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オカルト』

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No.0654

 

 『オカルト』森達也著(角川書店)を読みました。

 

 著者は、ドキュメンタリー映画監督、テレビ・ドキュメンタリー・ディレクターです。特に「A」や「A2」などのオウム真理教関連のドキュメンタリー映画を製作したことで知られます。そして、ノンフィクション作家としても多くの作品を書き、やはりオウムについての『A3』(集英社インターナショナル)で講談社ノンフィクション賞を受賞しました。


 著者は1956年5月10日生まれで、わたしと誕生日が同じですね。ご本人は立教大学の出身ですが、現在、早稲田大学と明治大学の客員教授を務めています。

 

 わたしは、著者が書いたノンフィクションをほとんど読んでいます。オウムにはじまって、「放送禁止歌」とか「悪役レスラー」とか「死刑」とか非常に興味深いテーマが多く、どれも読み応えがあります。

 中でも「超能力」をテーマにした『職業欄はエスパー』(角川文庫)は、わたしにとって特別な一冊です。なぜなら、同書に登場する3人のエスパー(超能力者)のうち、清田益章、秋山眞人の両氏とは親しくさせていただいていたからです。

 

 以前、わたしが経営していた(株)ハートピア計画で「超能力」をテーマにした本を企画し、清田益章さん、秋山眞人さん、わたしの3人で鼎談本を作ったことがありました。東京都港区高輪の泉岳寺に隣接したオフィスで、3人で大いに語り合いました。その本は残念ながら刊行されませんでしたが、大変なつかしい思い出です。

 清田さんは、スプーン曲げの代名詞的存在でした。秋山さんは、UFO呼びや霊視などを得意としていました。この2人に加えて、振り子を使って人の潜在意識を呼び起こして森羅万象の疑問に答えるという「ダウジング」の第一人者である堤裕司さんの3人が『職業欄はエスパー』で取り上げられました。

 そして、10年ぶりに刊行された同書の続編が本書『オカルト』です。もともと、「本の旅人」(角川書店)で2008年10月号から2011年5月号まで連載されていた「職業欄はエスパー2」を再編集の上、大幅に加筆修正し、書き下ろし原稿を加えたそうです。


 まず、本書は装丁が素晴らしいですね。装画は一見すると横尾忠則風ですが、よく見るとちょっと違います。扉の向こうから光が漏れてくる描写はテーマとも合致して、なかなか味があります。シライシュウコさんの作品だそうですが、いい絵を描かれる方ですね。帯には、作家の伊坂幸太郎氏が以下のような推薦文を寄せています。

 

 「人間の力を超えた『オカルト』を追う森さんの姿は、とてつもなく人間味に溢れていて、しかも『フェアでありたい』という思いが伝わってくるからか、読んでいてこちらも『頼む! 超能力、成功して!』と祈らずにはいられませんでした。青春小説のように、もしくは、ホームズの冒険のようにも読めて、とにかく面白いのです」

 

 また、黄色い文字で「それは科学か? インチキか? 本当のオカルト(隠されたもの)か??」と書かれ、「講談社ノンフィクション受賞後第1作」となっています。


 さらに帯の裏にも、次のように書かれています。

 

 「数年ごとに起きるオカルト、スピリチュアルブーム。

 繰り返される真偽論争。何年経っても一歩も進まないように見える世界。

 なぜ人は、ほとんどが嘘だと思いながら、この世界から目をそらさずに来たのか? 

 否定しつつ惹かれてしまう『オカルト』。―いま、改めて境界をたどる。」

 「エスパー、心霊研究者、超心理学者、スピリチュアルワーカー、怪異蒐集家、陰陽師、UFO観測家、臨死体験者、メンタリストetc.に直撃!!」

  

