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人質の朗読会
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人質の朗読会』

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No.0609

 

 『人質の朗読会』小川洋子著(中央公論新社)を読みました。

 

 「中央公論」2008年9月号から2010年9月号に年4回掲載された作品です。非常に不思議な味わいの残る小説ですが、読み進むうちに静かな感動を何度も覚えました。本書は、「物語」というものの本質に迫った名作であると思います。


 著者は、現代日本を代表する作家の1人です。1962年に岡山市に生まれ、早稲田大学第一文学部を卒業。88年には「揚羽蝶が壊れる時」により第7回海燕新人文学賞を、91年には「妊娠カレンダー」により第104回芥川賞を受賞しました。

 

 しかし、著者を一躍有名にしたのは、映画化もされた『博士の愛した数式』です。この作品で、2004年に第55回読売文学賞と第1回本屋大賞を受賞、さらに06年には『ミーナの行進』で第42回谷崎潤一郎賞を受賞し、現在に至っています。


 本書の表紙カバーには白い子羊が描かれ、帯には「物語は、誰のなかにもある」と大きく書かれています。そして、以下のようなコピーが続きます。

 

 「几帳面な声、途切れがちな声、瑞々しい声 

 今はもういない人たちの言葉に耳を澄ませば・・・・・

 それは絶望ではなく、今日を生きるための物語

 心に暖かな火をともす、

 密やかな祈りにも似た小説世界」


 本書のページを開くと、いきなり冒頭から物語の世界に引き込まれます。

 地球の裏側にある国で、ツアーに参加した8人の日本人が反政府ゲリラに拉致され、人質になります。人質たちは、自分の人生の忘れがたい思い出、過去の記憶をそれぞれ1つずつ書いて、朗読し合います。8人の人質と1人の政府軍兵士による9つの物語が収められた連作短編集、それが本書です。

 

 9つの物語のタイトルは、「杖」「やまびこビスケット」「B談話室」「冬眠中のヤマネ」「コンソメスープ名人」「槍投げの青年」「死んだおばあさん」「花束」「ハキリアリ」。どの物語も、語り手がまだ幼かった頃、あるいはかなり昔の忘れ得ぬ体験や出来事が語られています。ささやかな日常生活の中のささやかな物語ばかりなのですが、どれも読者に静かな感動を与えてくれる優しい物語たちです。

 

 語り手たちには、人生の途中でめぐり会い、心を通わせた人々がいます。彼らの物語の中で、その思い出の人々は生きています。そして、その物語を朗読する人質たちも、また物語の中で生き続けるのです。


 じつは、8人の人質たちの命は助かりませんでした。すでに冒頭部分で、人質たち全員が死亡したことが知らされます。彼らは救助作戦のさなか、テロリストたちとともに命を落としたのです。その後、彼らが監禁されていた時にしのばされた盗聴器から、朗読会の存在が明らかになります。

 

 そして、そこから彼らの朗読した物語が1つづつ紹介されていくわけです。彼らは、現在、この世に存在していません。当然ながら、未来はありません。

 

 しかし、彼らには過去があります。「思い出」という名の、そして「人生」という名の過去があります。彼らは、いずれも「いつか解放される未来」ではなく、「心の中の決して損なわれない過去」に目を向け、それを他の人々に語ったのでした。


 「現在」と「未来」のない人は不幸である。この見方は間違っています。人はこの世界に生まれ、さまざまな人々と出会って、また、さまざまな出来事と出合って、そして死んでいきます。「散る桜 残る桜も 散る桜」というのは良寛の句ですが、人は必ず同じ道をたどっていくのです。その意味で、本書に登場する人質たちは、最初から「死」という定点から現在にさかのぼって物語る人々なのです。彼らの朗読は「祈り」であり、神聖な宗教儀式のようでもありました。

 

 それは、彼らが真に望んでいたものが、じつは犯人グループからの身柄の解放ではなく、魂の解放だったからかもしれません。


 ところで、本書が刊行されたのは2011年2月でした。その1ヵ月後、日本には大量の死者が生まれました。その死者たちにも、それぞれの物語があったことでしょう。

 

 そして、彼らが生を絶たれたことだけを嘆くのではなく、彼らが持っていた物語を大切にしなければならないということを本書は暗示しています。その意味で、本書には死別の悲しみを和らげるグリーフケア小説の要素があります。

 

 グリーフケアといえば、本書に収められた「B談話室」というエピソードには、本当にグリーフケアそのものについて書かれています。物語の語り手である42歳の作家は、28歳の頃、私立大学の出版局で校閲の仕事をしていました。彼はある公民館の受付の女性が気になって、さまざまな催しが行われている「B談話室」に入ります。そこでは「梔子(くちなし)会」というグリーフケアの集会が行われていたのです。本書には、そのときの様子が次のように書かれています。 (以下、引用)


