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すべては今日から』

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No.0671

 

 『すべては今日から』児玉清著(新潮社)を読みました。

 

 2011年5月16日に逝去した俳優の児玉清さんの遺稿集です。児玉さんは大の読書家として知られ、本への熱き想いを綴った著書『寝ても覚めても本の虫』(新潮文庫)はわが愛読書でした。


 本書の表紙には穏やかな著者の肖像写真が使われています。また、帯には次のように書かれています。

 

 「もっと小説を読んで下さい。未来を築くために―」

 「面白本を溺愛し、爽快に生きた"情熱紳士"が精魂込めて書き続けた日本人へのメッセージ!」「一周忌に贈る熱き遺稿集」

 

 本書は、「本があるから生きてきた」「面白本、丸かじり」「忘れえぬ時、忘れえぬ人」「日本、そして日本人へ」という4つの章から構成されています。

 また、巻末には息子さんである元タレントの北川大祐さんによる「父・児玉清と本―あとがきにかえて」が掲載されています。


 本書には、基本的に児玉さんが読んで面白いと感じた本が紹介されています。ミステリーが大好きで、英語の原書でも読んでいたほどの児玉さんだけに、紹介されている本はどれも魅力的に描かれています。

 でも、やっぱりミステリーなので、ネタバレを避けるためにストーリーの核心部分には触れられておらず、その本当の面白さを知るには実際に読んでみるしかありません。

 また本書には、児玉さんの本にまつわるさまざまな思い出が綴られていますが、中でも「本が産み出した家族の団欒」というエッセイが心に残りました。

 

 著者が無理の本好きになったのは小学4年生のときで、教室で隣の席の男の子が「これ目茶面白いぞ!!」と言って、1冊の講談本を貸してくれたのがきっかけでした。タイトルは『雷電為右衛門』。江戸時代に実在した最強の力士の物語です。雷電の無敵とも言える強さと愛嬌溢れる人物像のもたらす面白痛快物語に夢中になってしまい、著者はいっぺんに本の虜にされてしまいました。しかし、本当に嬉しかったのはその先で、著者は次のように書いています。

 

 「それまでは、優しく温かい目で僕を見守ってくれていた父ではあったが、息子の僕との間には対話といったものがほとんどなかった。しかし、僕が読んでいる講談本を父が見た瞬間から、がらっと雰囲気が変ってしまった。実は父は無類の講談好きで、近所の寄席の高座などを聞きに行く常連客の1人だったのだ。

 さぁ、それからは一気に父との会話が弾んだ」


 雷電をきっかけに、千葉周作、柳生十兵衛、塚原卜伝などの剣豪物語を読み進むようになった著者は、父に質問を浴びせ、物語に登場する剣の達人をめぐって毎晩のように熱い議論を交すようになったそうです。晩御飯は父と息子の楽しい会話の時間となり、いつしか母と姉も話に加わるようになりました。1冊の講談本がきっかけで、著者の家の食卓は楽しく賑やかな一家団欒の場所へと変わったのでした。著者は、このエッセイの最後で次のように書いています。

 

 「そんな中で僕が一番感動したのは、父の本棚から自由に本を取り出して読んでいいという許可を貰えたことだった。時代小説を含めて書物好きだった父の本棚から、吉川英治の『神州天馬俠』『宮本武蔵』、江戸川乱歩の『一寸法師』それに林不忘の『丹下左膳』などなど、本を通じて話ができることで、なにか男同士共通の秘密を分かち合えたような、一気に大人の男の仲間入りができたような誇らしい気持で胸が大きくふくらんだことが忘れられない。今は父との遠い思い出となってしまったが、佐々木小次郎の秘剣≪つばめ返し≫を父が木刀で、多分こうじゃないか、と僕に見せてくれたときの興奮、そのときの母の楽しそうな笑顔は僕の心の財産なのだ」

 

 わたしは「本」と「家族」をめぐる、これほど幸せな文章を他に知りません。そんな少年時代を経て、「本の虫」となった著者ですが、本書には息子さんの北川大祐さんとの本をめぐる心の交流も描かれています。「父・児玉清と本―あとがきにかえて」で、北川さんは次のように書いています。

 

 「僕自身は父のような読書家ではなく、子どもの頃に父から『本を読め』と言われた記憶もない。中学の頃に赤川次郎さんの本を読んで父に話したところ、『おまえが1冊読み終えたのか』と感動されたことだけはよく覚えている。大学生の頃からS・シェルダンなど海外の作家の作品も読み始めた僕は、やがて父の書棚からT・クランシー、P・コーンウェル、C・カッスラーといった作家たちの本を借りて読むようになり、父に『どうだった?』と聞かれるので感想を告げる。時折、そんな機会ができるようになった。ある意味で本は僕と父のコミュニケーションの道具になってくれていたのかもしれない」