 とにかく、この帯、表も裏も情報満載なのです。的確に内容が紹介されており、装丁同様に帯も良く出来ていると思いました。


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 

開演:「でもオレは結局曲げちゃうよ」

   "超能力者"はふてくされたように言った

第1幕:「よく来てくれた。そしてよく呼んでくれた」

    恐山のイタコは語り始めた

第2幕:「現状は、誠実な能力者には不幸でしょう」

    オカルト・ハンターの返信はすぐに来た

第3幕:「僕たちはイロモノですから」

    "エスパー"は即答した

第4幕:「いつも半信半疑です」

    心霊研究者は微笑みながらつぶやいた

第5幕:「わからない」

    超心理学の権威はそう繰り返した

第6幕:「批判されて仕方がないなあ」

    ジャーナリストは口から漏らした

第7幕:「当てて何の役に立つんだろう」

    スピリチュアル・ワーカーは躊躇なく言った

第8幕:「毎日、4時40分に開くんです」

    店主はてらいがなかった

第9幕:「解釈はしません。とにかく聞くことです」

    怪異蒐集家は楽しそうに語った

第10幕:「これで取材になりますか」

     雑誌編集長は問い質した

第11幕:「僕はこの力で政治家をつぶした」

     自称"永田町の陰陽師"は嘯いた

第12幕:「匿名の情報は取り合いません」

     UFO観測会の代表は断言した

第13幕:「今日はダウジングの実験です」

     人類学者は口火を切った

第14幕:「今日の実験は理想的な環境でした」

     ダウザーはきっぱりと言った

第15幕:「あるかないかではないんです」

     超心理学者は首をかしげてから応じた

第16幕:「夢の可能性はあります」

     臨死体験者はそう認めながら話し出した

第17幕:「わからないから研究したい」

     科学者たちは当然のように答えた

第18幕:「僕らは超能力者じゃあありませんから」

     メンタリストはあっさりと言い放った

終幕:パラダイムは決して固着しない。

    だからこそ、見つめ続けたい


 本書の冒頭の「開幕」には、清田益章さんが登場します。著者は少年時代から彼がメディアによって人生を翻弄されてきたとしながら、次のように有名な超能力騒動について書いています。

 

 「日本近代史における超能力は、その発端からメディアと結びついていた。1910(明治43)年9月14日、東京帝国大学の福来友吉博士による千里眼(透視)実験が行われた。被験者となったのは、そのころ千里眼の持ち主として巷で大きな評判になっていた御船千鶴子だ。東京帝国大学元総長の山川健次郎が紙片に文字を書いて鉛管に入れ、千鶴子は鉛管の中の文字の透視に成功した。ところがその後に、鉛管の中に入っていたのは山川が文字を書いた紙片ではなく、福来が練習用に千鶴子に与えた紙片であったことが発覚した。鉛管そのものが入れ替わってしまった可能性もある。明らかに実験する側の不備なのだが、新聞各紙は千鶴子の透視能力について、きわめて否定的な論調を強く打ち出した。結果として千鶴子は自殺する。新聞や世間からのバッシングに耐えられずに自殺したとの解釈が多いが、この時期に家庭内の問題もあったし遺書は残していないので、その断定は難しい。

 御船千鶴子が自殺してからも、千里眼を持つ他の候補として長尾郁子や高橋貞子らを発掘した福来博士は、念写や透視の実験をくりかえし行った。

 しかし彼女たちもまた、実験後に実験の不備を指摘されるというパターンで、メディアによる激しいバッシングの標的となった。

 千里眼騒動で始まったメディアと超能力との関係は、斥力と引力とを常に滲ませながら、その後の歴史を綴ってゆく。特にテレビ時代が始まって以降、超能力にとってメディアは、生存のためのきわめて重要な環境因子のひとつとなった。だから相互に依存し合いながらも、結局のところ優位にあるのはメディアのほうだ」


 「開幕」の最後には、清田さん以後にスプーン曲げで話題を呼んだ綾小路鶴太郎、その死後に登場したアキットらの能力についても触れられています。

 わたしも彼らのスプーン曲げをテレビで観たことがありますが、スタッフが用意した硬いスプーンを、いともたやすく一瞬で湾曲させたりねじったりしていました。彼らのスプーン曲げは「長野曲げ」というそうですが、かのユリ・ゲラーのそれとも明らかに違います。

 アキットは自身を「超能力者」ではなく「魔法使い」と名乗っていますが、そのスプーン曲げを著者と一緒に観察した秋山眞人さんは「きわめて効果的な腕力の使い方と超能力の融合と考えるべきでしょうね」と感想を述べたそうです。


 「第1幕」では、恐山のイタコが取り上げられます。

 

