No.0717 日本思想 | 死生観 『日本人の「あの世」観』 梅原猛著(中公文庫)

2013.04.29

 『日本人の「あの世」観』梅原猛著(中公文庫)を再読しました。
 わたしは、日本を代表する哲学者である著者の本をほとんど読みました。その中でも、本書は特に深い感銘を受けた一冊です。本書のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。

   わが書斎の梅原猛コーナー

 「古代史の再検討を通して次々と大胆な問題提起を行い、『梅原日本学』を展開してきた著者が、アイヌと沖縄の文化の中に日本の精神文化の基層を探る。日本人の『あの世』観の基本的特質が、生命の永遠の再生と循環にあることを明らかにし、併せて人類の文明の在り方を根本的に問い直す日本文化論集」

 そう、本書は複数の論考が収録されています。しかし、ここでは冒頭に収められている「世界の中の日本の宗教~日本人の『あの世』観」に焦点を当てたいと思います。

 著者は、冒頭の「日本の宗教とその儀式」において、次のように宗教が持つ2つの側面について書いています。

 「宗教というものは、2つの面を持っています。1つは教義の面です。もう1つは儀式の面です。すべての宗教はこの2つの面を持っていますが、この2つの関係は種々さまざまであります。教義が儀式と深い関係を持ち、両者が密接不可分な宗教もあります。キリスト教の場合は、この2つの関係がかなり密接であります。それゆえキリスト教を知るためには、まず『聖書』を読まねばなりません。しかしキリスト教においても、特にカトリックにおいては、必ずしもキリスト教の教義そのものと直接関係を持たないような行事が、その地方の教会の宗教的儀式の中に採り入れられている例も多多あります」

 しかし、それは日本の宗教においてほど著しくはないように思われると、著者は言います。そして、神道の本質について次のように述べています。

 「日本の神道は定まった経典というものをほとんど持っていません。
 それは、むしろ、祭りを中心とした宗教儀式体系であると言ってよいかもしれません。それゆえ、日本の神道の思想を問題にするには、祭りを中心とする儀式を精密に考察し、そこにいかなる思想が含まれているかを、注意深く考察する必要があります」

 神道と並んで、日本人の精神世界に多大な影響を与えてきたのが仏教です。この仏教は神道と違って、かなり強力な教義を持っていると指摘しつつ、著者は次のように述べています。

 「仏教の各宗派が、実際に大多数の日本人と関係を持ち、それによって、その経済的、精神的な成立基盤を保全しているのは、葬式を中心とする宗教儀式であると言えます。少し大袈裟に言うと、葬式と年忌、盆やお彼岸の行事を通じて、仏教は日本人と深く結びついているといえるのであります。仏僧は、葬式を中心とする、この死者供養及び祖霊崇拝の儀式の主宰者としての役割を担うものであります。それゆえ、僧が説教者であったり、人格者であったりすることは願わしいことでありますが、日本人にとって、それはあくまで二次的期待であって、一次的期待はあくまで葬式と先祖供養儀式の滞りのない執行者であることにあります」

 日本の仏教は「葬式仏教」などと呼ばれます。これについて、著者は「葬式仏教はまさに日本仏教の本質であり、運命である」と断言しつつも、どうして、本来、葬式とは何の関係も持たなかった仏教が、日本に来て葬式仏教となってしまったのかと疑問を呈します。

 「この問いは、日本の仏教、あるいは日本の宗教の根底に関する問題であります。葬式というのは、死者をあの世に送る儀式であります。日本の葬式で読まれる弔辞には、『一足先に、あの世に行って、待っていてくれ』とか、『あの世から見守ってほしい』とか、『あの世で安らかに眠っていてくれ』という言葉がよく語られるのです。とすれば、少なくとも葬式においては、日本人は今もなお、強いあの世の信奉者であり、あるいは信奉者であるような振りをしていることになります」

 ここで著者は、日本人の「あの世」観を明らかにする学問的方法を示します。
 それは、「まず最も古くから、おそらくは仏教移入以前から日本に存在し、それ以後においても、仏教の強い影響にもかかわらず、現在まで綿々と受け継がれている『あの世』観を、最も純粋な形で含んでいる宗教思想をとり出し、その原『あの世』観を元にして、その後の日本人の『あの世』観を考えること」でした。そこから、著者はアイヌと沖縄の「あの世」を考察していきます。著者によれば、アイヌおよび沖縄の「あの世」観は、次の4つの命題に集約されます。

