No.0768 民俗学・人類学 『暮らしの中の民俗学1 一日』 新谷尚紀・波平恵美子・湯川洋司編(吉川弘文館)

2013.08.04

 『暮らしの中の民俗学1 一日』新谷尚紀・波平恵美子・湯川洋司編(吉川弘文館)を再読しました。
 この『暮らしの中の民俗学』シリーズは全3巻で、各巻のテーマが「一日」「一年」「一生」に分かれて構成されています。3人の編者のうち、新谷尚紀氏と湯川洋司氏は民俗学者ですが、波平恵美子氏は文化人類学者です。なお、くだんのシンポジウムには波平氏も出演される予定です。

 本書の帯には「朝起きてから夜眠るまで、そして翌日目がさめるまでの24時間。あいさつや飲食など、日常の中に伝えられてきた民俗の知恵とは?」と書かれています。また、カバーの裏には以下のような内容紹介があります。

 「激しく変貌を遂げる現代社会、私たちの暮らしはどのように変化してきたのか。『一日』という時間の中で行なう、あいさつ、飲食などの日常的なふるまいに蓄積された生活の知恵を探り出し、日本人の暮らしを見つめ直す」

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

「刊行にあたって」
「一日の民俗」・・・・・・・新谷尚紀
あいさつ・・・・・・・・・・鳥越皓之
飲食・・・・・・・・・・・・太郎良裕子
装い 穢れと清潔・・・・・・岩本通弥
住まい その新しい見方・・・古家信平
消費と節約・・・・・・・・・波平恵美子
遊び・・・・・・・・・・・・野本寛一
性・・・・・・・・・・・・・新谷尚紀
夜・・・・・・・・・・・・・板橋春夫
「参考文献」「索引」「執筆者紹介」

 「刊行にあたって」には、本書を世に問う意図が次のように述べられています。

 「社会の変動に対する関心から出発し、日々の暮らしが伝える慣習や技能、観念などに注目し、その伝承と変化の様相に目を凝らす民俗学は、私たちの暮らしのどの部分が変わり、またどの部分が変わらずに伝えられていくのかということを読み解くことで、自分自身がいま立っている歴史的な場を発見することに寄与できるはずです」

 そして、このシリーズの全3巻構成について、「第1巻『一日』では、朝起きてから夜寝るまでの間に行なっている日常生活の行為の意味を再確認するとともに、そこに蓄積された生活の知恵について考えます。第2巻『一年』では、めぐる季節の営みとともに繰り返される生活リズムを生み出している人の活動と、その活動を支えている思考や習慣の底に存在するものについて考えます。第3巻『一生』では、繰り返すことのできない個人の生涯に生起する問題を取りあげ、人が生きていくための方法と意味について考えます」と説明されています。

 新谷尚紀氏によって書かれた序章「一日の民俗」には、本書に収められた8つの論文の要旨がコンパクトにまとめられています。たとえば、「あいさつ」については次のように書かれています。

 「あいさつとは、人が、ある世界へと参入するときと退出するときに行なう行為である。朝起きて信心深い人なら、まずその新しい1日の自分や家族そして世界全体が無事であるようにと、神仏への祈りを捧げるであろう。人間同士の朝昼晩のあいさつの言葉は『おはよう』、『グッドモーニング(よい朝)』、『ボンジュール(よい日)』などよい1日であるようにとの祝福の言葉が多い。あいさつは人と人の出会いと別れの時点で行なわれ、相手が知己の場合と未知の場合、目上と目下ではそれぞれ異なる。未知で初対面の場合には自己紹介が不可欠である。そして、朝昼晩、年末年始、仕事の始めと終わりなど、ときと場合により、また言葉によるもの、会釈やしぐさ、また一定の物品を使用するものなど方法にもさまざまなものがある。そして、その方法は互いに当事者同士に了解できるものとなっている。波平恵美子の調査体験によれば、東北地方南部のある農村では、毎朝早くに雨戸を開けることが近隣同士の朝のあいさつで、遅くまでなかなか雨戸が開かぬ家があると何かあったのではないかと隣家で心配したものだという」

 「消費と節約」は、以下のようにまとめられています。

 「贅沢や浪費を『無駄使い』といい、節約を『始末』という言い方には自然が与えてくれる資源に対する敬虔な道徳観念がうかがえた。そして、日常の生活で蓄えられた資財は祝儀や祭礼の場では一転して気前のよい大盤振舞いの対象とされ、ケチやシミッタレの態度は人々の軽蔑の対象とされた。そこにはハレとケに対応する消費と節約の生活律が存在したのである」

