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瓦礫の中から言葉を』

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No.0604

 

 今夜も魂の言葉が書かれた本を読みました。『瓦礫の中から言葉を』辺見庸著(NHK出版新書)という本です。

 

 本書は、石巻出身の作家が、東日本大震災で犠牲となった死者たちに向かって語りかけた言葉を集めた本です。著者は1944年生まれ、91年に『自動起床装置』で芥川賞、94年に『もの食う人びと』で講談社ノンフィクション賞、2011年に詩文集『生首』で中原中也賞、12年1月に詩文集『眼の海』で高見順賞を受賞しています。


 本書の帯には「3・11の奈落とは何か 根源の洞察〈私記〉」と大書され、続いて「関東大震災、東京大空襲、広島原爆、東日本大震災、おびただしい屍、原発メルトダウン、不気味な未来・・・・・」とあります。また、「NHK『こころの時代 瓦礫の中から言葉を』(2011年4月24日放送)における発言を手がかりに、全面的に書き下ろした作家渾身の書」と記されています。さらに、表紙カバーの折り返しには、次のような内容紹介があります。

 

 「3・11後、ますますあらわになる言語の単純化・縮小・下からの統制。『日本はどのように再生すべきか』・・・発せられた瞬間に腐り死んでいくこれらの言葉に抗して、<死者>ひとりびとりの沈黙にとどけるべき言葉とはなにか。表現の根拠となる故郷を根こそぎにされた作家が、それでもなお、人間の極限を描ききった原民喜、石原吉郎、堀田善衛らの言葉を手がかりに、自らの文学の根源を賭け問う渾身の書」

 

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

 

「死者にことばをあてがえ」

第一章:入江は孕んでいた―記憶と予兆

第二章:すべてのことは起こりうる―破壊と畏怖

第三章:心の戒厳令―言葉と暴力

第四章:内面の被爆―記号と実体

第五章:人類滅亡時の眺め―自由と退行

第六章:わたしの死者―主体と内省

「橋―あとがきの代わりに」


 帯にもあるように、本書はNHKで放送された番組をベースに大幅に加筆したものです。

 

 著者は、脳出血の後遺症があることをカミングアウトしています。それに加えて、高見順賞を受賞した『眼の海』の執筆にあたって、ひどい抑うつに陥ったそうです。本書は、その抑うつの後で、言葉を搾り出すようにして書かれた本です。


 著者は宮城県の石巻出身ですが、その故郷は津波の被害に遭いました。第一章「入江は孕んでいた――記憶と予兆」で、著者は次のように書いています。

 

 「故郷が海に呑まれる最初の映像に、わたしはしたたかにうちのめされました。それは、外界が壊されただけでなく、わたしの『内部』というか『奥』がごっそり深く抉られるという、生まれてはじめての感覚でした。叫びたくても声を発することができません。ただ喉の奥で低く唸りつづけるしかありませんでした。

 それは、言葉でなんとか語ろうとしても、いっかな語りえない感覚です。表現の衝迫と無力感、挫折感がないまぜになってよせあう、切なく苦しい感覚。出来事があまりにも巨大で、あまりにも強力で、あまりにも深く、あまりにもありえないことだったからです。できあいの語句と文法、構文ではまったく表現不可能でした」


 また、未曾有の大災害を前に無力な自分にとっての使命とは何かについて、著者は次のように書いています。

 

 「わたしは脳出血の後遺症で右半身がどうしても動きません。ですので、被災地に駆けつけ友人、知人たちを助けにいくことができません。そのかわりに、死ぬまでの間にせいぜいできること、それはこのたびの出来事を深く感じとり、考えぬき、それから想像し、予感して、それらを言葉としてうちたてて、そしてそのうちたてた言葉を、未完成であれ、死者たち、それからいま失意の底に沈んでいる人びとに、わたし自身の悼みの念とともにとどける――それが、せめても課された使命なのではないかと思うのです」


 それにしても、あの地震や津波はいったい何だったのか。詩人でもある著者はそれを「宇宙のくしゃみ」と表現し、次のように書いています。

 

