、最終的に天下人となった徳川家康です。信玄や謙信をはじめ、戦国武将の多くは縁起を担ぎませんでした。それは家康もそれは同じで、著者は次のように書いています。

 

 「たとえば、関ヶ原の戦いに出発するという日にこういう出来事がありました。家来の石川日向守家政が家康にこういうのです。
 『今年は今日西塞がり、願くは他日を択て御発進然るべし』
 (今年は今日が西塞りになっていて、西の方角に出かけるのはよくありません。どうか別の日にご出発ください)
 これはおそらく易のようなもので判断したのでしょう。
 これに対して家康は首を横に振りました。
 『西塞りたれば、我往て開かん』
 (西が塞がっているのなら、自分が行って開いてみせよう)
 そういって迷信を拒否して予定どおり出発するのです。武田信玄がいったように、迷信を信じ始めたらきりがなくなるということなのです」

 

 また、家康は非常に人使いのうまい人でした。著者は、以下のような家康の言葉を紹介しています。

 

 「良将の人を用うるは、其長ずる所を取れり、譬ば良医の薬を用うるが如し、其能否を知りて、之が方剤を為せり、故く能く病を治せり」

 

 これは「名将が人を用いるのは、その人のいいところを見て使っているのである。たとえれば、これは名医が薬を処方するのと同じである。いい医者は、それぞれの薬の効能をよく知り、病気に合った適切な薬を処方するから治せるのだ」という意味です。

 

 さらに、家康の次の言葉も紹介しています。

 

 「人を用うるには、須く其長ずる所を取るべし。譬ば耳目口鼻の如し、各司る所ありて以て其用を為せり。鵜は水に入りて能あり鷹は空を飛で能あり、人各長ずる所あり、何事も一人には備わらんことを求むること勿れ」

 

 これは「耳目口鼻にはそれぞれの役割があるし、鵜は水に入って能力を発揮し、鷹は空を飛んで能力を発揮する。1人の人間にその人に備わらないものを求めてはいけない」の意味で、それぞれに合った使い方があるというわけです。

 

 この徳川家康が『名将言行録を読む』に登場する武将は最後です。終わりに当たって、著者は次のように述べています。

 

 「こうした武将たちの生き方は、今の人々がほとんど忘れてしまっているものでしょう。それらは戦国時代のことゆえ平和な時代には必要がないというわけでは決してありません。むしろ、この閉塞した世相を打ち破るために、彼らの生き方から学ぶべきことが数多くあるように思います。
 そうした意味で、プロローグにも述べたように、『名将言行録』はシナの古典と遜色のない日本の古典であり、日本民族の宝であると思うのです」

 

 わが社は戦国武将から多くの学びを与えられています。社員の中にも戦国武将に傾倒する者が多いのです。

 

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   サンレー本社会議室での「戦国武将会議」のようす