No.0752 死生観 | 社会・コミュニティ 『ひとりで死んでも孤独じゃない』 矢部武著(新潮新書)

2013.07.02

 『ひとりで死んでも孤独じゃない』矢部武著(新潮新書)を読みました。
 「『自立死』先進国アメリカ」というサブタイトルがついています。著者は1954年、埼玉県生まれのフリーライターです。70年代半ばの渡米以来、日米の両国を行き来し、取材・執筆活動を続けているそうです。「ロサンゼルスタイムス」紙東京支局の記者も務めたことがあり、アメリカに関する著作がたくさんあります。

 本書の帯には「『孤独死』から『自立死』へ」「おひとりさまでも なぜ最期まで元気なのか?」と書かれています。
 また、カバーの折り返しには、次のような内容紹介があります。

 「身体が悪くなっても、子供が近くにいても、アメリカの老人は最期まで極力ひとりで暮らそうとする。個人の自由と自立こそ、彼らが最も重んじている価値だからだ―。高齢者専用住宅、配食サービスのNPO、複数世帯がつかず離れずで暮らすコーハウジングなど、独居老人と社会の紐帯を確保するためのさまざまな取り組みを紹介すると共に、『自立死』を選ぶアメリカ人の姿から、日本の高齢者支援のあり方も考える」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

「プロローグ」
第一章:一人で生きることを前提にした社会
第二章:独居死、必ずしも「孤独死」ならず
第三章:不幸な結婚生活による「同居の寂しさ」
第四章:100歳を過ぎても働き続けたい
第五章:独居者の孤立を防ぐ地域支援体制
第六章:コーハウジングという住み方
第七章:「おひとりさま」の不安を取り除くために
「エピローグ」
「主要参考文献」

 「プロローグ」で、著者は「日本ではいま、独居者が誰にも看取られずに死んで、何週間も経ってから発見される孤独死が深刻な問題になっている。悲惨な孤独死をする人は友人や社会的つながりをほとんどもたず、生前から孤立している人が多い」と書いています。では、なぜそうなってしまうのでしょうか。そこには、以下のような3つの日本特有の事情が関係していると述べます。

 第1に、単身世帯(単身者)が増える中で、家族の絆や職場のつながりが急速に失われていること。
 第2に、日本人は家族以外の人との付き合いが少なく、社会的インタラクション(互いに働きかけ合う行為)もさかんではないため、孤立しやすいこと。
 第3に、介護保険や生活保護などを含め従来の社会保障システムが家族世帯を前提に設計されているため、最近の単身世帯の急増にうまく対応できていないこと。

 このように単身世帯の増加が、現代社会における大きな問題であるわけですが、じつは、単身世帯の増加は日本に限らずほとんどの先進国で起きているそうです。これは世界的な傾向であり、日本のメディアは、「2030年には単身世帯が全体の4割に迫る。それが孤独死の急増につながるのではないか」と大騒ぎしていますが、北欧諸国ではすでに4割近くになっているといいます。これらの事実を踏まえて、著者は次のように述べます。

 「日本のメディアは、『孤独死、孤独死・・・・・』と少し騒ぎすぎではないかと思う。その結果、人々の不安が高まり、10代や20代の若者までが『孤独死する老人は将来の自分の姿ではないか』と真剣に悩んだりしている。この年代の人たちが『これからどう生きるか』ではなく、『誰にも看取られずに死んだらどうしよう』などと心配しているのは少し異常な状況だ。メディアは悲惨な孤独死の実態を報じるだけでなく、なぜこのようなことが起きているのかを冷静に分析し、どうすれば独居者の孤立と孤独死を防げるのかも含めて報道した方が問題解決に役立つのではないか」

 そして、「プロローグ」の最後に、著者は「要は一人で亡くなることが問題なのではない。友人や社会的なつながりをもたず孤立したあげくに一人で亡くなり、死後何週間も発見されずに遺体が腐敗し、他の人に迷惑をかけてしまうことが問題なのだ。これを防ぐには日本の社会全体が独居者の自立を支援し、孤立を防ぐ社会システムをつくりあげることが必要だ」と書いています。そのための具体的な方法を、著者は本書でアメリカの事例を参考にしながら紹介してくれるそうです。