 (1)あの世は、この世と全くアベコベの世界であるが、この世とあまり変わらない。あの世には、天国と地獄、あるいは極楽と地獄の区別もなく、従って死後の審判もない。

 (2)人が死ぬと魂は肉体を離れて、あの世に行って神になる。従って、ほとんどすべての人間は、死後あの世へ行き、あの世で待っている先祖の霊と一緒に暮らす。大変悪いことをした人間とか、この世に深い恨みを残している人間は、直ちにあの世へ行けないが、遺族が霊能者を呼んで供養すれば、あの世へ行ける。

 (3)人間ばかりか、すべての生きるものには魂があり、死ねばその魂は肉体を離れてあの世へ行ける。特に、人間にとって大切な生き物は丁重にあの世へ送らねばならない。

 (4)あの世でしばらく滞在した魂は、やがてこの世へ帰ってくる。誕生とは、あの世の魂の再生にすぎない。このようにして、人間はおろか、すべての生きとし生けるものは、永遠の生死を繰り返す。

  このうち(3)において、著者は「イオマンテ」すなわち熊の霊をあの世へ送る儀式に注目し、次のように述べています。

 「アイヌの人は山で捕まえてきた仔熊を飼い、ちょうど身が美味しくなる頃に、その身をいただいて、熊の魂をあの世に送り返すのであります。ここで最も重要なのは、人間が熊の魂とともに熊の肉を食べ、血をすすり、神(熊)と人との一体を誓った後に、熊の霊をあの世に送る儀式なのであります。それは夜の初めに行われます。この世の夜の初めは、あの世の朝であります。朝、あの世へ着けば、無事仲間の待っているところへ行けるというわけです。熊の魂は、酒や魚や穀類などの土産をどっさりもらって天に帰るわけですが、天に帰った熊は、天にいる熊の仲間を呼び出し、人間にもらった酒や魚や穀類で宴会を開きますと、仲間たちは帰ってきた熊の話を聞き、これほど厚くもてなされ、こんなに多くの土産を持って帰してくれる人間の世界はすばらしい、俺も行ってみようということになり、来年は熊がどっさりとれるというわけです」

 また(4)においては、「なぜ、アイヌや沖縄において、葬式が最も大切な宗教儀式であるか」がよく理解されるとして、著者は次のように述べます。

 「魂をあの世へ丁重に送るのは、再び魂をこの世へ送り返さんがためであります。魂がこの世に無事帰ってくるためには、まず、あの世へそれを無事送らねばならないのであります。熊送りの儀式の最後にアイヌの人たちは、『またおいで』と言います。この『またおいで』という言葉こそ、熊送りの儀式の隠れた意味を語るものでありましょう。それは、言ってみれば、豊猟の祈りの祭りでもあります。熊の魂を心から喜ばせて、あの世へ送ることによって、来年熊をこの世へ迎えることができるのであります。ドイツ語の『アウフ・ビーダーゼーエン(Auf Wiedersehen)』、『また会う日まで』というのが、熊送りという、和人にも西洋人にも、まことに奇妙に思われた祭りの真の意味でありますが、狩猟採集社会における人間生活を考えると、それはそれでまったく合理的な根拠をもっているのであります」

 わたしは、葬儀というものも「また会う日まで」の儀式であると思っています。わたしには『また会えるから』という著書、および作詞した同名のCDもありますが、わたしは「また会えるから」という考え方は世界共通であると思います。

 世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうですし、英語の「See you again」もそうです。フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。これは、いったい、どういうことでしょうか。

 古今東西の人間たちは、つらく、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるということを人類は無意識のうちに知っているのだと。その無意識の底にある真理が別れの挨拶に再会の約束を重ねているのだと。わたしたちは、別れても、必ずまた、再会できるのです。

 このような「世界共通」といった一種の普遍的な見方は、本書『日本人の「あの世」観』でも展開されます。著者は、「あの世」観というものが一体、世界の宗教史において、いかなる位置を占め、それがどのような意味を持つかという問いを立てます。
 そして、その問いの答えを求めるために、例えば、世界の多くの宗教の「あの世」観を精密に比較研究する必要があるとして、次のように述べるのです。

 「例えば仏教の、例えばキリスト教の、例えば回教の『あの世』観が、また古代シュメールや古代エジプトの『あの世』観、あるいは東南アジアの民族の『あの世』観、アメリカ・インディアンの『あの世』観などを、できるだけ正確に採集し、その類似と差異を明瞭にするとともに、その相互の関係を深く思索し、私がここで分析した、あの日本人の原『あの世』観が、どのように位置づけられるかを徹底的に研究する必要があります」