 「イタコ」は、多くの日本人にとって死者と会話する霊媒の代名詞とも言えるでしょう。

 自ら恐山を訪れイタコとも面談した著者は、次のように書いています。

 霊が降りてきてイタコに憑依するのではなく、降りてきた霊はイタコとまずは会話をして、それからイタコは霊の言葉を依頼者に伝えるという手順のようだ。つまりイタコは通訳のような役割なのだ。それが一般的な解釈なのかどうかはわからないけれど、少なくともこのタクシーの運転手は、そう断言した。

 東北弁のマリリン・モンローが降りてきたなどとよく笑い話のように語られるけれど、その現象はこれで説明がつく。イタコは霊に自らの身体を提供して喋らせるのではなく、霊をまずは自らの内側に降ろして会話し、その会話の内容を依頼者に伝えるという手順なのだ。どうやってマリリン・モンローとコミュニケーションしたのかという謎は残るが、交わした会話の内容を人に伝えるときに、自分の母語(東北弁)に翻訳することは当然だ」


 また、彼らは恐山やその菩提寺などとは関係のない個人営業主のような存在です。そのイタコと仏教(恐山の場合は曹洞宗)との微妙な関係についても、著者は次のように書いています。

 

 「宗派によって若干の違いはあるが、仏教の教義としては、死んだ人の魂は六道輪廻する。あるいは浄土に行く。宗祖である仏陀(釈迦)に至っては、死んだ人の魂や来世のことなど、一切口にしていない。基本の理念は無常と縁起なのだ。あらゆるものが移ろいゆく。魂だけが不変であるはずがない。宗教よりもむしろ哲学に近いとされる所以はここにある。ただし死後の世界を担保することは、最大の現世利益だ。死んで消えますでは布教ができない。だから仏教は伝播する過程で世俗化した。

 成仏や供養などの概念を、釈迦入滅後に加算した。

 加算はしたけれども教義的には(お盆の時期は別にして)、死んだ人たちに気軽に帰って来られたら困るのだ。だから寺としては、イタコの存在を肯定しづらい。しづらいというかできない。それは想像がつく。でも同時にイタコたちがいなければ、これほどに立派な宿坊を維持するほどの観光客が集まらないことも確かだ。片頬に曖昧な微笑の余韻を貼りつけながら、僧侶は困ったように首をかしげ続ける」


 本書では、オカルトは、見たい者に対し時に現れて、認めない者が現れた途端に隠れるということが繰り返し述べられます。心霊にしろ超能力にしろUFOにしろ、「絶対に間違いない」という目撃者が存在する一方で、その現象がきちんと記録されていないのです。著者も、このジャンルには「よりによってそのときに」や「たまたまカメラが別の方向を」式の話法がとても多いことを認めています。

 スプーン曲げなど超能力のデモンストレーションだけではありません。「霊を見た」とか「雪男に遭遇した」などの体験談にしても、シャッターを切ったのにカメラには映っていなかったとか、足跡だけが確認できたなどのパターンが見られるのです。この問題について、自身が映像作家でもある著者は次のように述べます。

 

 「ジャンルそのものが意思を持つのか、大きな意思が人から隠そうとするのか、あるいは人が無意識に目を逸らそうとしてしまうのか、それとも所詮はトリックやイカサマばかりだからなのか、それは今のところわからない。

 わからないけれど、そんな力が常に働いているともし仮定するならば、映像と音声メディアが誕生した20世紀以降、オカルトはその『隠れたい』(あるいは『隠したい』)との衝動をさらに激しく揺さぶられ、そして引き裂かれてきたはずだ。なぜなら発達したメディアは、隠されてきた何かにかつてとは比べものにならないほどの量の光を当てながら、やはりかつてとは比べものにならないほどの数の衆人の視線に晒そうとするのだから」

 

 そして、サブタイトルにもなっている「現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ」という本書のテーマについて、著者は述べます。

 

 「オカルトは人目を避ける。でも同時に媚びる。その差異には選別があるとの仮説もある。ニューヨーク市立大学で心理学を教えていたガートルード・シュマイドラー教授は、ESPカードによる透視実験を行った際に、超能力を肯定する被験者グループによる正解率が存在を否定する被験者グループの正解率を少しだけ上回ることを発見し、これを『羊・山羊効果(Sheep-goateffect)』と命名した。

 この場合における『羊』は超能力肯定派を、そして『山羊』は否定派を示している。つまり超能力を信じる者たち(羊)が被験者となる実験では、超能力の存在が照明されるかのような結果が出るのに対し、超能力に否定や懐疑の眼差しを向ける者たち(山羊)が被験者となる実験では、超能力を否定するかのような結果が出る現象が羊・山羊効果だ。

