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人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?』

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No.0633

 

 『人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?』渡部昇一著(海竜社)を読みました。

 

 ずいぶん長いタイトルですが、帯には著者の顔写真とともに「碩学、渡部昇一が生涯をかけて追究した人間の死と魂の存在についての思索の書」とあります。

 また、「幸せな晩年のために」とのコピーもついています。


 著者は現代日本における「知の巨人」の1人です。その人が「魂」の問題に正面から取り組んだ霊魂論が本書です。もともとはDVD「スピリチュアル講話~魂は在るか」の内容を書籍化したものです。


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 

「はじめに」

序章:私と精神的世界

    シニア世代になって初めて気づいた精神的世界の重大さ

1章:信仰について

    信仰とは、絶対に損することのない賭けである

2章:人間の存在

    人間は絶望と不安から、何によって救われるのか

3章:自然科学と宗教

    人間とサルの違いは「程度の差」にすぎないのか

4章:スピリチュアリズム

    プロテスタントが生んだ独特の霊魂観

5章:ルルドの奇跡

    宗教は、奇跡の存在なくして成立するか

6章:魂の存在が、生きる喜びと希望を呼び起こす

    私は魂の存在を信じて、八十年以上を生きてきた


 「はじめに」で、著者は大学生活の中で、最も永続的に読み続けることになる何冊かの本に出合ったとして、次のように述べます。

 

 「実践的生活においてはヒルティの『幸福論』、キリスト教では岩下壮一神父の『カトリック信仰』とパスカルの『パンセ』、そして肉体と霊魂の問題では望月光神父が教えてくださったアレクシス・カレルの『人間 この未知なるもの』などである。その後も私は進化論そのものに関心があり、ウォレスの著作に触れるようになった」


 また、序章「私と精神的世界」で、著者は次のように述べています。

 

 「人間が本当の心の安らぎを得るにはどうしたらよいのか―。

 それには、「人間とはどういう存在なのか」という、人間の存在そのものを問わねばなりません。人間の存在を問うとき、「魂の存在」「死後の世界」「宗教」、この3つの原点についての問いは、人間の存在の根幹にかかわるもので、切っても切り離せないでしょう。そこから、私の精神的世界への探求が始まりました」


 著者は、自分が肌で実感した経験と、パスカルやウォレス、アレクシス・カレルなど、古今の偉人の生き方や言葉から、また著者自身の言語学者としての見地から、数十年に及ぶ思索を積み重ねたといいます。

 そして、ついにその問いに対する答えを導き出しました。著者の答えとは、「魂はある」「死後の世界は存在する」「信仰は弱い人間の心の支えになる」というものでした。


 人生には、常に不安や迷いがつきまといます。そのたびに、著者は偉人たちの言葉を反芻し、自分が導き出した答えに救われてきたとして、次のように述べます。

 

 「私たちは、忙しさにかまけて、精神的なことについて、深く考えてみることを怠ってきたのです。青春の多感なある時期には、人生について物思いにふけったことは、あるかもしれません。しかし、やれ受験だ、やれ就活だ、そして仕事だ、と忙しいその後の人生を送るうちに、その時の精神的思索は、いつの間にか切れて、あとはずっと、生活上の知恵を積み重ねてきただけだったのです。

 そして今、シニア世代となって、否が応でも、これからの人生の生き方を考えなければならなくなった時、ハタと、精神的世界へ目を向けることの重大さに気づくのです」


 著者は、自分が精神的世界へ目を向けることになったことの原点に、著者の伯母の影響があったといいます。著者が子どもの頃に受けた教育は、戦時中の旧制の延長線上にあった教育でした。つまり科学的、いやむしろ唯物論的精神による教育であり、宗教的なことは入り込む余地がありませんでした。神国日本とその国に対する愛国心を除いて、精神世界の話などまったくの迷信とされました。そのような教育を受けたという著者は、次のように述べます。

 

 「ところが、私の伯母は、そういった教育の世界とは、全く別な世界に生きている人でした。霊感とでもいうのでしょうか、そういった不可思議な感性を持っていた。お祈りするだけで他人の病気を治してしまうとか、物がなくなっても、伯母にかかるとすぐに見つかるとか、とにかく不思議な力を持っていた。今でいえば、超能力とか霊感パワーとでもいうのでしょうか。かといって、祈禱師みたいな、仰々しい人ではなく、単なる、普通の農家の主婦で、若くして未亡人となった人でした。そんな人が、不思議なパワーを持っているということで、近所ではちょっと評判になっていました」


 そして、こういう伯母を、著者の母は、非常に尊敬していたそうです。この事実が、子どもの頃の著者にとって大きな意味を持ちました。

 著者は、「もしもあの時、霊的行為をする伯母を、私の母が無視したり、あるいは軽蔑したりしたなら、精神的なものに対する興味は、私の中に育たなかったかもしれません。警察に見張られようが、周囲から何と言われようが、真剣に霊的行為を行う伯母を、母が尊敬している。子供心にとって、これ程、強い味方はないでしょう。何の不安も、疑問もなく、霊的世界を受け入れる素地が、当時の私の中に出来つつあったのだと思います」と述べています。


 さて、1章「信仰について」では、信仰に対する著者の考え方が述べられています。よく知られているように著者はクリスチャンですが、自身がキリスト教を信じていく上で、かのパスカルの影響が大きかったといいます。パスカルの主著は『パンセ』ですが、著者は次のように述べています。

 

 「『パンセ』は『瞑想録』と訳されているのですが、この『パンセ』を読んだ時、私は、目の前にあった暗闇が、明るい日差しに、パッと吹き払われたように感じたのです。それは、『賭けの精神』の必要性について、彼が述べていたからです。