 それは事故で子供を亡くした親たちの会合だった。僕はすぐさま自分が仕出かした過ちを恥じ、B談話室を出て行こうとした。ところが両隣の人に手を握られ、抜け出そうにも抜け出せない状況に陥ってしまった。集まった会員たちは全員手を握り合っていた。

 もし彼ら(右隣は地味な背広姿の中年男性、左隣は白髪を結い上げた小柄な女性)の手が何気なく僕の手に添えられているだけならば、会釈をして静かに退室できたのだろうが、両手から伝わってくる二人の掌は熱く、とても振り払うことなどできない切実さをはらんでいた。今この人たちは他人の体温を必要としている。握り合う手を求めている。たとえ僕のような者の手だとしても・・・・・。

 僕は覚悟を決め、浮かしかけた腰を再び椅子に落ち着けた。

 山で遭難した大学生、枕で窒息した乳児、ダンプカーに轢かれた幼稚園児、海で溺れた看護学校生、それぞれの父が母が、自分の子供について語った。生まれた日の明け方、朝焼けがどんなに美しかったか、最初に喋った言葉は何だったか、母の日に何をプレゼントしてくれたか、卒業文集に将来の夢をどう綴ったか、事故を告げる電話がどんなふうに鳴ったか、最後に交わした会話は何だったか。

 語る人も聞く人も皆泣いていた。僕はどうやっても涙を止めることはできなかった。これほど自分が泣くのはいつ以来か、思い出せないくらいだった。自分に順番が回ってきた時、何も喋れずただ泣きじゃくるばかりだったのは、自分が偽会員だということを誤魔化すためではなく、本当に涙で言葉が出てこないからだった。

 「いいのよ」

 左の耳元で、白髪の婦人の小さな声が聞こえた。

 右隣の男性が僕の手をいっそうしっかりと握り締めてくれた。

 僕が全くの部外者で、子供を亡くすどころかまだ家庭さえ持っていないと知られたら、きっとあの夜集まった梔子会の人々は憤るだろう。面白半分に同情しているだけだと誤解されるかもしれない。しかし会のあと、僕に後悔はなかった。あの時僕は泣いている人々の一員だった。僕の胸には山で遭難した青年や窒息死した赤ちゃんの姿がありありとよみがえっていた。まるで、長い間忘れていたけれど自分にとって大事な誰かのことをようやく思い出したかのような、懐かしい気持で、両隣の人の手を握っていた。その事実に偽りはなかった。

   (『人質の朗読会』p.83~85)


 愛するわが子を亡くした親たちは、わが子の思い出を物語る。人間とは、物語を必要とする生き物なのです。それは、人間が言葉というものを獲得したときから宿命づけられました。

 

 じつは、葬儀というものの本質も、じつは物語と深く関わっています。愛する人が死去する。その人が消えていくことによる、これからの不安。残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心にはいつまでたっても不安や執着が残ります。

 

 この不安や執着は、残された人間の精神を壊しかねない、非常に危険な力を持っています。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。まさに、葬儀を行う最大の意味はここにあります。


 では、この儀式という「かたち」はどのようにできているのでしょうか。

 それは、「ドラマ」や「演劇」にとても似ています。死別によって動揺している人間の心を安定させるためには、死者がこの世から離れていくことをくっきりとしたドラマにして見せなければなりません。ドラマによって「かたち」が与えられると、心はその「かたち」に収まっていきます。すると、どんな悲しいことでも乗り越えていけるのです。


 それは、いわば「物語」の力だと言えるでしょう。

 わたしたちは、毎日のように受け入れがたい現実と向き合います。そのとき、物語の力を借りて、自分の心のかたちに合わせて現実を転換しているのかもしれません。

 つまり、物語というものがあれば、人間の心はある程度は安定するものなのです。逆に、どんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもぐらぐらと揺れ動いて、愛する人の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。

 

 死者が遠くに離れていくことをどうやって表現するかということが、葬儀の大切なポイントです。それをドラマ化して、物語とするために、葬儀というものはあるのです。たとえば、日本の葬儀の8割以上を占める仏式葬儀は、「成仏」という物語に支えられてきました。葬儀の癒しとは、物語の癒しなのです。


 わたしは、「葬儀というものを人類が発明しなかったら、おそらく人類は発狂して、とうの昔に絶滅していただろう」と、ことあるごとに言っています。あなたの愛する人が亡くなるということは、あなたの住むこの世界の一部が欠けるということです。欠けたままの不完全な世界に住み続けることは、かならず精神の崩壊を招きます。不完全な世界に身を置くことは、人間の心身にものすごいストレスを与えるわけです。

 

 まさに、葬儀とは儀式によって悲しみの時間を一時的に分断し、物語の癒しによって、不完全な世界を完全な状態に戻すことに他なりません。人間は「物語」を必要とする存在なのです。

 

 本書は、その事実を優しく教えてくれます。そう、物語という「かたち」で・・・・・。