 つまりどちらにせよ、現象が観察者に迎合する。媚びようとする。あるいは拒絶する」


 この「羊・山羊効果」という言葉は、オカルトについて考える上でのキーワードになりますが、これについて秋山眞人さんも本書の中で次のように述べています。

 

 「歴史をさかのぼって調べれば調べるほど、羊・山羊効果や見え隠れ的な側面を実感します。だからオカルトなんですね。つまり隠されたもの。カルタの語源との説もあります。伏せて隠すもの。もしかしたら解明してはいけないジャンルなのかもしれない。調べれば調べるほど、それを実感します。例えば現象の解明について画期的な証拠をつかんだ研究者が急に早死にしたりとか、認められそうになると不慮の事故が起きたりとか、そんな事例はとても多い。福来友吉博士の透視実験もそうです」


 本書の中で特に興味深かったのは、著者がプロレスについて述べた部分です。ノアの三沢光晴が試合中の事故で死亡した直後、著者は「プロレスのこれから」というテーマでインタビューを受けたのです。かつては東京ドームを満員にしたプロレス界も、総合格闘技ブームの影響などにより完全に衰退してしまいました。

 まあ、現在ではその総合格闘技さえも衰退してしまったわけですが。

 いずれにせよ、プロレスの人気は低下し、観客動員数は減り、テレビ放送は打ち切られ、選手たちは無理をし、ついには悲惨な事故が起こる・・・・・このような「負のスパイラル」に巻き込まれていったわけです。しかし、プロレスに関する著書もあり、基本的にプロレスの味方である著者は次のように述べます。

 

 「実のところ、僕はこの状況を、それほど悲観的に捉えているわけではない。プロレスとはそもそもが日陰のジャンルだ。華々しいスポットライトを浴びるようなジャンルではない。カーニバルや場末の酒場に発祥した、不健全で隠微で薄暗いジャンルなのだ」

 

 そして、プロレスについて話しながら、著者はオカルトのことを考えていたそうです。「ダーウィニズム(市場原理)の観点から考察すれば、オカルトは今、どのような位相にあるのだろう。誰が求めているのだろう。誰が嫌悪しているのだろう」と書いています。


 プロレスとオカルトを結びつける著者の発想には強く共感しました。

 なぜなら、わたしもよくこの2つのジャンルを関連づけて話すからです。

 「フェイク」という言葉をご存知でしょうか。ニセモノという意味ですが、この言葉がよく使われるジャンルが2つあります。オカルトと格闘技です。映画「トリック」を観てもわかるように、超能力者とか霊能力者というのは基本的にフェイクだらけです。わたしも、以前よくその類の人々に会った経験がありますが、はっきり言ってインチキばかりでした。でも、スウェデンボルグとか出口王仁三郎といった霊的巨人は本物であったと思っています。

 わたしが実際に会った人物では、清田益章さんのスプーン曲げや東急エージェンシー時代のの先輩であるタカツカヒカルさんのヒーリング・パワーは今でも本物じゃないかと思っています。ですから、すべてがフェイクではなく、本当にごく少数ですが、なかには本物の能力者もいるのでしょう。


 次に格闘技。わたしは子どものころから格闘エンターテインメントとしてのプロレスをこよなく愛し、猪木信者、つまりアントニオ猪木の熱狂的なファンでした。

 でも、何千という猪木の試合のなかで、いわゆるセメント(真剣勝負)はかのモハメッド・アリ戦とパキスタンの英雄、アクラム・ペールワン戦の2回だけと言われています。

 だから良いとか悪いとかではなく、それがプロレスなのです。

 でも、わたしは逆にその2回に限りないロマンを抱きます。

 また、力道山vs木村政彦、前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント、小川直也vs橋本真也といった試合は一方の掟破りでセメントになったとされ、今では伝説化しています。

 やはりフェイクだらけの中にある少しの本物に魅せられる。

 オカルトも格闘技もフェイクという大海のなかにリアルという小島があるわけです。

 それらの世界に魅せられる人々は、小島をさがして大海を漂う小舟のようですね。


 ついでに言えば、スナック、クラブ、キャバクラなどの水商売も同じです。水商売の女性との心の交流は、はっきり言って、擬似恋愛であり、ホステスが演技をして恋人ごっこをしてくれるわけですが、時々、ホステスさんが本気で客と恋愛することがあります。この数少ないロマンを求めて、男たちは懲りもせず飲みに出かけるのですな。

