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死をみるとき』

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No.0754

 

 『死をみるとき』石原裕次郎・石原まき子著(青志社)を読みました。

 サブタイトルは「裕さんが書き遺したもの」です。そう、本書は1987年に肝細胞ガンで逝去した昭和の大スター・石原裕次郎さんの闘病の記録なのです。本書は、1999年に刊行された『妻の日記』石原まき子著(主婦と生活社)を再編集して、新たに裕次郎さんの日記手帳と、まき子さんの書き下ろしで構成されました。A5版のハードカバーで、392ページという堂々たる本です。

 

 本書の帯には、元気な頃の裕次郎さんとまき子婦人の幸せそうなツーショット写真とともに、「完全未公開写真119点掲載」「没後25年、初めて全面公開された石原裕次郎の日記、そして妻・まき子の看護日記」と書かれ、最後に「夫婦は歳月の海でなにをみたのか」と大書されています。また帯の裏には、「よくぞ、ここまで書いた。」と大書され、「大スターである夫の尊厳を問う壮絶な終末医療日記」「妻はそのとき修羅と化した。」と書かれています。


 本書の構成は、以下のようになっています。

 

「裕さんの悲鳴」
一章:EMERGENCY 緊急事態
   昭和53年 舌の手術
   昭和54年 ガンの疑い
   昭和56年 裕さん死ぬの?
   昭和57年 やっと歌える
   昭和58年 患部が縮小した
二章:足腰の衰弱ひどし、回復まで道遠し
   昭和59年 老人のごとく歩き出す
三章:このままだと、二年くらい先には車椅子かなあ
   昭和60年 映画の夢叶わず
四章:生涯を共にする相手と心が離れて行く
   昭和61年 食欲不振、幼児並み
五章:夜中 死を見た 恐怖
   昭和61年 慟哭の日々
六章:再入院、裕さんの後姿が悲しい、涙が出る
   昭和62年 さようならハワイ
七章:大発熱、調子悪し 点滴 輸血
   昭和62年 笑顔なく 一言一言、目がうるむ


 本書の序文ともいうべき「裕さんの悲鳴」の冒頭は、次のように始まっています。


 「歳月という時の流れは想像以上に、めまぐるしく速く過ぎていき、ふと立ち止ったとき、残された人生の短さを改めて思い知り、いかにしてこれからの人生を大事にして生きるのか、ということを考えてしまうのです。
 裕さんが亡くなってから25年の歳月が時を超えていきました。
 長くかかった遺品の整理もすっかり片付きましたが、私の年齢を考えますと『私がいなくなったら、この遺品はどうなるんでしょう』と心配です。
 遺品には裕さんにガンの疑いがかかった昭和55年から肝細胞ガンで亡くなった昭和62年の夏までを綴った日記手帳8冊があります」


 まき子夫人は、今は亡き夫の心を声を聞いてみたいと思います。そして、「裕さんの悲鳴」は次のように終わっています。


 「裕さんの日記には何が書かれているのでしょうか。日記の中には何が見えるでしょうか。私は十三回忌にあたる平成11年に、裕さんの看護を記録した『妻の日記』を上梓いたしました。 

 この日記と、裕さんの日記をつなぎ合わせ、合わせ鏡にすることによって今まで知らなかった事実、聞こえなかった裕さんの心の声が、はっきりと聞こえてきそうです。
 初めて目にした裕さんの日記手帳には、さりげない日常から時代の出来事、仲間との交流、石原プロのみなさん、渡哲也さん、義母、そして私のことや病気と向き合う気持などが短い言葉ですが熱く吐露されています。
 行間に、その日の様子がまるで映像のように見えてくるのです。
 そして初めて目にする裕さんの悲鳴。      石原まき子」


 「昭和53年 舌の手術」には、次のように書かれています。


 「振り返ってみますと、二人の結婚生活27年間の間で、ほんとうに平穏だったのはわずか10年ぐらいです。あとは、繰り返し襲われた病魔との闘いの日々でした。結婚して初めてのお正月を迎えた昭和36年1月、スキー中の事故で右足を複雑骨折し、全治8か月という重傷、昭和46年には、キャンペーン先の秋田で倒れ、肺結核と診断されたのでした。その間、独立をして石原プロモーションを創立、映画『黒部の太陽』『栄光への5000キロ』の大ヒットを出したものの、苦難の道が続きます。肺結核に加えて、当時の石原プロは映画の失敗などで経済的な苦境に立たされていました。
 でも、裕さんは、公私にわたる窮地にも耐え、8か月におよぶ熱海での長期療養の末にテレビという新しい舞台で見事にカムバックを果たしました。
 大病と経済危機を持ち前の気力と体力で乗り切ったばかりの裕さんに、またもや試練が襲いかかります。舌ガンの疑いです」