 

 この文章を読んで、わたしは自分のことをいろいろと思い出しました。

 わたしの父も大の読書家でしたが、わたしが中学生くらいのときに『論語』の素晴らしさを教えてくれ、本居宣長、平田篤胤、柳田國男、折口信夫、南方熊楠といった人々の全集の前で、その偉大な業績について語ってくれたことを思い出したのです。その後も、父とわたしの間では、いつも本はコミュニケーションの道具であり、考え方を伝授するテキストであったように思います。


 本書で初めて発見したのは、著者の思想家としての顔です。生前から保守的な考え方の持ち主として知られていたそうですが、第4章の「日本、そして日本人へ」に書かれた数々のメッセージには感銘を受けました。「日本経済新聞」の夕刊に掲載されたコラムがもとになっていますが、そこには「日本人」としてのあるべき姿が説かれています。

 たとえば、「マナーという言葉が眩い」では、次のように書いています。

 

 「けたたましい若い女性の笑い声とともに仲間と思われる3、4人の男女の大笑いがどっと重なった。僕はそのあまりの凄まじさに思わず耳を両手でふさいだ。ある列車内でのことであったが、次から次へとゲタゲタ笑いと突拍子もない嬌声が続いた。

 そのたびにこちらも耳をふさぐうちに、次第に腹も立ってきた。

 なぜ彼らは近くに他人が沢山いることを気にしないのだろうか。

 仲間同士はどんなに楽しいかもしれないが、事実、だから大笑いで笑っているのだろうが、あまりに事もなげなのだ。つまり傍若無人なのだ。

 そういえば、こうしたことは最近ひんぱんに身近で見かけるのだ。

 手をバシバシ叩きながら大仰に笑い、いかに面白いかを仲間たちに強調している若い男女のグループをいろんなところで見かけるのだ。心底楽しんでるんだから、といってしまえばそれまでだが、あまりにも慎みがない。他人の存在などてんから考えてないとしか思えないのだ。マナーという言葉が眩い」


 「TPOはどこに」というコラムでは、服装について次のように書いています。

 

 「異和感といえば、この夏、ある公共団体主催の表彰式に参列したときのことであった。表彰される者たちも、招かれた客たちもほとんど全員がネクタイ姿であるのに、表彰する側は皆クールビズということでノーネクタイであったことだ。

 省エネのためのクールビズを徹底しようという、その心構えはわかるのだが、世にいうTPOではないが、社会の慣例として招かれた側が礼を重んじているのだから、表彰式という晴れの舞台であれば、贈る側のマナーとしてネクタイをつける洒落っ気もあってもなあ、とふと思ったのだ」


 「我関せず人間」というコラムの冒頭では、次のように書いています。

 

 「最近、車で走っていて気になることのひとつに、方向指示の明かりを点滅させないで、つまり右折か、左折かの信号を全然出さないで曲がる車が増えていることがある。その心を考えるに、それはおそらく≪どっちに曲がるかは、俺が、いや私がわかっているんだから、それでいいじゃないか≫ということなのだろう。ここで今さらいうまでもなく、方向指示の信号を出すのは自分のためではなく他の車に曲がる方向を教えることにある」


 そして、このコラムの最後を次の文章で締めくくっています。

 

 「ことは車に限らず、駅や空港や人の集る所、至る所で周りを気にしない我関せず人間が蔓延しつつある。改札口の手前で立ち話や挨拶をしていて、また空港の出口でツアー客に説明していて、人の流れを妨害しているのに、いささかも気付かない人。ちょっとした周囲への気配りさえあればなあ、と折にふれ考えてしまうのは、年寄りの小言幸兵衛的愚痴なのだろうか」


 「髭剃りと幼児」の冒頭では、次のように書いています。

 

 「国内線の早朝便でのことであった。着陸態勢に入った機内で突如ジョリジョリと髭を剃る電気カミソリの音が大きく響いた。僕は不快な音のする後の席を思わず振り返った。そこには無邪気に髭を剃っている中年の男性がいた。僕は耳を手でふさぎたくなる気持を押さえて、顔を元の位置に戻しながら≪せめてトイレへ行って髭を剃ってくださいよ≫と独り言ちた」

 

 髭を剃っている自分は爽快かもしれません。しかし、他人の髭を剃る音は決して心地良いものではありません。他人のことを配慮しないデリカシーの無さも問題ですが、何よりも機内は公共の場であり、マナーの問題なのです。


 続いて、「髭剃りと幼児」には次のようにも書かれています。 

 

 「つい先だっても、東京へ帰る最終便の機内で、考えさせられる事態に遭遇した。2歳ぐらいの女の子を連れた30代前半と思える若き夫婦が、甲高い奇声を発ししゃべり続け、ときには歌も唄い出す娘に、≪静かにしなさい≫と制止しないのだ。いや、小さな声で何か父親が言っているのだが、制止どころかそれは恰も、自分たちの大事な宝物が喜んで話しているのだから、あなたがたも聞いてくださいね、といった感じなのだ。突拍子もない高い声が絶え間なく続く機内。一度気になり出したら、もうたまらない。しかし誰もそれを止める者がいない」


 好感度の高いタレントが、全国紙に堂々とここまで発言するとは凄い!