 つまり、「オカルト・プロレス・水商売」はオールフェイクではないのです! それらのジャンルは限りなく胡散臭くて、基本的にウソで固めています。

 しかしながら、中には紛れもない「リアル」が隠れている。霊能力者もプロレスラーもホステスも、中にはガチンコの本物が実在する。オカルトもプロレスも水商売も「リアルさがし」のゲームであり、冒険の旅であると考えるのなら、「ダマサレタ!」と腹も立たないのかもしれません。


 でも、本書のテーマは「リアルさがし」のゲームではありません。あくまでも、著者は本書で「リアルとは何か」を追求しています。オカルトの本質を突き詰めるなら、やはり宗教にさかのぼります。著者も、次のように述べています。

 

 「最も初源的な宗教のアーキタイプは、自然界のすべての現象や物質に霊的な心象が宿ると考えるアニミズムだ。日本に仏教が伝来するはるか前の縄文時代から、人々は死んだ人の腕や足の関節を無理矢理に曲げて埋葬していた。いわゆる屈葬だ。その意味については諸説あるけれど、死後の魂が災いを為さないようにと考えたとする説が一般的だ。2007年にシリアで発見された世界最古(8500年前)の墓地から掘り出された遺骨のほとんども、やはり手足が折り曲げられていた。

 つまりオカルトは、人類の歴史とともにある。

 でもならば有史以降、あるいはメディア発達以降、オカルトは少しでも前に進んだのだろうか。あるいは後退したのだろうか。あるいは横にずれたのだろうか。

 何も変わらない。見事なほどに。アニミズムやトーテミズムのころから、オカルトはこの社会において、同じ位置にあり続ける。しぶとく残り続ける。同じ形のまま。同じ量のまま。まるで存在することそのものが、存在する理由であるとでもいうかのように」


 そして、340ページを超す本書の「終演」の終わりに、著者は次のように書いています。

 

 「今こうしているあいだにも、オリオン座ベテルギウスは超新星爆発を起こしているかもしれない。バルト海の深さ84メートルの海底で発見されて世界的なニュースになった巨大な円盤状の物体の正体が、判明しているかもしれない。理論上の存在で『神の粒子』と呼ばれたヒッグス粒子が、はっきりとその姿を現すかもしれない。2011年に東南アジアで発見された下顎に歯を持つカエルは、進化の過程で失われた身体的な構造は二度と復活しないとする『ドロの法則』(進化非可逆の法則)を覆すだろうと言われている。光を媒介するエーテルの存在は否定されたけれど、重力レンズ効果などの観測方法で、ダークマターの存在はほぼ証明された。パラダイムは決して固着しない。常に揺らいでいる。説明できないことや不思議なことはいくらでもある。確かにそのほとんどは、錯誤かトリックか統計の誤りだ。でも絶対にすべてではない。淡い領域がある。曖昧な部分がある。そこから目を逸らしたくない。見つめ続けたい」

 

 ここで著者は、「理論上の存在で『神の粒子』と呼ばれたヒッグス粒子が、はっきりとその姿を現すかもしれない」と書いています。この文章が書かれたのは、2012年3月ですが、それから4ヵ月後、現実にヒッグス粒子が発見されたことは記憶に新しいですね。本当に、この世は何が起こるかわかりません。

 たしかに、「羊・山羊効果」も存在するのでしょうが、いつかわたしたちの前に「隠れるモノ」が「現れるモノ」となる可能性はゼロではないのです。


 それにしても、この文章はなんと格調高く、優しいことでしょうか。著者の書いた本に『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』(ちくま文庫)という名著がありますが、まさにそういった感じの文章です。著者のルポは、いつも誠実な語り口によって書かれており、読んでいて安心できます。本書でも、オカルトに関わる人々を軽蔑したりする悪意はまったく感じられません。

 

 オカルト現象そのものに対しても、安易に信じることもしませんが、また一方的に否定もしません。本書にも、「世界」や「人」への根本的な愛情が流れているように感じました。わたしの書斎には、著者が監督したドキュメンタリー映画「A」「A2」、そして著書『A3』もあります。いつか、これらの作品も味わってみたいと考えています。