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今日は死ぬのにもってこいの日』

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No.0757

 

 『今日は死ぬのにもってこいの日』ナンシー・ウッド著、フランク・ハウエル画、金関寿夫訳(めるくまーる)を再読しました。

 出自が不明な白人女性ナンシー・ウッドが、ネイティヴ・アメリカンであるタオス・プエブロ族の古老たちから聞き出した伝承を詩と散文で綴ったものに、ネイティヴ・アメリカンの細密な肖像画が添えられています。

 帯には、宗教学者の中沢新一氏が「宇宙の流れの中で、自分の位置を知っている者は、死を少しも恐れない。堂々とした人生、そして祝祭のような死。ネイティヴ・アメリカンの哲学は、我々を未来で待ち受ける」との推薦文を寄せています。

 

 また本書の前そでには、次のように書かれています。

 

 「本書は、1974年にアメリカで出版されて以来、世界中のあらゆる世代の人々に読みつがれてきている。愛する人の死に際して、人々の心の支えとなったり、追悼式や結婚式、ユダヤ教の成人式、キリスト教のミサなどにおいても朗読されてきた。その詩は、無数の名詩選や教科書に転載されている」

 

 本書のすべてのページには、ネイティヴ・アメリカンの人生哲学が語られていますが、その核となっているのは、やはり彼らの死生観です。

 プエブロ族の古老たちは、大地への深い共生感とともに、万物は死ぬことによって再び生命を得るということ、つまり「人は死なない」という真理をシンプルな語り口で告げています。たとえば、彼らは次のような詩を残しています。

 

 長い間、わたしは君とともに生きてきた。

 そして今、わたしたちは別々に行かなければならない、

 一緒になるために。

 恐らくわたしは風になって 

 君の静かな水面を曇らせるだろう、

 君が自分の顔を、あまりしげしげと見ないように。

 恐らくわたしは星になって

 君の危なっかしい翼を導いてあげるだろう、

 夜でも方角がわかるように。

 恐らくわたしは火になって

 君の思考をえり分けてあげるだろう、

 君が諦めることのないように。

 恐らくわたしは雨になって 

 大地の蓋(ふた)をあけるだろう、

 君の種子が落ちてゆけるように。

 恐らくわたしは雪になって

 君の花弁を眠らせるだろう、

 春になって、花開くことができるように。

 恐らくわたしは小川となって 

 岩の上で歌を奏でるだろう、

 君独りにさせないために。

 恐らくわたしは新しい山になるだろう、

 君にいつでも帰る家があるように。

 『今日は死ぬのにもってこいの日』p.98~99)

 

 この詩は、かの「千の風になって」によく似ていますね。そういえば、「千の風になって」もネイティヴ・アメリカンによる詩ではないかと推測されていました。

 ネイティヴ・アメリカンの人々は、自然界における自分の位置を知っているがゆえに、死を少しも恐れないのでしょう。

 考えてみれば、もともと日本人の祖霊観は、きわめて彼らの精神世界に近いものです。それは日本民俗学の事実上のスタートとされている柳田國男の『先祖の話』の内容からも明らかです。死者は近くの山や森林に上って、そこから子孫を見守る。そして、風や光や雪や雨となって、子孫を助ける。正月には「年神さま」、お盆には「ご先祖さま」というかたちで、愛する子孫を守ってくれる。

 

 死者はどこか遠い世界ではなく、残された者のすぐ近くの自然のなかにいるのです。だから、風が吹いたら、あなたの今は亡き愛する人を思い出して下さい。雨や雪が降ったら、思い出して下さい。山を見たら、海を見たら、思い出して下さい。そして、夜空にかかる月を見たら思い出して下さい。あなたの愛する死者は、いつも、あなたの近くにいます。

 本書は、なんといっても「今日は死ぬのにもってこいの日」というタイトルが素晴らしいですね。これは本書に収録されている詩の1つに冠せられたタイトルである "Today is a very good day to die"の日本語訳です。

 もともと本書の原題は"MANY WINTERS"だったのですが、それを『今日は死ぬのにもってこいの日』という日本語に置き換えたのは大正解でしたね。

 この一篇の詩には、本書全体を貫く思想が見事に集約されているからです。

 その「今日は死ぬのにもってこいの日」とは、次のような詩です。

 

 今日は死ぬのにもってこいの日だ。

 生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。

 すべての声が、わたしの中で合唱している。

 すべての美が、わたしの目の前で休もうとしてやって来た。

 あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。

 今日は死ぬのにもってこいの日だ。

 わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。

 わたしの畑は、もう耕されることはない。

 わたしの家は、笑い声に満ちている。 子どもたちは、うちに帰ってきた。

 そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。

『今日は死ぬのにもってこいの日』p.39)

 

 訳者の金関寿夫氏は、本書全体に流れている思想の背景について、「訳者あとがき」で次のように書いています。

 

 「この詩集に現れる輪廻転生思想的言辞といい、『究極の理解』(all understanding)といった観念(悟りに似ている)といい、この詩人もまた、仏教、特に禅をかじった人かな、と怪しまれる。だが、どうやら、そうでもなさそうなのである。事実『禅』という言葉は、この本のどこにも出てこない。その点、かえって好感が持てる。今どき『禅』を口にしない文系アメリカ人は、探してもそう簡単には見つからないからである」

 

 わたしも、この詩集から漂ってくる香りは、禅ではなく、また仏教でもないように思います。むしろ、それは儒教の香りに近いような気がします。

 特に、儒教の「孝」の思想を強く感じてしまいます。

 そのことを拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書きました。

 

 「孝」というと、ほとんどの人は、子の親に対する絶対的服従の道徳といった誤解をしています。それは間違いです。死んでも、なつかしいこの世に再び帰ってくる「招魂再生」の死生観と結びついて生まれた観念が「孝」というものの正体なのです。これによって、古代中国の人々は死への恐怖をやわらげました。なぜなら、「孝」があれば、人は死なないからです。

 

 それは、こういうことです。死の観念と結びついた「孝」は、次に死を逆転して「生命の連続」という観念を生み出しました。亡くなった先祖の供養をすること、つまり祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することです。また、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになります。さらには、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は生き残っていくことになる。

 だとすると、現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きていることになります。わたしたちは個体としての生物ではなく一つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。

 

 これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚することです。

 ここで、「死」へのまなざしは「生」へのまなざしへと一気に逆転します。 この孔子にはじまる死生観は、明らかに生命科学におけるDNAに通じます。

 「遺体」とは「死体」という意味ではありません。人間の死んだ体ではなく、文字通り「遺(のこ)した体」というのが、「遺体」の本当の意味です。つまり遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのです。あなたは、あなたの祖先の遺体であり、ご両親の遺体なのです。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているのです。そうなれば、もう個体としての死など怖くなくなります。そういった前向きな死への覚悟を「今日は死ぬのにもってこいの日」という詩からも感じ取ることができます。「孝」はDNAにも通じる大いなる生命観。「孝」があれば人は死なないとは、そういうことです。

 

 古代中国人も、ネイティヴ・アメリカンの人々も、なによりも祖先の祭祀を重視し、それを熱心に行いました。あなたが祖先の祭祀を行ない、子孫の繁栄を願うことは、あなたが死なないためでもあるのです。

 そう、いのちは、つながっているのです!

 なお、『死が怖くなくなる読書』(現代書林)でも本書を取り上げています。