 「マナー」や「モラル」の問題はわたしの専門の1つでもありますが、著者の見識の高さと正義感の強さには心から感服します。著者は世の中の無礼者に対して、ただ愚痴をつぶやいていただけではありません。息子の北川大祐さんによれば、「ルールを守らないこと、礼儀やマナーに反することを何より嫌った父は、許せない態度に出会うと相手構わず喧嘩をしたり、容赦ない言葉を投げつけたりもした」そうです。うーん、児玉清さん、凄すぎる! そして、あまりにもカッコ良すぎる! 

 

 じつは、わたし自身も何度かそんな経験をしています。それだけに、児玉さんの益荒男ぶりが目に浮かぶようです。


 「読書」と「常識」。これが本書の二大テーマであると言ってもよいでしょう。一見あまり関係がなさそうな2つのテーマですが、「詐欺」というコラムで見事に結びつきます。振り込め詐欺の被害者が絶えない現状に対して、著者は次のように書いています。

 

 「騙された方々には同情を禁じ得ないが、どうして、こうも簡単に騙されてしまうのかという不思議さも大きい。巧妙な手口を考案する悪辣な騙し屋の増殖する日本に危機感を抱き、猛烈に腹が立つのはもちろんだが、それにしても、ちょっとした大人の智恵があれば、相手のレトリックの疑わしさや齟齬に気付くはずだと考えてしまうのは酷だろうか」


 そして、この「詐欺」というコラムの最後に、著者は次のように書くのでした。

 

 「事件や事故を解決するために直ぐに金を振り込め、直ぐに儲かるから金を出せ、こうした不自然な話に疑うこともなく乗ってしまう、素朴さというのか幼稚さは一体どこからくるのか。読書離れの激しい国の特徴的傾向と考えてしまうのは僕の偏見であろうか」

 

 これも、なかなか言えるセリフではありません。でも、わたしはまったく同感です。「すごい、児玉さん、よく言った!」と快哉を叫んだ人は多かったのではないでしょうか。


 何よりも読書を愛し、高い道徳性を持った著者は、真の教養人だったと思います。本当のインテリジェンスは、大量の本を読むだけでは身につきません。実際に体験し、自分で考えて、初めてその人の教養になるのです。

 

 インテリジェンスには、さまざまなな種類があります。学者のインテリジェンスもあれば、政治家や経営者のインテリジェンスもある。冒険家のインテリジェンスもあれば、お笑い芸人のインテリジェンスもある。けっして、インテリジェンスというものは画一的なものではありません。

 しかし、すべての人々に必要とされるものこそ、「心のインテリジェンス」であり、より具体的に言えば、「人間関係のインテリジェンス」ではないでしょうか。

 つまり、他人に対して気持ち良く挨拶やお辞儀ができる。

 相手に思いやりのある言葉をかけ、楽しい会話を持つことができる。これは、「マネジメントとは、つまるところ一般教養のことである」というドラッカーの言葉にも通じます。マネジメントとは、「人間関係のインテリジェンス」に関わるものだからです。いくら多くの本を読んだとしても、挨拶ひとつ満足にできない人は教養のない人です。わたしは、読書という営みは、「人間関係のインテリジェンス」につながるべきだと思います。そして、その達人こそが著者・児玉清さんではなかったでしょうか。


 わたしの妻は生前の著者の大ファンで、著者の声が好きと言っていました。でも、わたしは著者の考え方と生き様が好きです。できることなら、わたしもいつの日か、著者のような「頑固爺さん」もとい「情熱紳士」になりたいと心から憧れています。

 

 著者は「オリンピックおたく」と自称するほど五輪の開催を楽しみにしていたそうです。2004年のアテネオリンピックでは、念願かなって現地で観戦したそうです。今年のロンドンでの日本勢の活躍を見せてあげることができなかったのは残念ですが、きっとあちら側で応援していたことでしょう。

 

 それにしても、本書に書かれた名調子がもう読めないとは残念です。永遠の情熱紳士・児玉清さんの御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。