 第一章「一人で生きることを前提にした社会」の冒頭で、著者は述べます。

 「米国には個人の自由、自主独立を大切にし、できるだけ人に頼らず自立して生きることを重視する伝統・文化がある。従って、米国人は歳をとって体力が衰え、精神的に不安で心細くなっても、子供や孫と一緒に住もうとは考えない。たとえ何らかの障害や病気をかかえていても、可能な限り長く住みなれた自宅で自立した生活を続けようと努める。それがいよいよ難しくなれば、老人ホームや介護施設などへの入居を考える。
 米国人高齢者の多くは子供に老後の面倒をみてもらいたいとは考えていない。それは子供に負担をかけたくないということ以上に、彼ら自身が最後まで自由と自立を大切にしたいという気持ちが強いからである」

 さて、高齢者の生活を考える上で、葬儀の問題を避けては通れません。著者は、次のように葬儀についても述べています。

 「一人で生きることを前提とした社会では葬儀の準備まで自分で行う人が多い。自分が亡くなった後、家族や親族に迷惑をかけないために生前にその準備を済ませておくのだ。これは葬儀生前予約と呼ばれるが、予め『どういう葬儀にしてほしいか』を葬儀社のスタッフと相談して決めておく。たとえば、亡くなった場所(自宅、高齢者専用住宅、病院など)からの遺体の搬送、エンバーミング(遺体防腐・修復処置)、通夜、葬式などをすべて含むフルサービスの葬儀にするか、あるいは通夜や葬式はなく、火葬して遺灰をまくだけの直葬にするかなどだ。どちらにするかで料金は異なるが、さらに葬儀をより豪華にしたい人はマホガニー材の棺を選ぶこともできる。
 葬儀料金は予め葬儀社に支払うが、生前予約者は葬儀保険に加入して3年か5年くらいの分割払いも可能だ。あるいは葬儀料金を生命保険から引き出す形にしている人もいるという」

 第二章「独居死、必ずしも『孤独死』ならず」では、ソーシャルワーカーの役割について考えさせられました。ソーシャルワーカー歴が17年になるという人物が「ソーシャルワーカーの仕事は居住者の生活の質(QOL)を高め、快適な生活を送ってもらうようにすること」と述べ、さらに次のように語っています。

 「孤立している人たちにはいくつかのパターンというか、共通点があるという。たとえば、子供の頃に親や兄弟姉妹などから受けた幼児・性的虐待、家庭環境などで身についてしまった麻薬依存、劣悪な教育環境などだ。これらが原因で他人や社会を信じられなくなり、人間関係をうまく築けなくなってしまった人が多い。従って、孤立している人には些細なことから始めるように助言する。たとえば、部屋にずっと引きこもっている人には1日1回、あるいは1週間に1回でも部屋から出て、下のロビーに降りてきてスタッフに『ハーイ』と声をかけるように促す。それが孤立状態を抜け出すための大きな一歩になるからだ。それができれば少しは自信や喜びが生まれ、次に外へ出て地域の人に声をかけ、社会的なつながりをもったり、ボランティア活動をしたりということにもつながるという」

 また、「貧しい独居者でも餓死しない理由」には次のように書かれています。

 「日本では生活保護の申請を拒否されたり、受給を打ち切られたりした独居者が餓死するという痛ましい事件がしばしば起きている。一方、米国では貧しい独居者が多いにもかかわらず、このような餓死事件をほとんど聞かない」

 それにはいくつかの理由があるといいます。2つの理由が以下のように紹介されています。

 「まず、米国では数千万人の貧困者に食料品を買うためにフードスタンプ(食料クーポン)が支給されていることだ。フードスタンプは、最下層の貧困者が餓死することを防ぐ目的で、1964年に始まった制度である。連邦政府が補助金を出し、各州が配給の手続きを行っているが、クーポンの使途は食料の購入に限られる。一定収入以下の基準を満たせば単身者でも家族世帯でも受給でき、支給額は単身者で毎月150ドル前後である。1人分の食料としてこれだけ買えれば餓死は防げるだろう」

