お探しの書名・著者名・キーワード等を入力して下さい

Title

幻影の星』

Category

No.0568

 

 『幻影の星』白石一文著(文藝春秋)を読みました。

 

 この読書館でも何度も取り上げてきたように、著者はわたしのお気に入りの作家の1人です。その最新刊ということで、シンガポールのホテルで読みました。


 帯には「死に満ちたこの星で、あなたにまた会えるでしょうか?」というキャッチコピーが大きく書かれています。また、「郷里の母から送られてきた、バーバリーのレインコート。なぜ? ここにもあるのに・・・・・。」「震災後の生と死を鋭く問う、白石一文の新たな傑作。」とも書かれています。

 

 村上春樹氏の『1Q84』では、これまでとは一変してしまった世界が描かれます。それと同じく、本書でも一変した新しい世界を描いていますが、それは東日本大震災の発生後に生まれたもう1つの世界でした。


 シンガポールという現実感の乏しい「幻影」のような国にふさわしい小説でした。最初は「SF」のような印象を持ったのですが、読み進んでいくうちに、最近の著者が志向していると思われる「形而上小説」なのだと思いました。

 

 ここのところ、著者の作品には哲学的傾向が強いということを多くの人々が指摘しています。それを「進化している」と賞賛するか、「こむづかしい」と批判するかは、人それぞれでしょう。わたしは哲学的な小説というのは嫌いではありませんが、純粋に物語を楽しみたい読者には向いていないように思います。ただし、哲学的小説だけあって、本書の中には「これは!」と考えさせられる言葉やセリフが多々ありました。以下に、わたしの脳を直撃した文章を紹介したいと思います。


 「死こそがすべてなのだ。人は生きて生きて生きるのではなくて、死んで死んで死ぬ。人は生きることを運命づけられた存在ではなく、死ぬことを運命づけられた存在なのだ。

 僕はふとそう思った。

 生に限りがあろうとも死には限りというものがない。生が時間に支配されたかりそめのイリュージョンだとしても、死は時間の軛から解き放たれた無限の営み、永遠の運動なのだ。時間の罠にかかった僕たちは、生を言祝ぐあまり、死の偉大さ、死の真実の意味、死の底深さや美しさをしっかり忘れてしまっている。死という永遠こそが束の間の生を約束してくれていることをすっかり忘れてしまっていること、死こそが生の母体であることを僕たちはいつの間にか見失ってしまっているのだ」(159ページ)


 「絶望や希望といった言葉は、そうした超絶的な現実の前ではもはや何の意味もなさないことを僕は感じた。今回の大地震や大津波のあと、巷に氾濫する『祈り』や『希望』といった言葉にどうしても自分が同調できなかった理由が、そのとき僕にはっきりと理解できた。僕たちは、あの大地震と大津波の光景を目の当たりにすることで、死の恐怖や絶望ではなく、実際は死の永遠性を垣間見たのである」(160ページ)


 また、主人公は日本におけるカトリックの総本山である東京カテドラルを訪れ、そこに「ルルドの泉」の実物大レプリカがあることを発見します。そこから主人公が思考する世界は圧巻で、次のように書かれています。

 

 「ルルドの泉は奇跡を生まなければ変哲もないただの洞窟に過ぎない。

 『はやぶさ』だって宇宙に飛び出さなければ単なる金属の塊でしかない。

 ガンダムに至っては本物自体が存在しないのだ。

 にもかかわらず、なぜ僕たちはそういうレプリカを懸命に作り上げるのだろうか?

