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巨人たちの本棚』

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No.0630

 

 『巨人たちの本棚』久我勝利著(光文社)を読みました。

 

 「偉大な経営者はこんな本を読んでいた」とのサブタイトル通り、歴史に名を残した経営者たちの愛読書を紹介した本です。著者によれば、「実業界の巨人たちによる読書案内」であり、「彼らの簡単な伝記集」でもあるとのこと。


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 

はじめに

「巨人たちが学んだ本を、どうすれば知ることができるのか?」

 

第1章:井深大

理系人間を精神世界に走らせた『ターニング・ポイント』

井深大の読書ガイド

 

第2章:土光敏夫

行革の鬼を運命づけた著者不詳の『スチーム・タービン』

土光敏夫の読書ガイド

 

第3章:松永安左エ門

トインビーの大著全訳に挑んだ電力の鬼

松永安左エ門の読書ガイド

 

第4章:豊田佐吉・喜一郎

"トヨタ帝国"の糧となった1冊の本

豊田佐吉・喜一郎の読書ガイド

 

第5章:渋沢栄一

実業界の巨人が愛してやまない『論語』

渋沢栄一の読書ガイド

 

第6章:安田善次郎

『太閤記』を地で行った銀行王の人生

安田善次郎の読書ガイド

 

第7章:大倉喜八郎

『心学先哲叢集』に凝縮された豪傑の教養の深さ

大倉喜八郎の読書ガイド

 

第8章:岩崎弥太郎

政商の枠で括れない大教養人が好んだ『日本外史』

岩崎弥太郎の読書ガイド

 

巨人たちの読書ガイド+α

     キーワード1.中国の本

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     キーワード3.岩波文庫の本

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おわりに

「あなたが"読まれざる名著"を読み通すために」


 本書の「はじめに」には、次のように書かれています。

 

 「多くの伝記には『だれに学び(師事し)』『どんなアドバイスを受けたか』ということは比較的詳しく書かれているのですが、彼らが『どのような本を読んで』『どのような影響を受けてきたのか』、については意外に書かれていないのです。

 なかには、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一のように、愛読書が『論語』であることがあまねく知れわたっている場合もあります。しかし、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎が頼山陽の『日本外史』を生涯愛読していた話はどうでしょう。数ある弥太郎の伝記のなかには、下手をすれば、『日本外史』という本の存在にさえ触れていないものもあります。幕末から明治にかけての大ベストセラーであるにもかかわらず、です」

 

 「実業界の巨人」と呼ばれるような人々は、どのような本から影響を受けたのか?

 そのことに興味を抱いた著者は、いろいろ探しても「そのものズバリ」の本がなかったため、「それなら自分でつくるしかない」と本書を執筆したそうです。


 著者の言うように実業界の巨人たちの「読書ガイド」であり「簡単な伝記集」にもなっている本書には、わたしの知らなかったことがたくさん書かれています。たとえば、土光敏夫に関する以下のような記述などです。

 

 「土光敏夫の人生の進路を決めたのは、学生のときに神田の古本屋で見つけた『スチーム・タービン』という本だった。残念ながら、この本についての情報はほとんどない。スチーム・タービンとは蒸気タービン、つまり、蒸気の力で動かす原動機のことである。和書なのか洋書なのかもわからないが、技術書であることは間違いない。

 敏夫は、この本を読んでスチーム・タービンをつくってみたいと思った。そして、スチーム・タービンの研究開発をやらせてくれるという石川島造船所に入社した。

 以後、実業界に入った敏夫は東芝の再建、経団連会長、臨時行政調査会長を歴任し、人間わざとは思えないほどの活躍をする。

 それは、すべて、いまとなっては著書も版元もわからない、1冊の本が始まりだった」


 土光敏夫といえば、「企業再建の神」であり、「行革の鬼」であり、「清貧の人」としても知られました。多くの経営者が尊敬する人物ですが、本書を読んでいくつかわたしの心には疑問も浮かんできました。たとえば、母親の登美は熱心な日蓮宗の信者だったそうですが、タービン開発に打ち込む息子の成功を願うあまり、親戚知人の家に寄付をもらいに歩きまわったそうです。それも、「自分が死んだとき香典をくれるつもりなら、生きているうちにください」と言ったというのです。本書では、この話を美談として紹介していますが、わたしは「うーん・・・」と唸ってしまいました。


