No.0627 読書論・読書術 『街場の読書論』 内田樹著(太田出版)

2012.06.29

 『街場の読書論』内田樹著(太田出版)を読みました。

 著者は、言わずと知れた現代日本の「知」のフロントランナーの1人です。

 帯には「ウチダ的知性の読書法(モト)、教えます」と大書され、「本はなぜ必要か。強靱でしなやかな知性は、どのような読書から生まれるのか。21世紀とその先を生き抜くための、滋味たっぷり、笑って学べる最強読書エッセイ!」と続きます。
 その内容は、第一章「文芸棚」、第二章「人文棚」、第三章「ウチダ本棚」、第四章「教育棚」、第五章「著作権棚」、第六章「表現とリテラシー」といった具合です。第一章と第二章は著者はが読んだ本の書評で、第三章は自著について書いています。第四章~第六章は、「教育」「著作権」「表現」「リテラシー」をめぐる言説となっています。
 収録された文章ですが、ブログ「内田樹の研究室」と、各媒体への寄稿記事より、「読書」と「表現」に関するものを厳選し、それに大幅に加筆・改訂したものだそうです。

 わたしには、「読書」についてよりも、「表現」について、すなわち著者の執筆について書かれた部分を興味深く読めました。たとえば著者は、自著の『街場のアメリカ論』をめぐる文章で、次のように述べています。

 「博覧強記の読書家が、彼のオリジナルな理論にもっとも近い先賢の書名だけを失念しているということはよくあることである。現に学会発表では、『あなたと同じ研究テーマで、あなたと同じ結論をもつ先行研究文献があるのだが、あなたはそれを「読んでいない」と言い張る気か?』というきびしい質問に発表者が絶句するという場面に私は2度立ち会ったことがある。私は発表者が『剽窃』をしたとは思わない(だってすぐばれちゃうんだから)。彼もまた読んだのに読んだことを忘れて、ある日『すばらしいアイディア』が脳裏にひらめいて手の舞い足の踏むところを知らなかったのである。気の毒である。
 私の場合には、自分の前に書いたものをパクってしまうということがままある。
 これはなにしろ自分で書いたものなので、私の意見にたいへん近い。
 だから読んだことを忘れてしまうのも怪しむに足りない。
 ある主題で、ふと思いついたことをぐいぐいと書いていると、数ヶ月前に書いた自分の本の中にまったく同一の文章を発見して愕然とする、ということがよくある」

 これは、わたしの場合でもしばしば同じ体験をします。ちょっと驚くと同時に、「自分だけではなかったのだ」と安心もしました。

 また、やはり自著である『他者と死者』の執筆について、「もう3年越しで書いているのだが、そろそろ仕上げないといけない。まだまだ調べなければならないことや書き足したいこともたくさんあるのだけれど、そんなふうに無限に加筆訂正をしていると、初稿がもっていた『一気書きの勢い』のようなものがなくなってしまう。話のつじつまは合っているけれど、妙にのっぺりして、かえって読みにくくなるということもある。できが悪くても、『勢いのある』うちに本にしてしまった方が、あちこちに『バリ』が残っていて、案外そのような不整合箇所が次の研究のとっかかりになったりするのである」と書いています。
 これも非常に納得できました。著者とわたしはジャンルは違っても、ものを書くという行為においては共通していますので、このような記述は非常に納得できます。

 著者といえば、最近は大阪市の橋下徹市長との確執が話題になりました。著者が、理想の行政を合気道道場の経営になぞらえて発言したことが橋下市長の逆鱗に触れました。その後、橋下市長はツイッターや記者会見で著者を批判しています。著者も応戦すればいいと思うのですが、今のところ直接対決は実現していません。その理由についてでもありませんが、著者は本書で次のように述べています。

 「私は論争ということをしない。自分に対する批判には一切反論しないことにしているから、論争にならないのである。どうして反論しないかというと、私に対する批判はつねに『正しい』か『間違っている』かいずれかだからである。
 批判が『正しい』ならむろん私には反論できないし、すべきでもない。
 私が無知であるとか、態度が悪いとか、非人情であるとかいうご批判はすべて事実であるので、私に反論の余地はない。粛々とご叱正の前に頭を垂れるばかりである。
 また、批判が『間違っている』なら、この場合はさらに反論を要さない。
 私のような『わかりやすい』論を立てている人間の書き物への批判が誤っている場合、それはその人の知性がかなり不調だということの証左である。そのような不具合な知性を相手にして人の道、ことの理を説いて聴かせるのは純粋な消耗である。というわけで私はどなたからどのような批判を寄せられても反論しないことを党是としている」