 「2つ目の理由はNPOが大きな力をもち、貧困者・路上生活者などの救済活動を積極的に行っていることだ。実際、米国のホームレス支援センターなどを取材すると、シェルター(一時宿泊施設)、食事提供、雇用支援、医療ケアなどをまとめて行う支援体制に驚かされる。人口約70万のサンフランシスコにはこの種の支援センターが数十カ所あり、多くは寄付や助成金などで運営されている」

 そして、「孤独死した人にも人間的な尊厳を」というくだりが強くわたしの印象に残りました。著者は、次のように書いています。

 「市ではその人に身寄りがなければ(遺族と連絡が取れなければ)遺体を火葬し、共同墓地に撒くことになる。しかし、エングルスタイン氏は『それでは寂しすぎる』と考え、約10年前から身寄りがなく孤独死したスープキッチンの関係者を追悼するメモリアルを始めた。ほとんどはスープキッチンで食べたりボランティアをしていた人たちだ。高速道路の高架の下で寝泊まりする生活を長く続けたあげくに亡くなった路上生活者や、空き缶のリサイクルなどでわずかなお金を稼ぎ、シェルターで寝泊まりしていた高齢者などもいた」

 わが社は、もともと「孤独死のない社会」をめざして、隣人祭りの開催をサポートしています。しかし、それでも孤独死をされる方というのは後を絶ちません。わが社では亡くなられたホームレスの方々の葬儀を無料で提供させていただいています。
 ホームレスの方が亡くなった場合、行政からいくばくかの葬儀費用が出るのですが、小額のため大手の葬儀社や互助会は引き受けたがないという事情がありました。それを聞いて、わたしは「まさにわが社の出番」というか、お役に立たねばならないと思いました。そして、ホームレスの方の葬儀を無料で提供させていただくことを決定したのです。
 わが社では、「死は最大の平等である」との理念を大事にしています。
 死のセレモニー、すなわち葬儀も平等に提供されなければなりません。
 青臭い理想と言われるかもしれませんが、今の社会や企業に最も必要なのは、まさに「青臭い理想」ではないでしょうか。

 そんなわたしにとって、次のくだりも心に残りました。サンフランシスコの貧困者に食事を無料で提供する「スープキッチン」という施設を紹介した後、次のように書かれています。

 「大切なのは、『私たちはあなたのことを忘れない。私たちの心のなかでずっと生き続ける』と確認することだという。
 スープキッチンの建物の壁には大きな緑の葉の”追悼ツリー”が描かれているが、そこに亡くなった人の名前を書き込んでいく。私が取材した2011年4月の時点で、数百人の名前が刻まれていた。たとえ孤独死だったとしても、彼らは他の仲間と同じ枝・幹でつながっているのでもはや一人ではないということだ。メモリアルの後で、故人と長く疎遠になっていた家族や親族がスープキッチンを訪ね、追悼ツリーに刻まれた名前を見たり、思い出話を聞いたりして涙を流すこともあるという。

 第三章「不幸な結婚生活による『同居の寂しさ』」に、こう書かれています。

 「多くの社会学的な調査が、『既婚者の方が独身者より幸せだ』という結果を示している。ただ、それはあくまで結婚生活がうまくいっている場合である。米国では夫婦関係が破綻しているにもかかわらず、いっしょに住み続けている人たちのことを”リビング・トゥゲザー・ロンリネス(同居による寂しさ)の悲劇”と呼んでいるくらいだ」

 ここで、著者はアメリカにおける「離婚」の問題に触れ、次のように述べます。

 「米国で離婚が増えている理由としてよく言われるのが、離婚に対するネガティブなイメージがなくなったこと、経済的に自立した女性が増えたこと、カップルの形態が多様化したこと(同意した者同士なら従来の結婚という形式をとらなくてもよい)などだ。さらにもう1つ加えるとすれば、教会や結婚カウンセラーなどが離婚防止にあまり役立っていないことである。教会は結婚するカップルに『何があってもお互いに助け合い、生涯添い遂げる』という誓いを立てさせるが、結婚後に発生するさまざまな問題をどう解決していくかをあまり教えないし、そのための支援もほとんどしていない。結局、クリスチャンであっても個人の自由、権利、自立などを徹底的に追求する米国人の生き方は簡単には変えられないのではないかと思う」