 また、次のような記述にも疑問が残りました。

 

 「社長が雲の上の人であってはならないというのが敏夫の信念だ。

 社長室に入ってくる社員は全員最敬礼するのがならいとなっていたが、敏夫も最敬礼して返すと、そのうち誰も最敬礼しなくなった」

 

 別に社員が社長に最敬礼する必要はないと思いますが、この後、普通の敬礼ぐらいはしたのだろうかと気になります。「礼をするからこそ人間」と喝破したのは松下幸之助ですが、社長も社員も互いに最敬礼することは悪くないと思います。いちいち最敬礼していては業務に支障があるというのなら、せめて普通の礼ぐらいは互いにすべきです。

 「社長が雲の上の人であってはならない」というのはわかりますが、そのために社内における「礼」まで排除するようなことがあってはならないと思うのですが・・・・・。


 「礼」に関して、気になった実業界の巨人がもう1人います。「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門です。彼は、明治時代の大ベストセラーであった福沢諭吉の『学問のすゝめ』に影響を受けていました。「生まれに関係なく、これからは学問さえあれば出世できるのだ」という諭吉の教えは、貧しい安左エ門にとって心強い味方でした。諭吉は、官僚嫌いとして有名でしたが、安左エ門も終生官僚には反発しました。本書には、その松永安左エ門と福沢諭吉についてのエピソードが次のように紹介されています。

 

 「安左エ門が初めて福沢諭吉と会ったときのことである。校庭で教師を見かけたので、安左エ門はお辞儀をした。すると、うしろからポンポン背中をたたかれた。

 振り返ると、体の大きい老人が立っている。

 『お前さんは今、そこで何をしているんだね』

 『先生にお辞儀をしました』

 『いや、それはいかんね。うちでは、教える人に、途中で逢ったぐらいで、いちいちお辞儀をせんでもいいんだ。そんなことを始めてもらっちゃこまる』」


 ここだけの話ですが、わたしは福沢諭吉があまり好きではありません。

 「啓蒙主義者」というレッテルも嫌いですが、何より彼は「礼」というものを軽視しているからです。幼少期、諭吉少年は神社の祠を開いて、そこに石ころしか発見せず、「神様などいないのだ」と悟ったといいます。また、諭吉少年が殿様の名前を書いている紙を跨いだので兄が叱ったところ、「これは、ただの紙ではないか」と反論したといいます。

 これらのエピソードは、迷信に惑わされない新時代の合理的精神を体現した美談のように語られることが多いですね。しかし、わたしは昔から「こんな人物が成長して、慶應義塾を創ったのか」と思っていました。

 彼の人生には、神仏に対する「礼」も、人間に対する「礼」も感じられません。

 だいたい、生徒が先生に会ってお辞儀をするのは当たり前ではないですか!

 福沢諭吉といえば、大の儒教嫌いで有名ですが、彼が江戸時代の人々が持っていた「礼」の精神を社会から排除していった結果、今の日本がどうなっているか。そのことを世の慶應義塾の出身者のみなさんも、一度考えてみられたらよいと思います。


 さて、そのような奇怪な教えを師・福沢諭吉から受けた松永安左エ門でしたが、彼自身は大変な読書家で、大教養人でした。日本の電力業界を育てあげた彼の最後の大仕事は、意外なことに出版業でした。本書には、次のように書かれています。

 

 「晩年、松永は最後のライフワークともいうべき出版事業に取り組んだ。アーノルド・J・トインビー(1889~1975)の『歴史の研究』を翻訳するという仕事だ。なにしろ、全12巻(和訳して25巻)もある大作だ。このような本はふつうの出版社では出すことができない。採算に合わないからだ。事実、フランスでも翻訳が試みられたが、採算の問題と、あまりの分量に、翻訳作業は困難として中止している。