 「われわれが見たもの、あの超弩級のスペクタクルというものは、表出する言葉をもちえないままひれ伏してしまった、あの光景とは、尺度を変えて考えてみれば、宇宙的な規模で考えてみるとしたら、たとえに語弊があるかもしれないけれども、おそれずに言うとすれば、宇宙の『一瞬のくしゃみ』のようなことだったのかもしれない。あるいは、大自然、宇宙的な規模でいう大自然の、一瞬の、一刹那の身震いのようなものかもしれない。しかしその、宇宙にとっては、あるいはもっと狭く考えて、地球のほんの一刹那の身震い、咳のようなものが、人類社会の破滅につながることもあるのだというふうな認識です」


 『原子力と宗教』で、「遺体を映すべきではなかったか」という重要な問題に触れました。日本のマスコミは、地震や津波で発生した遺体をまったく撮影しませんでしたが、それが「死」のリアリティを遠ざけたのではないかという問題です。本書でもその問題は意識されており、第二章「すべてのことは起こりうる―破壊と畏怖」で、著者は次のように述べています。

 

 「震災当初は、カメラをむけたらいやでも屍体を撮ってしまうほどといわれた現場なのに、テレビや新聞は丹念に死と屍体のリアリティを消しました。なぜそうする必要があるのかわたしにはわかりません。あのような報道ならば、鴨長明の『方丈記』のほうが災厄というもののすさまじい実相をリアルにつたえていると言えるでしょう。

 いずれにせよ、マスコミによる死の無化と数値化、屍体の隠蔽、死の意味の希釈が、事態の解釈をかえってむつかしくしました。死を考える手がかりがないものだから、おびただしい死者が数値では存在するはずなのに、その感覚、肉感とそこからわいてくる生きた言葉がないために、悲しみと悼みが宙づりになってしまったのです」


 著者は、遺体が映らないということは奈落が映らないことでもあると訴えます。そして、続けて次のように述べています。

 

 「いま流されているテレビのニュースの言葉。あそこに、事態の本質にせまる、本質に近づこうとする意思と言葉はあるでしょうか。いま表現されている新聞の言葉のなかに、この巨大な悲劇の深みに入っていこうとする意思と魂があるでしょうか。

 あれらの言葉に日々、夜ごと接していると、いたずらに苦しく空しくなるだけではないのでしょうか。もちろん、メディアの言葉に救いを求めているのではありません。ただ、やはり人の言葉は、もっとものごとの実相に、本質に迫っていくものでなければならない。腑に落ちる言葉がほしい。少なくともそういう努力を、もっと魂のいとなみとしてすることが必要なのではないかと思うのです」


 さらに、著者はテレビの映像の本質について、次のように書いています。

 

 「テレビの映像は、いつの間にか事態を希釈している。実像を薄めている。死を消している。奈落を奈落として映していない。奈落はテレビには映らないのかもしれません。それは死のリアリティを見るより、もっと薄気味悪いことです」

 

 なぜ、遺体を映さないのか。視聴者にショックを与えないためか。遺族の悲しみに火をつけないためか。著者は、次のように喝破します。

 

 「屍体を映さないというのは、人の心を救っているようでいて、じつはちがうのではないでしょうか。人は、ある日突然、まったくゆくりなくモノ化してしまうという哲理をメディアが無視してしまう。それは、逆に畏れ多いことではないか。

 死者に対する敬意がないのではないかとさえ思います。

 死者に対する敬意とは、人のモノ化とはどういうことか、この死の虚しさと、かぎりない暴力、破壊が、なにからもたらされているのか――それらを考える手がかりを、風景を正視してわれわれがつかむことではないのでしょうか。そしてそれを言葉で表現すること、これが死者への敬意と悼みにつながるのではないか。

 言葉は人のモノ化への抵抗でもあります」

 

 この「屍体を映さない」ことは「死者に対する敬意がない」につながるという指摘には異論も多くあるでしょうが、わたしは著者の考えに同意します。


 本書では、例のACジャパンのCMについても言及されています。著者は、あのCMを初めて観たときの印象を次のように書いています。

 

 「それはあまりに不気味でした。いつもの商品広告、コマーシャル・ソング、お笑い番組、歌謡ショーが突然テレビ画面から消えて、『ぽぽぽぽーん』『こだまでしょうか』『<思いやり> はだれにでも見える』などという呪文のような言葉がのべつくりかえされるわけですから。計画停電もまるで戦時下の灯火管制のようでしたから、ACジャパンのCMは非常事態突入のしるしか呪文みたいな響きがあったのです」


 さらに、著者は次のようにACジャパンのCMに容赦ない批判の言葉を浴びせます。

 