 この後、裕次郎さんの死に至るまでの壮絶な闘いは続くのでした。「昭和59年 老人のごとく歩き出す」には、次のように書かれています。


 「大動脈瘤の手術のあと、厳しい食事制限のため、一日の塩分摂取量はわずか6グラム。加えて口の中の病気を抱えているわけですから、なんとかして食べてもらおう、なんとかして体力をつけさせたいと必死に工夫をこらして食事作りをしなければなりません。
 私は一日の大半を台所で過ごし、残された時間を、不安定な精神の裕さんに付き添い励ますことに費やし、日記をつける状態ではなくなっていったのです。
 つらい、苦しい体験に耐えてきた裕さん、私がいちばん恐れたのは繰り返し襲う闘病に疲れ、生きる自信をなくしてしまうのではないか、という不安でした。裕さんの落ち込みと、倦怠感が激しくなっていった昭和59年4月から再び日記をつけ始めました。私の凍りつくような不安をどこかに吐き出していかないと、とても耐えられる状態ではなかったのです」


 裕次郎さんは、最も怖れていたガンに襲われました。本書には、そのときの様子がリアルに書かれています。


 「裕さんに肝臓ガンの宣告です。
 舌の悪性潰瘍、大動脈瘤、これ以上の最悪は考えられませんでしたから希望を打ちのめす宣告に体の震えが止まりません。
 このところ、原因不明の高熱と、激しい腰痛が続いていたため、念のためにと慶応病院で検査したところ、この結果が出たのです。しかも、肝臓ガンは進行しているというのです。この日、 裕さんと病院から戻った(小林)専務が硬い表情で、『ちょっと、奥さん・・・・・』
 囁くような声で呼びかけ、私を誰もいない部屋に連れていき、初めて裕さんが肝臓ガンであることを打ち明けてくれたのです。
 『どうして、裕さんだけが・・・・・』
 『なぜ、社長ばかりが・・・・・』
 私と専務は、そういって声を上げて泣いたのです。
 兄の慎太郎さんは、裕さんの肝臓ガンが発見されたとき、裕さんに告知するべきだ、といいましたが、私と専務はそれはできません、と反対しました。
 専務は、裕さんがガンだと知ったとき、裕さんの性格からして潔い死を選ぶのではないかと恐れたのです。どんなことがあっても、裕さんに、肝臓ガンであることを気づかれてはならない。

  それが、私と専務の"約束"だったのです。
 『奥さん、女優だったんでしょう。これから社長に芝居をしてほしい』この頃から裕さんはだんだんと人に会いたがらなくなり、電話にもほとんど出なくなっていったのです」


 人に会いたがらなくなったという裕次郎さんですが、本書にはまき子夫人から提供されたという大量の写真の中に、親しい人々と会って幸せそうに笑っている裕次郎さんの姿をたくさん見ることができます。
 自宅に招いたり、ハワイの別荘で会ったり・・・・・その顔ぶれがまた豪華で、兄の石原慎太郎や渡哲也らの石原軍団をはじめ、長島茂雄、勝新太郎・中村玉緒夫妻、藤竜也・芦川いずみ夫妻、山口百恵、松田聖子などなど。そのまま昭和の芸能史を辿るような貴重なプライベート・フォトが満載です。


 亡くなる前年となる昭和61年7月14日のまき子さんの日記は悲痛です。


 「一睡も出来ず、夕食の支度に入る。気が落ちつかず。昨夜の話をお手伝いの人達に気付かれないよう、努力をするのが益々つらい。胸が張りさけそう。
 金子氏より午前10時20分TEL。勇気づけて下さる。皆、一生懸命。遠藤氏、今朝6時までいて下さる。お願い、私は一人ぼっちになってしまう。裕さん、お願い、あなたに本当の事を知らすべきか、否か、知った上で最善をつくすべきか、知らせずいくべきか、5年前の解離性動脈瘤の時も、53年の舌の手術も15年前の結核も25年前の右足骨折も、どれもこれも身のちぢまる思いばかり。でも今度は最悪。どうなっているのか、ある人に"私と結婚してからは病気ばかりしている"とすごい言葉をいわれた。ほんとうに私が悪いのか、何をしたのか」