 この書は、安左エ門がいなかったらけっして日本語にはならなかっただろう。安左エ門は私財をなげうち、強力な推進力で翻訳陣を引っ張っていったのだ。

 安左エ門が最初に翻訳することを思いついたのは76歳のときだった。親交のあった鈴木大拙の紹介によってである」


 トインビーの『歴史の研究』全25巻は、わたしの実家の書庫にあります。いつか時間を見つけて通読してみたいと思っています。

 『歴史の研究』第1巻を刊行したのは昭和41(1966)年4月でした。そして、全25巻がそろったのは昭和47(1972)年9月でした。本書には、次のように書かれています。

 

 「安左エ門は完結を見ることなく、昭和46(1971)年6月に永眠した。享年97歳。

 刊行が始まる前、安左エ門はシュペングラーの『西洋の没落』を原書で読んでいたという。刊行の辞を書くためだった。『歴史の研究』は『西洋の没落』の影響を受けていたからである。このとき、なんと安左エ門は92歳だ。翻訳にして2段組み400ページで2巻の本を読むという活力、執念には頭が下がる。

 『電力の鬼』は『読書の鬼』でもあったのである」


 本書には、「世界のトヨタ」を創業した豊田佐吉も登場します。

 佐吉は、自分の発明が、お国のためになると信じて努力を重ねてきました。昔でいう「滅私奉公」の精神ですが、このような佐吉の思想を育ててきたものが2つありました。本書には、その2つが次のように紹介されています。

 

 「1つは、二宮尊徳の教えを広めるためにできた『報徳宗』である。

 佐吉の住んでいた遠州は、『報徳宗』が盛んであった。尊徳の弟子である岡田良一郎が遠州に教えを広めたからである。『~宗』というと宗教のようになってしまうが、一種の道徳のようなものと考えたほうがいい。神や天皇や親や祖先の与えてくれた大事な徳に報いるために自分の徳行でお返しするという教えである。

 佐吉がモットーとしてきた『勤労』『感謝』『奉仕』は、この教えから導かれたものだ」

 「もう1つは日蓮宗だ。当地では昔から日蓮宗の信者が多く、父の伊吉も信者だった。日蓮の一生は、ときの権力者の弾圧に次ぐ弾圧の連続だった。しかし、日蓮は強い信念でめげずに布教活動を続けた」

 

 豊田佐吉が二宮尊徳、日蓮といった人々の影響を受けていたとは初めて知りました。世界的大企業となったトヨタの理念には、このような偉大な思想が潜んでいたのですね。ちなみに、二宮尊徳も日蓮もともに「日本人の理想」として内村鑑三が紹介した人物です。


 そして、本書にはわたしが敬愛してやまない渋沢栄一が登場します。

「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一は『論語』を愛読し、その言葉を日常生活の基準とし、実業経営上の金科玉条としました。本書には、渋沢栄一について次のように書かれています。

 

 「数多の経営者のなかでも、渋沢栄一ほど読書の影響がはっきり示されている例は少ない。そして、影響を受けた書物がはっきりしているのも珍しい。

 その書物とは『論語』である。渋沢は、常に座右に『論語』を置いていたという。おそらく何百回、何千回も読み返し、何かに迷ったら『論語』を開いてみたのだろう。自ら『論語と算盤』『論語講義』などの著作も残している」


 本書には、渋沢の著書『雨夜譚』の中の読書に関する文章が紹介されています。

 

 「読書に働きをつけるには読みやすいものから入るが一番よい。ドウセ四書・五経を丁寧に読んで腹にいれても、真に我物になって、働きの生ずるのは、だんだん年を取って世の中の事物に応ずる上にあるのだから、今の処ではかえって『三国志』でも『八犬伝』でも、なんでも面白いと思ったものを、心をとめて読みさえすれば、いつか働きが付いて、『外史』も読めるようになり、『十八史略』も『史記』も『漢書』も追々面白くなるから、精々多く読むがよい」