 うーん、言いたいことはわかりますが、それでも本当に自分の発言に自信があるのなら、議論はすべきではないかと思います。ましてや相手は匿名ブロガーのような無責任きわまりない発言者ではなく、大阪市の市長なわけですから。わたしは、本当は著者に堂々と橋下市長と議論してほしかったです。
 もっとも、かの池田信夫氏でさえ徹底的に攻めていくアグレッシブなディベート・スピリッツを持った橋下市長は強敵中の強敵ですが・・・・・。

 「著作権」に関する著者の以下のような発言には、大いに共感できました。

 「つねづね申し上げているように、私には『言いたいこと』があり、それを『ひとりでも多くの人に伝えたい』と思っている。別にそれが特段世界にとって有用な知見だからと思っているわけではない。『ちょっと思いついたことがあるので、誰かに言っておきたい』というだけのことである。それはガリ版にこりこりと鉄筆で個人的なニューズレターを書いて、自宅で印刷し、自費で友人たちに配布していた中学生のときからの私の変わることのない姿勢である」

 さて、著者はカリスマ・ブロガーとして有名です。そのブログについて、次のように述べています。

 「私が今ブログにあれこれ書いているのは、『ガリ版』の直接的な延長であり、テクノロジーは進化したが、書いている当人のモチベーションは中学生のときと同じである。
 手をインクで黒く汚してガリ版刷りをしている中学生の私のところにある日Googleがやってきて、『これこれ、そこの少年よ、君の著作物を電子的にデータベース化して、世界の読者の閲覧に供して差し上げようではないか』と申し出たら、私は熱いハグでお応えしたであろう。私の場合は、テクストを書くことで、『1円でも多く金を稼ぎたい』ということより『ひとりでも多くの人に読んでほしい』ということの方が優先する」

 著者といえば、一時は猛烈な刊行のペースで出版界を賑わせました。
 でも、「自分は本を出し過ぎである」として、2010年8月30日に「刊行停止」を宣言しました。ずいぶん話題になりましたが、「刊行停止」したわりには、その後もかなりのペースで著書が刊行されているような気がします。
 もっとも書き下ろしは激減しており、最近はもっぱらブログの文章をテーマ別に集めて編集した「ブログのコンピ本」が多いようです。これについて、著者は次のように書いています。

 「ブログのコンピ本というのは、他にあまりなさっている方がいないようだが、私は『よいもの』だと思う。書いているときに『これはいずれ単行本に採録されるかもしれない』と考えている。だから、そのときになってあわてないように、引用出典とかデータの数値とかについては正確を期している。ブログ上で他の方の著書から引用するときに、発行年や頁数まで明記する人はあまりいないが、こういう書誌情報は「あとになって」調べようとすると、たいへんに時間がかかるものである。ほんとに。
 それにそうしておくと、ブログが『ノート代わり』に使える。ブログには検索機能がついているので、キーワードを打ち込むと、そのトピックについて私が書いたことがずらずらと出てくる。その中に必要なデータのかなりの部分が含まれている」

 わたしも、日々かなりの分量のブログ記事を書いています。そして、その一部を新聞や雑誌の連載エッセイに活用することが多々あります。
 WEBに連載している「ムーンサルトレター」や「風のあしあと」などに活用することもしばしばです。著者のように純粋な「ブログのコンピ本」というのは作ったことがありませんが、『葬式は必要!』(双葉新書)や『隣人の時代』(三五館)のような緊急性のある出版の場合はブログ記事の一部を使っています。
 すなわち、わたしはブログを「執筆メモ」として書いている部分があるのです。そして、このアイデアは「ブログのコンピ本」を編み出した著者から学びました。
 もちろん、すべての著書にこの方法が適用できるとは思っていません。やはり、じっくりと書き下ろす必要がある本もあります。
 しかし、この方法がマッチする本も存在することは事実です。

 このように、わたしは本書から著者の「読書論」というよりも「執筆論」のほうに大きな示唆を与えられました。

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