 その理由は明らかだ。

 僕たちはレプリカを手にすることによって、すでに過ぎ去ってしまった始原のものを思い出したいのだ。またはどうしても忘れたくないのだ。

 つまりは僕たちの意識の中でそれらを自分のものとして現実化したいのだ。

 たとえばこの『ルルドの泉』は、かつて1858年に遠くフランスのピレネー山脈の奥地で起きた素晴しい奇跡を僕たちが思い出すために、または決して忘れずにいるために、いまこの地に存在している。イエスや釈迦の教えを信奉するのも、その手段として宗教施設に参拝するのも、またはそうした行為とは対極にあるように思われる、小型探査機を遥か彼方の小惑星に向けて打ち上げるのも、結局は、すでに過ぎ去ってしまった世界の出来事を僕たちが思い出し、僕たちの中に現実化するのが目的なのだ」(173~174ページ)


 「僕たちは過去を見ているのではなく、出来事の複製を見ているのだ。人の顔もそう。モノの形もそう。この世界で生起するすべての事柄を、僕たちは意識の中でレプリカとして見ている。誰かの顔が笑えば、その笑顔は光によってコピーされ、僕たちの意識に届く。そして、その光を僕たちは再びコピーして笑顔のレプリカを作り上げる。

 だとすれば、おそらく『時間』などないのだ。

 あるのは、そういうレプリカを作り上げていく技術のようなものに過ぎない。そして、僕たちはその技術のことを便宜的に『時間』と名付けているのではないか?」(175ページ)


 「考えてみれば、僕たち自身の肉体的な苦痛でさえ、それはある種の複製でしかない。たとえば鋭い刃物で肉を割かれたとしても、自分の肉体が刃物で切り裂かれたという物理現象、それによって血管が破れて、体内を循環している血液の一部が放出されるという物理現象、そういったものを僕たちはそのまま感じるのではなく、頭の中で痛みや驚きというレプリカとして感ずる。割れた傷口から覗く肉や骨や血管、周囲に飛び散る血しぶき、といった"現象そのもの"でさえも、僕たちはそれを音や光に一度転写して、それを頭の中で再構成して"感じ"ているに過ぎない。

 そうやって突き詰めていけば、この世界のすべての現象は音や光や生理学的電気パルスなどによって何らかの信号に一度変換され、それがレプリカとして再生されることで初めて僕たちに認識されるのだ」(176ページ)


 「すべての現象に『始まりがあって終わりがある』と思った瞬間に始まりと終わりが生まれる。僕たちは始まりのレプリカを手に入れた段階で、すでに終わりのレプリカもこの手に握り締めている。たとえば自分自身の人生がそうだろう。誕生を意識した途端に死が約束される。誕生と死は同時に生まれるのだ。僕たちは『誕生』してのちは、人生に起きるさまざまな出来事を『始まり』と『終わり』という枠組みでずっと把握しつづける。そして、最後にいまさらのように『死』を発見して、驚いたり恐れたりするのだ。『死』が人生の終わりだというのは、いわば1つの考え方でしかない。『誕生=人生の始まり』と意識したゆえに、『死=人生の終わり』と僕たちは受け止めざるを得なくなるだけの話なのだ」(189~190ページ)

 

 これはもう、明らかに小説の域を越えています。しかし、ここに書かれていることはあまりにも重要であり、「こむづかしい」などの一言で片付けられる問題ではありません。このまま膨らませれば、そのまま『レプリカの思想』という哲学書が出来るように思います。そして、その本は「時間」と「死」の本質に迫る内容となるはずです。


 最後に、健ちゃんという登場人物が主人公に放つ次の一言が胸に突き刺さります。

 

 「放射能で5年や10年寿命が縮んだとしたって別に構わんのやない? 

 10年余計に生きたって何てことないやろ。いずれ誰だって最後は死ぬんやし、遅いか早いかだけやもんね。或る世代が放射能のせいでみんな早死にしたとしたってさ、大きい目で見れば案外人類にとって悪いことやないかもしれんよ。あっと言う間に100億人を突破するなんて言われてる世界人口を減らせるとしたら、もう原発事故くらいしかないんかもしれん。戦争で人間同士が殺し合うより、放射能のせいで子供作るのを控える方がずっと平和的とも言えるんやないかね。まあ、欲ったかりな人間のことやから逆にバンバン繁殖するんかもしれんけどね。でもとにかくさ、俺たち人類がどっかでこの増えつづける人口をどげんかせないかんのは間違いないやろ」(203~204ページ)

 

 うーん、「ポスト東日本大震災文学」というジャンルがあるとしたら、本書はその第1号かもしれません。読み終えたわたしは、そんなことを考えました。