 また「遊び」も、以下のようにまとめられています。

 「柳田国男は子どもたちの遊びに注目しそれらの中にはかつての大人たちの信仰行事の真似事に由来するものが多いということを『かごめかごめ』の遊びなどを通して指摘している。折口信夫は日本語の遊びには神遊びのように神霊憑依の意味のあることを指摘している。子どもの遊びや大人の遊び、それに神祭りの狂乱の中の遊びを観察していると、遊びとは社会的な秩序体系からの一時的離脱であり忘我陶酔の営みであることが分かる。そして、それは無目的的行為であることからこそ逆に主体的で能動的な行為であり、芸能や宗教などの創造力に富む脱社会的行為である、ということができる」

 そして「夜」が、以下のようにまとめられています。

 「人生の3分の1は睡眠であるともいわれる。昼食の後の昼寝も夕食の後の睡眠も疲れた身体を休める貴重なものであるが、とくに夕食から夜へという時間には夜なべ、入浴、夜語り、またかつての農山漁村の生活では夜這いなど睡眠を前にしたさまざまな営みが行なわれてきた。また、睡眠には夢見や夢判断、睡眠を妨げる夜泣きをめぐる伝承など幅広い問題領域が広がっている。電気のない時代のかつての夜は昼とはまったく異なる暗闇の世界であった。月の満ち欠けが1月のめぐりを表わし、お七夜や七夕、十五夜、二十三夜など夜の時間を中心とする行事も少なくなかった。また、夜は口笛を吹いてはいけないなど禁忌も多く、妖怪が徘徊し怪談ばなしがさかんに語られる時間でもあった」

 このように新谷氏の要約があまりにも見事な仕事ぶりであるため、10ページにわたる「一日の民俗」を読んだだけで本書の全貌をつかむことができますが、もちろん本文にも興味深い記述が多々ありました。
 たとえば「あいさつ」では、あいさつの漢字、「挨拶」は柳田国男によると、禅僧が中国から輸入した漢語であることが紹介されています。「挨」は押す、「拶」は押し返すという意味だそうです。また禅宗では、門下の修行僧が問答をもちかけて答えを求めることを意味したそうで、それを踏まえて筑波大学社会科学系教授である鳥越皓之氏は次のように述べています。

 「そのような中国文化に対して、私たちの国の普通の人々の生活の中では、挨拶という漢語を使わないで、それを昔から『言葉かけ』と言いつづけてきた。他の人と路上で出くわしたり、すれ違ったりするときに無言で通り過ぎるのは、たいへん失礼な行為と見なされてきたので、そういうときは言葉をかけるのが人として当然のことだという暗黙の了解があったのである」

 そして、日常生活におけるさまざまな「あいさつ」や、結婚式などの「非日常的な「儀礼」について触れた後で、「おわりに――人間関係を安定させる型」として、鳥越氏は述べます。

 「おそらく、気持ちを表わす便利な手段として儀礼が存在するのではないだろうか。見ず知らずのところに嫁に行くものにとって、先ほど見たような厳密な儀礼の連続としてのあいさつの存在は、どれほどに助かるものか計りしれない。相手に対する敬意の言葉が十分に出がたい人たちにとって、『こないだは』や『お達者で』と天候のあいさつなどの型の存在は、あいさつをすることについて心の負担を軽減させるものだろう」

 さらに、「なぜ人間は、あいさつを必要とするのか」について、鳥越氏は次のように結論づけています。

 「私たちが生活をしていくためには、人間相互の協力的な関係のネットワークをいつもはりめぐらせておかなければならない。しかしながら、人間というものはしばしば反目しがちであり、それを乗り越えるためには、儀礼のかたちをとりつつでも強制的にコミュニケーションをする必要がある。あいさつとは、なんというか、人間関係を安定させるためのひとつの型であるといえよう」

 この鳥越氏の「あいさつ」論、簡潔にして要を得ていると思います。

 あとは「飲食」での、ノートルダム清心女子大学大学院人間生活研究科教授の太郎良裕子氏の以下の記述にも「儀式創造」のヒントがあるように思いました。

 「かつては、酒を飲む機会も神祭りや秋忘れの収穫祭、特別な行事や冠婚葬祭など特別な日にかぎられ、酒はかならず人が集まって飲むものと決まっていた。冠婚葬祭や地域の祭りと結びついて、神に食物や酒をささげ、そのお下がりを共飲共食するのが宴会であり、大きな盃に酒を注ぎ、これを順に回し飲みする風がよくみられた。しかし、今日、回し飲みという順流れの飲み方は、正月や結婚式など一部にみられるのみで、現在の宴会では、神はほとんど存在せず、人と人が楽しむために飲むようになってきている。神と人が結びつくための宴会から、人と人が結びつく宴会へと変化しているのである」

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