 「『あいさつ』『楽しいなかま』『ごめんね』『思いやり』の語群の絶えざる刷りこみは、逆に言うならば、社会生活上のビヘイビア(ふるまい)のサブリミナルな指示、さらにうがてば、社会生活上の禁止事項の示唆にもなっていった、とわたしは思います。

 被災下の苦境にあっても、笑顔であいさつしあい、仲間を大切にし、他者への配慮とやさしさを忘れないようにしましょう。言いかえれば、<不満、不安、怒りはあろうけれど、社会・共同体の結束と強調と諧調を乱してはいけません> と教導、慰撫しつつ、ありうべき騒乱的事態、示威行動、抗議運動を心理的に抑制させる効果もあったのではないでしょうか」


 これには、わたしは大いに異議があります。東日本大震災の影響によって、民放テレビ各局はしばらくの間、民間企業のCMを流しませんでした。これはテレビ局の判断というよりも、企業側が自粛したわけです。代わりに、ACジャパンのCMを「穴埋め」として大量放送しました。

 

 同法人の提言CMはテレビ、ラジオ、新聞社など加盟社の会費で制作しています。ACジャパンは、年間にCMを13本制作しています。いずれも、マナーやモラル向上などといった社会啓発的な内容です。制作費は約1200社の加盟社から得られる年会費で賄っています。

 

 また、今回はテレビ局会社が大量にCMを放送したわけですが、テレビ局との間で金銭的なやりとりは一切発生していません。


 わたしは、ACのCMは名作揃いだと思います。

 

 大震災の直後に多く流れた作品の中でも、「だれにも『こころ』は見えないけれども、『こころづかい』は見える。『思い』は見えないけれども、『思いやり』はだれにでも見える」という「見える気持ちに。」は何度観ても飽きません。

 

 著者は、ACのCMが「被災下の苦境にあっても、笑顔であいさつしあい、仲間を大切にし、他者への配慮とやさしさを忘れないようにしましょう」という刷り込みを行っていると批判しますが、そのメッセージのどこがいけないのでしょうか?

 

 逆に、大災害の後の不安な人心を鎮めるためには必要なメッセージではないでしょうか。そもそも公共的なメッセージの発信を「非常事態突入のしるしか呪文みたいな響き」などと揶揄するのはピント外れというより、陰謀論者にありがちな被害妄想のように思われます。第一、「あいさつ」とか「思いやり」の重要性は、いくら強調してもし過ぎるということはないでしょう。わたしは、そのように思います。


 わたしは、じつは著者よりも版元のNHK出版に怒りを覚えます。というのも、先に書いたように、震災後にACのCMが大量に流れたのは民間企業がCMの放送を自粛したからでした。いわば、あのACの大量CM放送は民間放送の弱点を示したわけです。その民放のアキレス腱のような弱点を「NHK」の名を冠した出版社から刊行された本で堂々と批判する。これはハンディキャップ・マッチで思うように戦えない相手を侮辱することにも等しく、おかしいと思います。

 

 同じNHK出版新書の一冊を読んだときに、同じような違和感を感じました。NHKは「無縁社会キャンペーン」を張りましたが、それは社会の方向性をミス・リーディングするものであったと思います。そしてNHK出版は「無縁社会や孤独死を肯定する本を書いてほしい」と島田裕巳氏に依頼しました。島田氏の本は「無縁社会」や「孤独死」を肯定する内容でした。NHKも、「無縁社会」や「孤独死」を肯定しているのでしょうか。


 とはいえ、ACのCMを批判したくだりには異論があるにせよ、本書『瓦礫の中から言葉を』は死者について考えさせられる好著でした。「橋――あとがきの代わりに」の最後には、著者が自ら本書のテーマとして以下の2つをあげています。

 

 「言葉と言葉の間に屍がある」

 「人間存在というものの根源的な無責任さ」

 この2つの言葉には、思わずわたしも唸りました。

 

 本当に言葉と向き合い続けてきた作家・詩人の凄みを感じさせる言葉です。言葉は無力なようですが、時には人を救いもします。

 

 わたしも、あの大災害の死者たち、そして残された人々に向かっての言葉を集めて、『のこされた あなたへ』(佼成出版社)という本を書きました。まだ未読の方がいらっしゃいましたら、ご一読下されば幸いです。