 著者は、そのような比較研究を行うには多くの学者の共同研究が必要であるとして、次のように述べます。

 「私のような哲学者、あるいは宗教学者ばかりか、民族学者、文化人類学者、考古学者、歴史学者、言語学者など、国籍を異にする多方面の学者の協力が必要だと思います。もしも、こういう研究ができましたら、人類の宗教意識の発展を、いかなる宗教的偏見にもとらわれることなく解明することができ、それは人類の文化に大きく貢献し得ると思います。あるいは、それによって過去の人類の歴史の中で起こり、現在もなお存在している宗教を原因とする多くのトラブルの解決にも多少役立つかもしれません」

 わたしは、著者のこのスケールの大きな発想に感銘を受けました。そして、自身の学問的成果を世界平和に役立てようという志の高さに感動しました。拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「共感から心の共同体へ」で、わたしは「あの世」つまり「霊界」についての話題は人類共通の関心事であり、国家や民族や宗教を超えて会話する話題としては最適ではないかと書きました。そこでは、「宇宙」も人類共通の関心事であるとも述べました。
 すなわち、人類の究極の二大テーマとは「霊界」と「宇宙」なのです!

 それはともかく、「あの世」観の比較研究を夢みる著者は、仏教移入以前の古代の日本人が持っていた「あの世」観、いわば原「あの世」観について、人類の「あの世」観のごく原初的な形態であり、おそらくは旧石器時代に形成されたものではないかと推測し、次のように述べます。

 「私は、人類が『あの世』というものを考え始めた段階において、人類は飛躍的な知的進歩をしたと思いますが、今から何万年か前には、もうかなり精密な『あの世』観ができ上がっていたのではないかと思っています。そして、そのような『あの世』観は、長い時間をかけて、人類共通のものになっていったのではないでしょうか」

 さらに、著者は次のように続けます。

 「私が、日本人の原『あの世』観に、人類の原初的な『あの世』観の名残りを見るのは、そこに世界宗教といわれる都市文明の成立以後発展した宗教の『あの世』観と違って、天国と地獄、極楽と地獄の区別も、死後審判の思想も、因果応報の思想も認められないからです。まずあの世が成立し、そこに現世の人間の意志、あるいは願望が投影され、死後審判の思想や因果応報が加わり、果ては、天国と地獄、あるいは極楽と地獄の区別を生み出したに違いないのです。とすれば、日本人の原『あの世』観は、旧石器時代においてすべての人類に共通な原初的な『あの世』観を色濃く残しているのではないかと思うのです」

 著者は、日本人の原『あの世』観に代表されるプリミティブな「あの世」観には、2つの重要な思想が含まれていると主張します。
 1つは、生きとし生けるものの同根性と、その共存関係の重要性。
 日本の原「あの世」観にも、おそらくその影響によって生じたと思われる「草木国土悉皆成仏」という日本の仏教思想にも、強く、生きとし生けるものは、本来同じものという意識があると指摘して、著者は次のように述べます。

 「これは、従来の宗教学では、アニミズムと呼ばれて、未開民族の宗教の特性であると言われてきましたが、果たして、そう決めつけることができるでしょうか。確かに、文明は、このような考え方を否定する方向に進みました。都市文明の初めの段階、シュメールや古代エジプトには、半獣半人の神が多く出てきたり、古代ギリシャにもフクロウの神のアテーネーや白鳥に姿を変えるゼウスの神の話などが出てきますが、徐々に、神は人間的となり、超人間的な人格神が、西洋ばかりか、東洋においても崇められるようになりました」

 もう1つ、このような「あの世」観には、重要な思想が含まれていると、著者は言います。それは、生命の持続、あるいは生命の永久の循環という思想です。
 これはかのショーペンハウエルやニーチェといった哲学者たちも注目した思想ですが、著者は次のように述べています。

 「私は、生命の永遠の循環の思想こそ、まさに生命の真相であり、人間というものも、そのような生命の流れの中にあるものとしてとらえる必要があると思います。それは、人間から世界ではなく、世界から人間を、つまり宇宙の大きな運動から人間を見る世界観であります。人間は、もう一度、現在まで人間がとってきた人間中心、自我中心の世界観を反省し、大きな宇宙運動の中に、生命の永遠の循環運動の中に自分を位置づけねばなりません。この点について、この原初的世界観は、かえって人類の将来の思想のあり方に大きな示唆を与えるのではないでしょうか」

 この「世界の中の日本の宗教~日本人の『あの世』観」は、1988年3月、国際日本文化研究センター主催の「第1回国際研究集会における公開基調講演」として語られました。日本人の他界観に関する重要な問題を網羅しており、しかもその視線は確実に人類全体をとらえています。

 本書は、梅原哲学のスケールの巨大さを知る最適の一冊であると思います。

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