 第五章「独居者の孤立を防ぐ地域支援体制」には、こう書かれています。

 「ボランティアが高齢者の家を訪れる時は、花をもっていくようにする。ソーシャルワーカーなどの訪問とは違い、”友人”としてきたということを知らせるためだ。きれいな花を見て会話が始まったりすることもあるので、社交的な潤滑油の意味もある。高齢者の多くはバラ、チューリップ、ヒナギクなどの花を好むという」

 わたしも『花をたのしむ』(現代書林)で同じような内容の文章を書きました。

 第六章「コーハウジングという住み方」の冒頭には、日本の孤独死に対するアメリカ人の違和感が次のように書かれています。

 「米国で独居者の支援をしているソーシャルワーカーなどに日本の孤独死の実態について話すと、皆驚いて言葉を失う。死後何週間も経ってから遺体が発見され、その遺体を悪臭のなかで片づける遺品整理屋というビジネスが存在することも、米国人には信じられないようだ。
 米国は一人で生きることを前提にした社会だからこそ、その問題点もよく認識し、政府やNPO、企業などが独居者の孤立を防ぐ支援サービスを積極的に行っている。ところが日本では、単身世帯が増加するなかで家族の絆や職場のつながりがどんどん失われ、孤立する独居者が急増している。メディアも「孤独死」に注目し、結果的に人々の不安を煽るような報道を繰り返している」

 また、第七章「『おひとりさま』の不安を取り除くために」には、「日本人の社会的孤立度は先進国で最悪」として、次のように書かれています。

 「経済協力開発機構(OECD)が加盟20カ国を対象に行った調査(2005年)によれば、日本人の社会的孤立度は先進国で最悪レベルにある。
 これは、友人、同僚、文化グループなど家族以外の人と、『全く付き合わない』『めったに付き合わない』と答えた人の割合を比較したものだが、日本は15%と20カ国中、最も多い(1位)。家族以外の人とあまり会わないということは社会的なつながりが弱く、孤立しやすいことを示している。一方、米国は3.1%(18位)で、日本とほぼ正反対の状況になっている」

 このように社会的孤立度が先進国で最悪とされた日本ですが、新しい取り組みも始まっています。その一例として、東京都大田区の試みが紹介されています。

 「日本の超高齢化社会に対応するべく、2000年に始まった介護保険制度もいま大きな問題に直面している。そもそも介護保険は、家族がいることを前提にした制度設計になっているため、単身世帯が急増している状況に効果的に対応できないからだ。
 東京都・大田区地域包括支援センター入新井センター長の澤登久雄氏は、『介護保険は限界です』と言い切る。
 そして、その澤登氏は「介護保険は本人が申請し、要介護認定の審査を受けて認定され、初めて受けられる制度です。でも、介護が必要になる時期など誰も予測できない。ある日突然、自分に介護が必要になり、”ああ、介護が必要になっちゃった。地域包括センターへ行かなきゃ”と申請に来られる人などいません。その時は皆、病院ですよ」と発言しています。

 澤登氏は、地域の自治会・町会、民生委員、NPO、介護関係事業者、企業などと連携し、窓口に来ない高齢者を支援するための”おおた高齢者見守りネットワーク”(以下、見守りネットワーク)を設立しました。
 そして65歳以上の高齢者の緊急対応などに必要な情報(住所、氏名など)を”SOSみま~もキーホルダー登録システム”(以下、みま~もシステム)に登録し、個々にキーホルダーを身につけてもらうようにしたそうです。
 そうすれば彼らが外出先で倒れて救急病院に搬送された場合でも、キーホルダーに入新井センターの連絡先が記載されているのですぐに身元確認ができるからです。また、認知症の高齢者が徘徊した場合も、キーホルダーがあれば警察などがすぐに身元確認できるわけです。

 そして、話題はついに有料老人ホームへと及びます。本書には、次のように書かれています。

 「有料老人ホームはピンからキリまであるが、ピンでもかなり高い。入居時費用が200万円から400万円くらい、他に月々の利用料が20万円から30万円くらいかかる。しかも部屋はあまり広くないので、家財道具をほとんど処分しないと入居できない。私が取材した限りでは、老人ホームの安い高いは結局、見た目の豪華さだけで(ロビーや廊下を大理石にするとか)、高いからといって職員の配置が手厚いということではないようだ。ギリギリの職員体制でやっている所が多く、多くはオムツの交換や食事配膳・介助だけで手一杯だという」

