No.0780 日本思想 『天皇・皇后両陛下 心に残る珠玉の御言葉』 松崎敏彌著(日本文芸社)

2013.08.22

 『天皇・皇后両陛下 心に残る珠玉の御言葉』松崎敏彌著(日本文芸社)を読みました。
 著者は皇室ジャーナリストで、帯には「宮中行事『歌会始の儀』に込められた天皇・皇后両陛下の思い」とかかれ、以下の二首の歌が並んでいます。

 「津波来し 時の岸辺は 如何なりしと
          見下ろす海は 青く静まる―天皇陛下」
 「帰り来るを 立ちて待てるに 季のなく
          岸とふ文字を 歳時記に見ず―皇后陛下」

 本書の目次構成は、以下のようになっています。

「まえがき―希望に満ちあふれた世の中になることを祈って―」
第1章 絆・・・・・ひとりひとりが手を取り合って大きな力に
第2章 愛情・・・・相手に対していつも温かい気持ちをもって
第3章 勇気・・・・何事も前向きに考える姿勢をもって
第4章 元気・・・・落ち込んでいる時には明るい気持ちをもって
第5章 希望・・・・明るい未来が待っていることを祈って

 東日本大震災の後の2011年3月16日午後4時35分からNHKをはじめとするテレビ各局から、録画されたビデオメッセージを放送されました。第1章「絆」の冒頭には、ビデオメッセージの以下の御言葉が紹介されています。

 「厳しい寒さの中で、多くの人々が、食糧、飲料水、燃料などの不足により、極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の状況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」

 放送の際、天皇陛下は「緊急の情報が入った場合は、そちらを優先してほしい」とのご意向も伝えられたそうです。この天皇陛下のビデオメッセージについて、著者は「天皇陛下が広く日本国民全員に向け、マスメディアを通じて自らの声でメッセージを伝えられたことは、先の大戦終結の1945年8月15日の昭和天皇によるいわゆる『玉音放送』以来、66年ぶりのことである。今上天皇がいかに事態を重くとらえられたかを物語っており、このメッセージは、まさに一部で言われたように、天皇陛下が初めて自らの声で切々と全国民に訴えられた『平成の玉音放送』だった」と書いています。ちなみに、映画「終戦のエンペラー」では、昭和の「玉音放送」の真実が描かれています。
あのときの昭和天皇の心中を思うと、涙が出てきます。

 第2章「愛情」では、1990年12月20日、ご即位後、美容と健康に関する皇后陛下の答えと天皇陛下の御言葉が以下のように紹介されています。

 「・・・・・・余り何もしていないので、もう少しかまったほうがいいと言われることもありますけれども。
 (天皇陛下はどう思われますかと記者に尋ねられて)
 いつも自然にしているというところが、とてもいいと思います」

 この御言葉に対して、著者は次のように述べています。

 「皇后陛下の美しさはつくられたものではなく、日々、天皇陛下を補佐し、国民のことを考えて、おそらく美容や装いも天皇陛下のおっしゃるように、ごく『自然に』しておられること、そしてそのことを天皇陛下も好もしく思われていることがうかがわれる」

 また、2002年12月、お誕生日会見の一般的な記者の質問に対して皇后陛下は、異例のご発言として「拉致被害への無念の思い」を述べられました。

 「何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません。
 今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入の淋しさを思います」

 この皇后陛下の御言葉について、著者は以下のように述べます。

 「なぜ、日本国を構成するメンバーが欠けていることに誰もが気づけなかったのか。その思いは、多くの国民が抱える課題である。
 この異例のご回答には、国民の安寧を常に祈り続ける皇后陛下の深い悲しみが込められているのである」

 1995年7月3日、硫黄島戦没者追悼式に参列の遺族代表に会われた天皇陛下の御言葉が以下のように紹介されています。

 「私どもは、昨年2月、硫黄島を訪れました。慰霊碑に参拝し、島を巡り、水もなく地熱の高い厳しい壕生活の中で、祖国のために死力を尽くして戦った戦没者をしのびました。2万の未来ある命が失われ、今なお1万の遺骨が地下に眠っていることに、尽きることのない悲しみを覚え、今日の日本がこのような多くの犠牲の上に築かれたことに、深く思いを致しました」