 

 この文章からもわかるように、『三国志』や『八犬伝』といった子ども向きの読み物から、だんだんと大人の書物に向かえばよいとアドバイスしています。

 そして、最後に大人として手に取るべき書物こそが『論語』でした。本書に、渋沢栄一にとっての『論語』が次のように書かれています。

 

 「官を辞して実業界に入った栄一は、何を以て『ブレずに』商売ができるかを考えた。

 そして、幼いときから習った『論語』を商売の芯にしようと思い立つのである。金銭を扱うのは別に卑しいことではない。論語を規範として商売することはできる。栄一にしてみれば、論語と算盤はけっして相いれないものではなかった。そして、多忙のなか、何人かの先生から論語を学び直したのである」


 また本書には、渋沢栄一の晩年についても次のように書かれています。

 

 「晩年、栄一は息子の秀雄に本を読み聞かせてもらうのを楽しみにしていた。これを渋沢家では『お読みあげ』と呼び、息子の秀雄が読む役割を果たしていた。

 このときには漢籍よりも、巌谷小波の『日本昔噺』、中里介山の『大菩薩峠』、夏目漱石の『吾輩は猫である』『虞美人草』、岡本綺堂の『半七捕物帳』、直木三十五の『合戦』などの小説が多かった。しかし、幼いころから親しんだ漢文学は身にしみついていたようで、危篤に陥る前には、陶淵明の『帰去来の辞』を暗誦しながら注釈をしたという」


 渋沢栄一のライバルといえば、三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎です。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」などに登場する弥太郎は粗野な拝金主義者といったイメージでしたが、じつは彼も非常な読書家であり、豊かな教養の持ち主でした。本書には、弥太郎の教養について次のように書かれています。

 

 「弥太郎の教養は、儒学、和漢の歴史書、そして漢詩にまで及んでいる。漢詩は自ら作詩もした。一時は学者への道を志していたほどだ。おそらく現代人には読みこなすことが困難な漢文の本を、弥太郎は苦もなく読むことができた。漢文といえば漢籍に限られるように思えるが、和書でも漢文で書かれたものがあった。たとえば弥太郎の愛読書のひとつである頼山陽の『日本外史』も漢文で著されている。

 弥太郎の教養は、漢文の素養に支えられていた。もちろん、当時の志士たちは子どものころから漢文に親しんでいたわけだが、弥太郎の才能はずば抜けていた。弥太郎の成功は、現実的で実践的な儒学を学んだ成果であり、歴史書に登場する英雄豪傑たちへのあこがれが原動力であったと考えられる」


 これを読んで、ちょっと岩崎弥太郎のイメージが変わりました。

 渋沢栄一や岩崎弥太郎をはじめ、明治の実業家の巨人たちは、巨大な教養の持ち主でもありました。そして、その教養を支えているのは漢文の素養でした。

 

 幕末維新までのわが国の教育に大きな力となったものは、漢籍の素読であり、儒学の教養だったと言えるでしょう。なかんずく中国の歴史とそれに登場する人物とが、日本人の人間研究に大きく役立ったのです。『史記』『十八史略』『三国志』『資治通鑑』『戦国策』などは当然読むべき教養書だったのでした。

 儒学嫌いの福沢諭吉ですら『左伝』15巻を11回読み通して、その内容はすべて暗誦していたといいます。これが福沢の人間を見る目をつくったのです。

 漢籍でまず鍛えられた頭脳で、蘭学や英語をやったから眼光紙背に徹する勢いで、たちまち西洋事情を見抜いてしまったのです。中国は広大な大陸に広がる天下国家で、異民族による抗争の舞台であり、その興亡盛衰における権力闘争は、それ自体が政治のテキストであり、これに登場する人物は、大型、中型、小型、聖人もあれば悪党もあり、そのヴァラエティさは万華鏡の如くです。

 

 まさに人間探求、人物研究の好材料を提供してくれるわけで、日本人は中国というお手本によって人間理解の幅を大きく広げ、深めてきたと言えるのではないでしょうか。