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神になった戦国大名』

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No.0787

 

 『神になった戦国大名』今福匡著(洋泉社)を読みました。

 わたしが最も好きな戦国武将である上杉謙信についての本です。著者は、1964年に神奈川県で生まれた歴史ライターです。米澤直江会会員、戦国史研究会会員でもあり、主な書著に『前田慶次―武家文人の謎と生涯』(新紀元社)、『直江兼続』(新人物往来社)、『上杉景虎―謙信後継を狙った反主流派の盟主』(宮帯出版社)があります。

 

 本書のカバーには、上杉神社に所蔵されている謙信着用と考えられる「色々縅腹巻」(重文)の兜の前立の写真が掲載されています。この前立には、謙信が信仰した飯綱大明神が描かれています。本書のサブタイトルは「上杉謙信の神格化と秘密祭祀」で、帯には「真言密教の奥義を極めた謙信は、死後自らの遺骸を保存させた。歴代の上杉家当主は、軍神謙信と一体化するための『秘儀』を幕末まで行ってきた!!」と書かれ、続いて「毘沙門天の化身、最強の戦国武将『軍神謙信伝説』は史実だった!」と大書されています。

 

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    上杉謙信(1530年2月18日~1578年4月19日)


 

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

 

「はじめに」
【序章】家祖・上杉謙信と英雄像
【第一章】謙信と真言密教―春日山城・聖地化構想の破綻
【第二章】御堂の成立―謙信の遺骸と精神的支柱
【第三章】米沢藩における謙信の祭祀
【第四章】謙信像の継承と変容―越後流軍学と秘密儀式
【第五章】御堂炎上と幕藩体制の終焉
【終章】近代日本と謙信像―上杉神社と最後の遷座
「おわりに」
「上杉謙信関連年表」
「上杉氏略系図」
「上杉・吉良・畠山・紀州徳川家関係略図」
「主な参考文献」

 

 「はじめに」で、戦国武将と信仰について、著者は次のように述べています。

 

 「戦国時代の武将たちは大なり小なり信仰心をもって戦った。合戦に先立っては、戦勝祈願をし、寺院に寄進をしたりする。
謙信の場合は麾下の軍団に勝利をもたらす軍神を召喚する『武禘式』を執行しているが、自ら真言宗に帰依し、密教の奥義を修めて伝法灌頂を受け、大阿闍梨になっている。寡聞にして大阿闍梨になった戦国武将が他にどれほどいるのかわからない。他の武将たちは兜の前立に武神をあしらったり、後生をたのんで生前供養を営んだり、隠居と称して出家・入道姿にはなるものの、法位を得て宗教者になろうとする者は少なかった」

 

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    春日山城跡の上杉謙信銅像


 

 第一章「謙信と真言密教―春日山城・聖地化構想の破綻」の冒頭には、以下のように「謙信の死」について述べられています。

 

 「天正6年(1578)3月9日午の刻(正午頃)、越後の戦国大名上杉謙信が居城である春日山城内で倒れた。厠で倒れたとする説もあるが、詳細は不明である。謙信はそのまま昏睡状態に陥り、4日後の13日未の刻(午後2時頃)に逝去した。享年49歳。
 『四十九年一睡の夢 一期の栄華一盃の酒』という辞世が伝わっている。
 死因は、脳卒中であるといわれている。また、甥で養子の景勝が諸方へ出した書状には『不慮の虫気』とある」

 

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    春日山神社(新潟県上越市)


 

 慶長5年(1600)9月15日に関が原で東西両軍が激突しました。石田三成らが大敗したことによって徳川家康の覇権が確立しましたが、上杉方はなおも領国の防衛を続けていました。しかし、翌年の7月に上方との和平交渉に応じて、上杉景勝の上洛が実現します。
 その後、戦後処分によって上杉家は米沢・福島30万石に減封されることになりました。敬称は、執政であった直江兼続を召して「今度会津を転じ、米沢に移る。武命の衰運、今に於ては驚くべきにあらず」と言い放ったといいます。

 

 米沢に移った上杉家は、米沢城内で謙信の遺骸を安置する御堂の造営をはじめます。第二章「御堂の成立――謙信の遺骸と精神的支柱」には次のように書かれています。

 

 「上杉家にはこだわりがあったとしか思えない。それは、謙信の遺骸を必ず城内の御堂に安置する点である。ちなみに上杉家は真言宗を菩提寺とする唯一の大名家であり、これが真言密教の教理に基づいた祭祀の方式を採ったと考えるならば、特異な御堂の創建も当然のことと言えるのである。
 この不識院御堂は、高野山奥之院霊廟といくつかの共通点が見出せる。
 まず真言宗独自の葬礼形式の元型は、もとより空海のそれに拠っている。
 空海が高野山に示寂したのは承和2年(835)とされている。高野山では、空海に関して入滅とは言わない。空海はなお死んではおらず、奥之院御廟に『入定』し、1200年を経た今でも生きているとされている」