 これは、わたしがいつも発言していることと同じです。

 わが社は昨年から介護事業に進出し、初の施設である「隣人館」の1号店が福岡県飯塚市にオープンしました。隣人館の月額基本料金は78000円となっています。その内訳ですが、家賃:33000円、管理費:5000円、食費:40000円です。まさに、究極の地域密着型小規模ローコストによる高齢者専用賃貸住宅なのです。飯塚市の次は、北九州市八幡西区折尾に2号店を計画しています。当初は自社遊休地へ建設しますが、将来的には伊藤忠商事をパートナーとして全国展開を図りたいと思っています。ぜひ、介護が深刻化している大都市圏でも隣人館を展開したいと考えています。

 現在の日本における高齢者介護施設には2つの問題があります。
 1つは、民間の介護施設は費用が高額で、限られた人しか入居できないという問題です。もう1つは、公的な老人介護施設は低額な費用で済みますが、数が少なくて何年も入居を待たされるという問題です。
 そうなると、もう具体的な解決策は民間が低額な施設を大量に作るしかないわけです。現在でも全国一安い価格設定と話題になっていますが、将来的には「公的年金の範囲内ですべて賄う」という制度設計をめざしています。
 また、有料老人ホームだけでなく、独居高齢者の支援サービスも計画しています。独居高齢者について、本書には次のように書かれています。
「マスコミ報道の影響からか、最近、独居高齢者に部屋を貸さない大家さんが増えているという。貸したい物件は山ほどあるというのに、だ。もちろん『孤独死でもされたら、その部屋をしばらく貸せなくなってしまう』という心配は理解できる。だからこそ、独居高齢者の支援サービスは喫緊の課題と言える」

 わたしは、この事業は「人は老いるほど豊かになる」という長年を考えを実現するものであり、人間尊重を実行するという意味で「天下布礼」の一環であると思っています。大事なポイントは「孤独死をしない」ということです。隣人祭りをはじめとした多種多様なノウハウを駆使して、孤独死を徹底的に防止するシステムを構築することが必要です。
 「隣人館にさえ入居すれば、仲間もできて、孤独死しなくて済む」を常識にしたいです。全国の独居老人にも、どんどん隣人館に入居していただきたいと真剣に願っています。いよいよ、長年あたためてきた「理念」を「現実」に移す時が来たと思っています。

 本書の最後では、著者がこれからの日本社会を次のように予測しています。

 「日本では生涯未婚者や配偶者と死別した独居高齢者などの増加で、20年後の2030年に単身世帯が4割に迫ると予測されている。いま家族といっしょに住んでいる人も将来1人暮らしになる可能性はあるわけだが、単身世帯の増加がそのまま、独居者の孤立と孤独死の増加につながるとしたら不幸である。日本がいま緊急に取り組まなければならないのは、家族世帯を前提にした従来の社会システムから単身世帯(独居者)を前提にしたシステムに設計し直すことである。それによって、おひとりさまの不安はかなり解消されるだろう」

また、著者は哲学者のニーチェを持ち出します。そして、「孤独死」ではなく「自立死」を次のように提唱します。

 「ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、『見捨てられていることと、孤独とは別のことだ』と言った。つまり、社会的に孤立した生活を送ったあげくに一人で亡くなる『孤独死』と、人とのつながりをもって一人暮らしを楽しみながら亡くなる『自立死』は異なるということだ。社会的なつながりがあれば孤独死は防げるし、家族がいなくても友人がいれば一人暮らしを楽しむことができる。自立して生きる、そして自立したまま死んでいく。『自立死』とはそういうことだ」

 「エピローグ」で、著者はサンフランシスコにある禅センターと病院が共同運営しているホスピスを訪ね、次のように書いています。

 「この禅ホスピスでは仏教の無常観の教えや瞑想の実践などを取り入れながら、死をむかえる患者の心のケアを行っている。大切なのは、『死は悲劇ではない』と認識してもらうことだという。つまり、この世にあるすべての存在は移り変っていくように、人生には必ず終わりがある。死ぬことは人生の一部なので、恐れる必要はないし、死は悲劇ではない、と」

