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「死」の博学事典』

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 No.0741

 

 これから、しばらく「死」についての本を紹介していきたいと思います。「死」の本ばかり紹介するなんて、まるで死神のような奴だと思われるかもしれませんが、それでも別に構いません。

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   わが書斎の「死」の本コーナー


 じつは「死」をテーマにしたブックガイドを刊行することになりました。タイトルは『死が怖くなくなる読書』です。版元は現代書林さんで、「出版寅さん」こと内海準二さんが編集を担当してくれます。


 そこで、新作執筆のために「死」の本を固め読みしましたので、備忘録の意味も兼ねて、その一部をこの読書館でも取り上げることにしました。その第1弾は、『「死」の博学事典』荒俣宏監修(PHP文庫)です。


 本書の表紙カバーの裏には、次のような内容紹介があります。


 「人は死んだらどうなってしまうのか。死ぬ瞬間には何が見えるのか。死後の世界はあるのか。死への恐れは克服できるか。不老長寿は可能か――。洋の東西を問わず様々な学問を通して研究されてきた、人生の最期。本書は、『5段階の死の受容プロセス』『延命治療の可能性』など、社会学・医学・心理学・宗教・哲学・生物学の視点から叡智を結集し、人類永遠の謎に迫る。あなたの死生観を見つめなおすための小さなバイブル。文庫書き下ろし。


 本書の「目次」は、以下のようになっています。


「監修者まえがき」
第1章:社会における死とは何か
第2章:医学における死の最新研究
第3章:心理学・精神医学は死をどうとらえているのか
第4章:宗教・哲学は死をどう考えてきたか
第5章:生物学における死の最新研究
「この本のまとめ」
「ブックガイド」
「主な参考文献」


 「監修者まえがき」で、荒俣宏氏は次のように述べています。


 「死がどういうものか誰にもわからないので、トリビアを積み重ねて推測するしか仕方がない。なぜなら、死の瞬間を迎えるときのわたしたちは、それを実感するだけの機能をおおむね喪失してしまっているからだ。しかも、死んだかどうかの判定を委ねている医師にしても、近年はその判断が変容している。自分が死んだのかどうか、実は視点や立場によって答えが変わる場合もありうる。
 このことに加え、もうひとつ大問題がある。死後には第二の生が待っているかもしれないという信仰の問題だ。極楽浄土に行ければありがたいが、地獄へ堕ちたら、たいへんな責苦に遭う。自分が死後にどっちに行くのか、これまた明確ではない。そこで人間は生きているうちに死の世界の情報を手にいれようと苦労せざるをえなくなる」


 本書は「死」の正体をつきとめたり、意味を深く考えるといった内容の本ではなく、あくまでも「死」についての知識や最新の情報を集めた雑学書です。でも、多角的な視点から情報が集められているので、参考にはなりました。
 また、すでに知っていることでも、本書ですぐ確認できるので便利です。
 たとえば、第1章「社会における死とは何か」の冒頭にある「日本の法律で死はどう定義づけられているか」では、全国に広まった高齢者不在問題が次のように取り上げられています。


 「2010年、東京都で111歳になっているはずの男性が、白骨化した状態で発見された。その後、戸籍や住民票などの公式記録上は生存しているにもかかわらず、既に死んでいたり、所在不明な高齢者がいるというケースが全国で続出。調査の結果、なんと100歳以上で安否確認のできない高齢者が約23万人、戸籍上150歳以上の高齢者が884人も生存しているという事態になった」


 ここで「生死を分けるのは遺族の届出次第」として、次のように説明されます。


 「日本では、事故や病気、老衰などの自然死の場合、死後7日以内(国外なら3ヵ月以内)に、各市町村役場で『死亡届』を提出することが戸籍法で定められている。死亡届には死亡を確認した医師の手による『死亡診断書』(殺人事件など変死となった場合は監察医による『死体検案書』を添付しなければならない。この死亡届が受理されることによってはじめて公式に死亡が認められるのだ」


 さらに法務省の見解では、120歳以上で子供がなく、住所確認がとれない場合は、法務省の許可を得て本籍地の自治体が戸籍から削除できます。100~109歳までは、自治体による調査によって死亡を判断し、同様の手順を踏むことになっています。