 例えば、神は存在するかどうか、という点については、あるかないか、どちらかに賭けることだ、と言っている。そしてこの賭けは、人間にとっては避けることのできない賭けでもある、と彼は言うのです」


 「神はあるか」「神はないか」、いわば究極の選択について、著者は述べます。

 

 「パスカルは、この選択をする時、非常にわかりやすく、現実的な問いかけをしてくれます。それは、『あるのかないのか』選ばなければならないのなら、どちらのほうが、私たちにとって利益が多いかを考えてみよう、というのです。『神はない』のほうに賭けて、死んでみて神も死後の世界もないとしたら、それだけの話です。しかし、死んでみたら、神も死後の世界もあったとしたら、賭けに負けたことになるし、大変です。それに対し、『神がある』に賭けて、勝負に勝ったら、私たちはまるもうけをする。しかも、負けたとしても、つまり神と死後の世界がなかったとしても何も損はしない。ならば、ためらわずに、神があるほうに賭ければいい、とパスカルは言うのです。魂の存在や死後の世界を信じるかどうかも同じです」

 

 わたしは確率論から考えても、発想法から考えても、死後の世界や神はあると信じたほうが絶対に幸福に生きることができると思います。この考えは、パスカルと著者から受け継いだ思想的DNAかもしれません。


 本書を読んで特に興味深かったのは、4章「スピリチュアリズム」です。日本語で「心霊主義」と訳される「スピリチュアリズム」はオカルトそのものというイメージですが、著者は「非常に崇高な思想」であるとして、次のように述べています。

 

 「もともとカトリックにおいては、死後の世界や霊魂の不滅は、当然のこととして信じられてきました。しかし、プロテスタントは、聖書中心主義を取ったため、聖母マリアの信仰や聖人信仰をやめてしまったのです。そうすると、どうなるか。

 これまでは、キリスト教信者は聖母マリアや聖人を媒介として、死後の世界や霊魂の世界に触れることができていたのに、宗教改革以後は、それができなくなってしまいます。この現状を打開するために、プロテスタントにおいては、独特の霊魂観が育っていきました。これが、スピリチュアリズム、と呼ばれるものだったのです」


 なるほど、スピリチュアリズムを「プロテスタントが生んだ独特の霊魂観」として捉えれば、その本質が正確に掴めるかもしれません。1848年にアメリカで起こった「ハイズヴィル事件」を皮切りに、世界中でスピリチュアリズムの一大潮流が生じ、多くの知識人を巻き込みました。著者は、次のように述べています。

 

 「この潮流が、単なる一時的な流行でなかったことは、あの『ブリタニカ百科事典』が、わざわざページをさいて記載していることでもわかると思います。しかも、1行や2行ではなく、約3ページ四百数十行にもわたって述べられているのです。スピリチュアリズムが、当時いかに重要な思想傾向にあったかがわかるというものでしょう」


 スピリチュアリズムとは霊魂の存在を前提とした思想です。その霊魂について、著者は次のように述べています。

 

 「言語を持った人間の脳に、何が起こったのか。それは、言語が、単に物だけを表現する道具ではなくなった、ということです。言語によって、私たちは、『あれ』『これ』だけではなく、抽象的な概念をも表現することが出来るようになりました。つまり、精神的なものを、言語は確実にとらえることが可能になったのです。言語が精神性を持ったのです。逆の表現をすれば、言語そのものの中に、すでに、精神性が含まれていたともいえるでしょう。言語が精神性を持った時、そこから、霊魂の存在までは、もう目と鼻の先、というよりも、精神性とは、とりも直さず、霊魂の不滅のことだ、ということだと思います。

 つまり、脳が言語を生み出した時、同時に、霊魂も生み出される宿命だったのです。それは、人間の脳の中に、霊魂がすでに存在していたからなのです」


 そして、著者は「死後の世界を信じて、80年以上を生きてきた」と堂々と告白し、本書の最後で次のように語っています。

 

 「私自身がそうですが、魂の存在を信じ、霊魂は不滅だと考えれば考える程、また、死後の世界もちゃんと存在すると信じれば信じる程、自分の生きている日々に、安心感が湧いてきます。そして、もっと楽しく、心躍ることは、ソクラテスも言っているように、霊魂が存在すれば、死後の世界で、あの懐かしい人にも会えるかも知れないということです。考えただけで、ワクワクしてくるはずです。

 しかも、そのことを、魂の不滅や死後の世界の存在を、誰も否定することができないのです。誰も文句をつけることができない。だからこそ、私は、シニア世代には特に、この賭けのことについて考えてみてはどうか、と勧めたいのです。

 無に帰して、風にさまようくらいなら、一歩踏み出すくらい何でもないはずです。なにせ、負けることのない、必ず勝つ賭けなのですから」

 ことに力強い言葉です。最後の一言など、まさに「人生の必勝宣言」ですね。


 それにしても、著者ほどの大学者が、ここまで赤裸々に霊魂の問題を語るとは!

 そして、ここまで堂々と「魂の不滅や死後の世界の存在を、誰も否定することができない」と喝破するとは! わたしは、その爽やかなまでの著者の真摯な姿勢に感動を覚えました。たしかに、「死後の世界で、あの懐かしい人にも会えるかも知れない」と思えば、ワクワクしながら余生を送れます。これこそ、究極の老年論であり幸福論、すなわち「老福論」ではないでしょうか。


 わたしには、その名の通りに『老福論』(成甲書房)という著書がありますが、「人は老いるほど豊かになる」というサブタイトルを持っています。本書『人は死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか』こそは、まさに「人は老いるほど豊かになる」ための具体的な方法を示しています。

 

 「幸せな晩年のために」という帯のコピーにまったく偽りはありません。本書は、世の多くの高齢者に本当の安心を与える書だと確信します。