 この考えは、わたしには非常に親しみのある考え方です。

 著者は、さらに禅ホスピスについて次のように報告しています。

 「仏教国に生まれ育った私たち日本人が、死を悲劇として考える傾向が強いというのは皮肉なことだ。禅ホスピスでは毎週金陽の夕方、患者やスタッフ、ボランティアがいっしょに飲食しながら話をする『ハッピーアワー』を設けている。死を間近にした患者たちがお互いに話をして笑ったり、誕生日を祝って喜んだりしている姿を見ながら、私は不思議な気持ちになった」

 「ここの患者の多くは低所得者で身寄りのない人たちだが、最後はスタッフやボランティアに看取られて死んでいくという。それでも、スタッフが強調したのは、死ぬ瞬間に誰に看取られるかではなく、最後までどう生きたかが重要であること、そして肉体はなくなっても魂は残るということだ」

 「エピローグ」の最後に、著者は次のように述べています。

 「孤独死の最大の問題は一人で亡くなることではなく、遺体がなかなか発見されずに腐敗したりして他人に迷惑をかけてしまうことである。従って、一人暮らしの人は緊急の場合に備え、亡くなったことを誰かにできるだけ早く知らせるための準備をしておく。そうすれば、あとは自由気ままな生活を楽しみ、最後は自立したまま”自立死”すればよいのではないか」

 この最後の「最後は自立したまま”自立死”すればよい」というのは、あまりにも安易というか無責任な印象があります。

 本書は、主に米国の単身高齢者向け福祉を紹介しています。それを基に、孤独死の急増が問題となっている日本の現状に疑問を投げかけています。
 しかし、アメリカの事例を詳しく取材している一方で、日本における現在の孤独死防止策についての知見が薄いことから、「こんなことをアメリカでやっているから、日本でもやればうまくいく」という安易な発想になっているように思います。

 「日本のメディアは、『孤独死、孤独死・・・・・』と少し騒ぎすぎではないかと思う」と著者は言いますが、もともと個人主義の強いアメリカと日本は異なる歴史と国民性を持っており、その反応が違うのも当然ではないでしょうか」

 たしかにアメリカの最新事例を紹介した好著なのですが、それを単に列挙するだけにとどまっている点は残念でした。

 でも、「エピローグ」での禅ホスピスのエピソードは印象に残りました。
 「老い」の問題は、最終的に「死」の問題に行き着きます。わたしたちは、もっと「死」を直視する社会を創造しなければなりません。『ハートフル・ソサエティ』(三五館)にも書いたように、「死」の 問題を抜きにして、人間の幸福は絶対にありえません。「死」の問題を突き詰めて考えた哲学者にキルケゴールがいます。

 1849年に彼が書いた『死に至る病』は、後にくる実存哲学への道を開いた歴史的著作ですが、ち ょうど100年後の1949年に、かのピーター・ドラッカーがキルケゴールについてのすぐれた論文を書きました。論文のタイトルは「もう一人のキルケゴール~人間 の実存はいかにして可能か」です。
 ここでドラッカーは、人間の社会にとって最大の問題とは「死」であると断言し、 人間が社会においてのみ生きることを社会が望むのであれば、その社会は、人間が絶 望を持たずに死ねるようにしなければならないと述べています。
 そして、人間の思考の極限まで究めたこの驚くべき論文の最後に、「キルケゴールの信仰もまた、人に死 ぬ覚悟を与える。だがそれは同時に、生きる覚悟を与える」と記しています。

   人々に「死ぬ覚悟」と「生きる覚悟」を与える社会

 来るべき「心の社会」とは、「死」を見つめる社会であり、人々に「死ぬ覚悟」と「生きる覚悟」を与える社会に他なりません。それは「死」という人類最大の不安か ら人々が解放され、真の意味で心ゆたかになれる、大いなる「ハートフル・ソサエティ」です。
 また、仏教では「生老病死」を苦悩とみなしています。「生きる覚悟」と 「死ぬ覚悟」は「老いる覚悟」と「病む覚悟」にもつながっていることを、けっして忘れてはなりません。

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