 「死因の変遷」と題された次のようなコラムも、誰でも知っていそうでだけれども、しっかり復習しておきたい情報です。


 「日本では明治期から終戦直後ごろまで、死因の1位は結核だった。しかしその後、抗生物質やワクチンの普及で結核死亡者は減少する。1955年には、死因の1位は脳梗塞などの脳の疾患、2位はガン、3位は老衰となった。1981年にははじめてガンが1位に浮上し、以降は現在まで死因トップの座にある(2008年段階で10万人あたり役332人)。とはいえ、ガンの罹患率が伸びているわけではない。平均寿命が延びて、ほかの疾患で亡くなる人が減った結果、相対的にガンによる死亡者が増えているのだ。なお、日本以外の欧米先進国では、ガンではなく心臓を含む循環器系の疾患が死亡の1位を占めている場合が多い」


 第3章「心理学・精神医学は死をどうとらえているのか」の冒頭にある「カウンセラーは死を迎える患者にどう対応するか」も興味深かったです。本書では、「心理カウンセラーには忍耐が必要」として、次のように書いています。


 「アメリカの心理学者カール・ロジャースは、『人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっている』として、患者が自分自身を受容していくことを促す環境作りをすることこそが、カウンセリングの基礎であると提唱した。
 つまり、患者の言葉を真摯に聞いて、こちらから何をするべきか、どう考えるべきかということを一切指示しないのである。患者は『どうして病気になったのか?』『どうして自分は死ななければならないのか?』といった疑問を口にする。時には1時間以上も同じことをくり返したり、支離滅裂なことを口走ることもある。
 ただ、そこで患者が求めているのは、医師からの説明でもカウンセラーからのアドバイスでもなく、ただ話を聞いて共感してほしいということだけなのだ。
 患者の話を黙って聞き、時には患部をさすってあげたり、手を握ってあげたりというスキンシップだけで、患者がカウンセラーを受け入れる。やがて患者自身が自分の問いに自然と答えを出し、死を受容していくようになるという」


 また、新フロイト派でユダヤ人心理学者のエーリッヒ・フロムの考えた「死の恐れを克服する方法」も次のように紹介されています。


 「フロムは、人は死ぬこと自体を恐れているのではなく、『持っているものを奪われることを恐れている』と考えた。死とは、それまで獲得してきた知識や財産、経験をすべて失うことだ。死ねば自分自身だけでなく、それら獲得してきたものもすべてなくなってしまう。現代社会は所有することで成り立っているので、この社会に生きている限り、死への恐怖は逃れようのないことである。
 そうした恐怖に対するフロムの考えは『命への執着をしないこと』である。あらゆるものへの執着を取り除けば死に対する恐怖も軽減される。人は死ぬまでは生き続けていられるし、死んだときにはいないのだからあれこれ悩んでも仕方がない。生への執着がなくなれば死への恐怖もまたなくなるということだ」


 そして、フロムによる「死の恐怖から逃れ生を愛する法則」は次の通りです。


 1.幼児期に常に周囲の人たちからの愛情に触れる
 2.自由であること
 3.脅威のないこと
 4.説教より実例で調和と強さを教えられること
 5.「生きる技術」の指導
 6.他人に奨励され反応すること
 7.楽しい生活の方法を知ること
 8.ナルシシズムからの脱出
 9.母親からの自立


 第4章「宗教・哲学は死をどう考えてきたか」も、よくまとめられています。近代哲学者たちの「死」への態度を大きく3つに分類しています。


 第1グループは、近代以前から信じられてきたキリスト教の伝統的な死生観を受け入れる態度で、デカルトやパスカルが代表です。
 第2グループは、逆にキリスト教の伝統的な死生観を否定します。そして死後の世界も魂の不滅も「ない」とする態度で、ドルバック、フォイエルバッハ、エンゲルス、マルクスらが代表です。
 第3グループは、生との関係において死を見つめる態度で、20世紀に活躍したハイデガー、サルトル、レヴィナスらが代表です。