 そして、ついに「その日」がやって来ます。昭和62年のまき子夫人の日記です。


 「7月17日、まだ外が暗い明け方、専務より、『すぐに急いで来て下さい』とTEL。裕さんになにか。遠藤氏と急いで病院に向かう。病室にモニターの計器類が3、4台運び込まれてきた。担当医に、『何、これ、志水先生、どういうことなのですか。いいことなんですか、悪いことなんですか』と、問いかけたら、志水先生は黙ってうつむいてしまった―。
 7月17日午後4時26分
 慶應病院新館5号棟10階11号室において
 裕さん死去 享年 52歳」


 裕次郎さんの通夜は7月18日、告別式は19日に執り行われました。19日の午後1時30分出棺でしたが、本書の最後には棺に入った裕次郎さんの亡骸に泣いて取りすがるまき子さんの写真が収められています。そして、その写真には次のキャプションが添えられています。


 「まき子夫人は『一人であちらへ行くのにさみしくないように』と裕次郎さんの棺に愛らしい人形を入れて旅立たせた」
 じつは、本書の巻頭にも人形の写真が登場します。
 昭和37年の暮れ、裕次郎さんが生涯愛してやまなかったハワイをはじめて訪れた夫妻の写真に写っているのです。金髪でかわいい女の子の人形をまき子夫人が抱いてニッコリと笑っています。ついに子宝に恵まれなかった夫妻にとって、この人形は特別な存在だったのかもしれません。


 わたしは392ページある本書を一気に読了して、しばし呆然としました。凄まじい「生と死」のドラマを高密度で見せられた思いでした。裕次郎さんが亡くなったのは、わたしが高校生の頃です。亡くなる以前にもその闘病に関するニュースはつねにワイドショーを賑わせており、わたしは「この人は、いつも病気ばかりしてるな」と思った記憶があります。
 何度目かの入院をしたとき、裕次郎さんの映画デビュー作「太陽の季節」で共演した友人の長門裕之・南田洋子夫妻が見舞いに駆けつけた姿をテレビで見たことがあります。夫妻はレポーターの差し出すマイクに向かって、「どうして、裕ちゃんばかりがこんな目に遭わなければいけないのか・・・・・」と涙ぐんでいました。そのときのレポーター陣の先頭には、たしか梨元勝氏がいました。今では、長門裕之も南田洋子も梨元勝もこの世にはいません。世の無情を感じます。


 また、裕次郎さんの日記手帳には、当時の社会的事件や事故などがメモされていました。「ホテルニュージャパン火事32人死者」とか「日航機ツイ落 死者24名」といったように手帳に記されているのですが、死者の数まで正確に記録しているのには驚きました。もしかすると、裕次郎さんは遠くない将来訪れる自身の「死」を予感していたのでしょうか。


 わたしは大学生になってから裕次郎さんの魅力を知り、たくさんの出演映画をビデオで鑑賞し、多くのヒット曲をカラオケで歌いました。あのときは、ずいぶん年長者の印象がありましたが、わずか52歳で亡くなったのですね。わたしも50歳になりましたので、そのあまりにも若い死を惜しまずにはおれません。


 裕次郎さんが日本人誰もが愛した国民的スターであっただけに、本書を読む人はみな自分の親しい人の闘病記を読んでいるような錯覚に陥るはずです。
 実際のところ、わたしも本書を読みながら2013年1月に死去した義父のことが思い出されてなりませんでした。
 裕次郎さんは昭和9年生まれ、義父は昭和10年生まれとわずか1歳違いで、ともに慶應義塾大学の出身ですので、もしかするとキャンパスのどこかで会ったことがあるかもしれません。

 そんなことを思ったりしました。そして、裕次郎さんも義父も、ともに愛妻の献身的な看病の果てに人生を卒業していきました。

 壮絶な闘病の記録であり、愛情に満ちた夫婦の記録である本書は、昭和の『病床六尺』であり、『夫婦善哉』であるような気がします。合掌。