No.0606 小説・詩歌 | 論語・儒教 『孔子』 井上靖著(新潮文庫)

2012.05.18

 『孔子』井上靖著(新潮文庫)を再読しました。

 著者は、言わずと知れた昭和の文豪です。わたしが小学生の頃、『あすなろ物語』や『しろばんば』などの自伝的色彩の強い作品を詠みました。現代、映画化されて話題になっている「わが母の記」の原作も書いています。中国関係では、西域を題材にした『敦煌』『楼蘭』『天平の甍』などの名作があります。芥川賞をはじめ、あらゆる文学賞を総なめにした著者ですが、1989年(平成元年)に書いた本書『孔子』で野間文芸賞を受賞しました。

 本書の表紙カバー裏には、次のように書かれています。

 「二千五百年前、春秋末期の乱世に生きた孔子の人間像を描く歴史小説。『論語』に収められた孔子の詞はどのような背景を持って生れてきたのか。十四年にも亘る亡命・遊説の旅は、何を目的としていたのか。孔子と弟子たちが戦乱の中原を放浪する姿を、架空の弟子が語る形で、独自の解釈を与えてゆく。現代にも通ずる『乱世を生きる知恵』を提示した最後の長編。野間文芸賞受賞作」

 タイトルから誤解を招きやすいですが、この作品は孔子の伝記小説ではありません。あくまでも、孔子の弟子の1人が師について語るという形で書かれています。

 その弟子も、拙著『世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)に登場した子路や顔回といった有名な弟子たちではありません。歴史にその名を残さず、これまで誰にも知られなかった弟子です。孔子に未知の弟子がいたという設定で、孔子およびその弟子たちの生き方、考え方が明らかになっていくのです。

 本書の冒頭は、次のような書き出しで始まっています。

 「師・孔子がお亡くなりになった時、私も他の門弟衆に倣って、あの都城の北方、泗水のほとりに築かれた子の墓所の附近に庵を造って、そこで心喪三年に服しましたが、そのあと、この山深い里に居を移し、口に糊するだけの暮しを立てて今日に到っております。早いもので子が御他界あそばされてから、いつか三十三年という歳月が経過しております。その間、世間との交渉はできるだけ避けるように心掛けて参りましたが、それは当然なこと、墓所から遠く離れてこそおれ、一生、命のある限り、ここで亡き師にお仕えしようと思っているからであります。何事につけても、子のお心の内を考え、子のお傍に侍っているような思いで、毎日を過しております。それ以外、とるに足らぬ私ごとき者には何もできません。世に益するなど思いもよらぬことでございます」

 本書には、至るところに『論語』の言葉、また、そこに隠された孔子の思想が出てきますが、わたしが最も感銘を受けたのは「天命」についてのくだりでした。「天命とは何か」という問いに対して、弟子は次のように答えます。

 「天命とは難しい御質問でございます。ありのままを申し上げれば、子のお口から出たお詞の中で、私などには一番難しく、一番怖ろしく感じられるお詞でございます。一体、天とは何でございましょう。天、何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天、何をか言うやと、子は仰言いました。まことにその通りでございます。天は何も申しません。四季の運行は滞りなく行われ、万物は生長する。併し、天は何も申しません」

 『論語』には、「五十にして天命を知る」という有名な言葉があります。弟子は、この言葉について次のように語ります。

 「子は五十歳の時、この紊れに紊れた世の中を、自分の周辺から少しずつでもよくして行こうというお考えを、はっきりと天から与えられた使命として自覚され、改めてそれを御自分に課せられたかと思います。誰から頼まれたのでも、命じられたのでもない。自分が生を享けて、この世で為すことはこれしかないとお考えになったのでありましょう。
 併し、天から与えられた仕事であるからといって、必ずしもそれを天が守って下さるとはお考えにならなかったと思います。いつ思わぬ障害が起るかも知れないし、いつ中道で斃れるかも知れぬ。大きい自然の摂理の中で生きている小さい人間のすることである。思いがけぬ障害が、思いがけぬ時にやって来ても、いっこうに不思議はない。だからと言って、己が天から与えられている使命に対して、いささかも努力を惜しんではいけない。そういう小さい人間の小さい努力が次々に重なって、初めて人間にとって倖せな、平和な時代が来るというものである。―子はこうお考えになっていたと思います」

 そして、「天命を知る」ということについて以下のように弟子は語るのです。

 「天命を知るということは、こういうことでございましょうか。御自分のお仕事を天から受けた大きい使命だとお悟りになったことが一つ、それと同時に、その仕事が天の弛みない自然の運行の中に置かれる以上、すべてが順調に運ばれてゆくということを期待することはできず、思いがけない時に、思いがけない困難に、いろいろな形で曝されることもあるであろうということを、確りとお悟りになったことが一つ、―この二つを併せて、このことが天命を知るということになるのでございましょうか。
 いかに正しい立派なことをしておりましても、明日の生命の保証すらありません。いかなる思いがけない苦難が立ち塞がって来るかも知れません。吉凶禍福の到来は、正しいことをしようとしまいと、そうしたこととは無関係のようでございます。大きい天の摂理の中に自分を投げ込み、成敗は天に任せ、その中で己が信じた道を歩く!
 見事なことでございます。子以外に、どなたがこのように醒めたお覚悟を持てたでしょう」

 この弟子には完全に著者・井上靖自身が投影されています。本書を読めば、著者がいかに孔子に敬意を抱いているかがわかります。この「天命」のくだりを初めて読んだとき、わたしは大きな感動を覚えました。

 どんなに苦しくても、けっして世を捨ててはならない。人間は、どこまでいっても人間の中で生きなければならない。そして、乱世においてこそ、世の人々を救わなければならない。成功や失敗などの判断は人間がするものではなく天に任せて、ただひたすら己の信じた道を突き進むべし!

 わたしは新聞のインタビュー記事の最後に「『われ五十にして天命を知る』に近づく、49歳」と書かれました。それだけに、本書の「天命」についてのくだりは心に響きました。わたしも来年で50歳になりますが、ぜひ自分の「天命」を知りたいと願っています。

 じつは、その「天命」の内容は予想がついており、「天下布礼」の道をさらに進むことであると思います。「不惑」を控えた39歳で『論語』の素晴らしさに気づき、いま「知命」を控えた49歳となったわたしにとって、孔子の言行録である『論語』こそが安全に人生を荒波を乗り越えていける船なのです。

 不惑より港を出でし論語船 知命へ向かふ礼を求めて   庸軒

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