 また、サルトルやレヴィナスと同世代のフランスの哲学者であるジャンケレヴィッチの「死の人称」も紹介されています。ジャンケレヴィッチが提唱した「死の人称」なる概念は、哲学とは異なった分野、たとえば医療や法律や報道などの分野で広く普及しつつあります。彼は、自分自身の死を「私の死」=「1人称の死」、家族や友人や恋人など親しい者の死を「あなたの死」=「2人称の死」、見ず知らずの他人の死を「彼らの死」=「3人称の死」と定義しました。本書には、次のように書かれています。


 「ジャンケレヴィッチによれば、人は『1人称の死』を想像することはできても、認識することはできないという。それが訪れるときには、本人が死んでいるからだ。『3人称の死』も同様。テレビニュースを通じて知った他人の死に、人は道場することはできても心の底から痛みを覚えたりはしない。唯一、『2人称の死』を通じて感じる喪失感こそが、人が実感できるというわけだ」


 わたしは『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)という本を書きましたが、ここでいう「愛する人」とは「2人称」にほかなりません。まさにグリーフケアとは、「2人称の死」に対して必要となってくるのですね。
 ちなみに、わが社が実践しているようなグリーフケアへの取り組みは、医療関係者をはじめ、多くの分野から注目されています。「死の人称」の考え方も、法律や報道の分野で求められているとして、本書は次のように書いています。


「これらどの分野でも、遺族への配慮は重要な課題だ。そしてその配慮とは、この温度差をどこまで埋められるかということにほかならない。『死の人称』なる概念は、それを認識する手がかりとして注目されている。哲学が実社会に影響を与えた好例であろう。哲学的に死を考察することは、無駄ではなかったのだ」


 さらに、「死をめぐる哲人たちの名言・名句」というコラムでは、以下のような言葉が紹介されています。


 「死はなんら恐ろしいものではない。なぜなら、私たちが生きているときそこに死はなく、死が現出したときそこに私たちは存在しないからだ」(エピクロス)、「死は『個』に対する『種』の冷酷な勝利のように見える」(マルクス)、「われわれが生まれたことが不条理なら、われわれが死ぬことも不条理だ」(サルトル)、「人間は、死ぬことを密かに望んだので戦争をしたのである。自己保存の要求は極めて深いものかもしれないが、死への欲情はさらに深い」(コリン・ウィルソン)


 「この本のまとめ」で、本書の執筆を担当したグループSKITの奈落一騎氏が、本書がさまざまな分野の学問の視点から「死」を扱っていることに触れます。そして、続けて次のように書いています。


 「どの分野においても共通しているものは、『死』は誰にでも平等に訪れ、絶対に避けられないという前提である。だからこそ、人は死を恐れる。あるいは、反対にできるだけ意識しないようにしようとする。だが、生きているものがかならず死ぬということは、『生』と『死』は不可分の関係にあるということだ。だから、『死』を恐れるということは、『生』を恐れるということであり、『死』から目をそらすことは、『生』から目をそらすのと同じことになる」


 そして、本書は少しでも「死が怖くなくなる」ために書かれた本であることを示した後、奈落氏は次のように述べます。


 「もちろん、『怖くなくなる』道筋は本書にある様々な分野から、好きなものを選んでもらって構わない。即物的に『死んだら無になるから気楽だ』と考えてもいいし、『天国に行けるから怖くない』と考えてもいい。あるいは『個体は死んでも遺伝子は受け継がれていく』ことに反応してもいいし、医学の進歩に期待するのもありだろう。それぞれが、自分にあった死との向き合い方を見つけてもらえばいいのだ」


 最後に、巻末の「主な参考文献」には、拙著『世界の「聖人」「魔人」がよくわかる本』(PHP文庫)、拙著『開運!パワースポット「神社」へ行こう』(PHP文庫)、拙著『100文字でわかる世界の宗教』(ベストセラーズ)と、3冊の「一条本」が並んでいました。敬愛するアラマタ先生が監修された本の参考文献とは光栄です!


 なお、拙著『死が怖くなくなる読書』(現代書林)でも本書を取り上げています。