 

 御堂は、謙信や歴代藩主たちの供養を執行する場だけではありませんでした。藩主が初入部後、はじめて迎える正月13日に具足召初に臨む儀礼の場でもあったのです。第三章「米沢藩における謙信の祭祀」にこう書かれています。

 

 「上杉治憲(鷹山)は大規模な倹約令を公布し、一汁一菜を遵守したり、50余名いた奥女中を9名に減らしたことはよく知られている。明和6年の初入部の折にも、大がかりな祝事は省略させ、足軽までの諸士に赤飯と酒を振る舞い、直接彼らに言葉をかけるにとどめた。その治憲も御堂に関する慣行だけは従来のままを通した。また、安永2年5月26日、領内が旱魃に見舞われていたことを受けて、上杉治憲は、法音寺を召し出すと、御堂において降雨の祈禱を7日間にわたって行うよう命じているように、祈願所としての機能も有していた。
 さらに、切迫した状況に至った場合、藩主自身にとって精神的拠りどころともなった。代表的な事例が、上杉治憲が御堂に籠って断食した時のものである」

 

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    上杉神社(山形県米沢市)


 

 さらに、第四章「謙信像の継承と変容――越後流軍学と秘密儀式」には次のように謙信の神格化について述べられています。

 

 「米沢藩歴代の当主が『家祖』である謙信を崇敬することは、『御武具召初』などの行事を見ても明らかであるが、たとえば上杉景勝が法名として宗心という謙信の号を選んだりした行為も謙信との一体化を志向するものであろう。
 また、藩主は亡くなると、遺骸は白布に描かれた曼荼羅ではさむように棺に納められ、御堂御座の間の上段にしつらえた忌帳壇に安置された。荼毘に付されると、遺骨は能化衆の手によって紀州高野山へ納められたのである。江戸時代後期には土葬に変更され、高野山には位牌のみが安置されるという略式化が進んだが、これらの葬送形式も高野山謙信廟との一体化、真言宗に帰依した謙信に追随するものであったと言ってよかろう」

 

 歴代の上杉家当主は、軍神謙信と一体化するための「秘儀」を行ってきました。そして、それは、なんと幕末まで続いたのです。「秘儀」が途絶えたのは明治維新によってでした。その明治維新の本質について、終章「近代日本と謙信像――上杉神社と最後の遷座」には次のように書かれています。

 

 「明治維新とは、単に政権を武家から朝廷にかえすという性質のものではなかった。王政復古の大号令は、『諸事神武創業之始ニ原キ』という部分に力点が置かれる。つまり、武家政権発生前の奈良・平安の時代さえも否定し、一気に原初の形態へ戻す、ということが眼目であったのである。
 明治政府は神道国教化政策を推進、この影響により、米沢城ニ之丸諸寺院はあるいは移転、あるいは廃寺を余儀なくされた。日本に新たに誕生した近代国家は、御堂における謙信祭祀の存続を否定したのである。
 御堂は仏式から神式に改めた祭祀の場に変わり、明治4年(1871)8月16日、上杉家では、謙信と上杉鷹山を祭神として、本丸内に社殿を建立することが決定した」

 

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    謙信公之像(米沢城跡公園にて)


 

 現在、米沢市では「上杉まつり」というイベントが毎年ゴールデンウィークに行われています。上杉家が出陣前に行ったとされる武禘式、武者行列、そして川中島合戦の再現という絢爛たる戦国絵巻を展開する祭典です。著者は、もともと山形県の出身でない謙信が米沢上杉家の家祖としての位置づけが大きくクローズアップされたことについて、次のように述べています。

 

 「これは上杉景勝にはじまる米沢藩が、米沢城に御堂を造営し、いわゆる弘法大師信仰に沿った祭祀の方式を選択し、250年間それを守り続けてきたことが、米沢における謙信への畏敬の念を浸透させていったのではないだろうか。江戸時代250年を通して町中からも望めた米沢城本丸御堂の景観は、おそらく米沢人にとって、象徴記号となっていたであろう。
おそらくは、謙信自らが企図した真言密教の方式で葬られたがために、居城をそのまま寺院化するという、特異な存在としての『御堂』が誕生した。その特異性は、後世、上杉謙信という武将に対して我々が抱く神秘的なイメージをも形成した、と言えるかもしれない」

 

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    謙信を祭神とする春日山神社で


 

 上杉謙信ほど、神秘的な武将は他にいません。しかし、彼の神秘性は後生の人間によって形成された部分も大きかったのです。それは、ブッダ、孔子、ソクラテス、イエスの「四大聖人」が、その弟子たちによって神格化されていったのと同じ構造であると言えるかもしれません。本書の「はじめに」の冒頭には、「上杉謙信は、不思議な武将である」と書かれていますが、謙信がいかにして「不思議な武将」となったか、そのメカニズムを本書は解き明かしているのではないでしょうか。