 1998年、お誕生日会見で、国賓の接遇についての質問に、皇后陛下は以下のように答えられています。

 「どの国も変わりなくお迎えすることが大切、と陛下が接遇の基本をお話しくださったことをいつも思い出しています。これは当然のことのようですが、実際にはその時々の日本とその国との関係、また、人々の関心の持ち方の違いから、歓迎の人々の多さや、報道のされ方などにどうしても差が出ますので、皇室がこの原則に立ちもどることが、どんなに大切かを毎回心に留め、お一人ずつの国賓をお迎えしています」

 2005年12月19日、お誕生日会見で紀宮さまの結婚について、天皇陛下は以下のように述べられました。

 「清子の結婚後も私の日常は様々な行事で忙しく、今のところはそれ程変わったという感じはしません。皇后はさぞ寂しく感じていることと思いますが、今までにも増して私のことを気遣ってくれています。ただこれまでおかしいことで3人が笑うとき、ひときわ大きく笑っていた人がいなくなったことを2人で話し合っています。清子は心の優しい人でしたが、とても楽しいところがありました」

 このご発言には、娘を持つ身であるわたしは大きな感動を覚えました。著者は、この御言葉について次のように書いています。

 「ご自分のお気持ちより、皇后陛下の寂しさを思いやられ、そういう天皇陛下を皇后陛下が今までに増して気遣っておられるという。まことに心打たれるご関係である。しかも、清子様がいなくなったことを、『これまでおかしいことで3人が笑うとき、ひときわ大きく笑っていた人がいなくなったことを2人で話し合って』おられるという。これが家族というものであり、1人の家族がいなくなったときの、これこそが偽らざる実感であろう。天皇・皇后という重い責務の中で、家族の持つ温かみと親しみを感じさせていただける御言葉である」

 第5章「希望」では、1996年の誕生日会見で「皇室への無関心層が増えているのでは」という問いに対しての皇后陛下のお答えが紹介されています。

 「常に、国民の関心の対象になっているというよりも、国の大切な折々にこの国に皇室があってよかった、と、国民が心から安堵して喜ぶことのできる皇室でありたいと思っています」

 この皇后陛下の御言葉に対して、著者は次のように述べます。

 「たとえば、阪神大震災のとき、皇后陛下は、御所の庭に咲く水仙の小さな花束を瓦礫の山に供えられた。偶然とは思えない一致だが、たまたまその場所は、震災の日に新装開店する予定の花屋のあったところだった。
 花屋は、すべてが崩壊した瓦礫の中で、開店の望みなど消し飛んでしまい、絶望的になっていた。しかし、皇后陛下のこの祈りに満ちたご行為に励まされて、花屋は一生懸命資金を集め、店を開店したのだった。
 その花束はドライフラワーになって今でも保存されているという。神戸の住民は、心から『この国に皇室があってよかった』と思ったにちがいない」

 花といえば、本書の最後も、次の感動的な花のエピソードで終わっています。

 「それは両陛下が、ある避難所を訪ねられたときのことだった。1人の女性が、皇后陛下に小さな水仙の花束を差し出した。聞けば、それは、瓦礫と化したその女性の家の庭に咲いていた花だと言う。皇后陛下は優しく『いただいてもいいですか』とおっしゃってその花束を受け取られた。お帰りの乗り物に乗られるときも、その花束は皇后陛下の手にしっかりと握られていたのである。健気に咲く水仙は、被災した人を慰め、皇后陛下を慰め、被災者は、皇后陛下の手にしっかりと握られた花束に、再び大きな慰めを受けただろう。皇室と国民がしっかりと心を寄せ合った瞬間だったと言えるのではないだろうか」

 偉大なブッダ、イエスといった「人類の教師」とされた聖人にはじまって、ガンディー、マザー・テレサ、ダライ・ラマなど、人々の幸福を祈り続けた人はたくさんいます。しかし、日本という国が生まれて以来、ずっと日本人の幸福を祈り続けている「祈る人」の一族があることを忘れてはなりません。本書を読み終えたわたしは、慎んで以下の歌を詠みました。

    聖人は仏陀孔子にソクラテス 
             イエス・キリスト天皇陛下    庸軒

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