お探しの書名・著者名・キーワード等を入力して下さい

  • HOME
  • 反・幸福論
Title

反・幸福論』

Category

No.0550

 

 『反・幸福論』佐伯啓思著(新潮新書)を読みました。

 

 著者は、日本を代表する社会経済学者で、京都大学大学院人間・環境学研究科教授です。本書の帯には「人はみな幸せになるべきなんて大ウソ!」と大書され、「稀代の思想家が『この国の偽善』を暴く。」と続きます。


 わたしは著者の書く本の愛読者で、ほとんどの著作を読んできました。特に、『「欲望」と資本主義』(講談社現代新書)が素晴らしく、その斬新な視点とクールな論理の進め方には非常に感銘を受けました。わがHPで公開している「私の20世紀」の「20冊の日本思想」に選ばせていただいたぐらいです。

 

 また、『人間は進歩してきたのか―現代文明論〈上〉「西欧近代」再考』および『20世紀とは何だったのか―現代文明論〈下〉「西欧近代」の帰結』(ともにPHP新書)も夢中で読みましたが、壮大なスケールの名著でした。著者は、どこかで「岩波文庫とか中公の『世界の名著』とか、本当にスタンダードな古典だけを参考文献にした本を書きたい」と述べたことがあります。その文章が見事にわたしのハートにヒットして、わたしは大教養人としての著者のファンになったのです。

 

 著者は数年前に、福岡経済同友会で講師を務められたことがありますが、そのとき初めてお話しさせていただきました。その後、わたしの著者やお手紙を送ったりもさせていただきました。そんな憧れの方の最新刊ということで、楽しみにしていました。そして読み終わって、本書はわたしの考えとは違う部分も多いと感じました。


 本書の「目次」は、以下のようになっています。

 

「はじめに」

第一章:サンデル教授「白熱教室」の中の幸せ

第二章:「国の義を守る」という幸福の条件

第三章:「無縁社会」で何が悪い

第四章:「遁世」という幸せ

第五章:人間蛆虫の幸福論

第六章:人が「天災」といわずに「天罰」というとき

第七章:畏れとおののきと祈りと

第八章:溶解する技術文明

第九章:民主党、この「逆立ちした権力欲」

「あとがき」


 「はじめに」で、著者は「戦後日本は、個人の『自由』と経済的な『豊かさ』を最大限に獲得すべく、ともかくも経済成長を達成しました」と書いています。平和主義路線と経済成長路線で世界からそれなりに尊敬される国になろうとしてきたのですが、話はそれほど単純ではないことになってきました。著者は、「個人の自由」や「経済的な富」が拡大すればするほどよいという戦後日本の、もしくは近代主義の価値観に大きな錯誤があったのではないかとして、次のように述べています。

 

 「考えてみれば、日本の伝統的な価値観は、決して個人の自由礼讃や富の称賛をしてきたわけではありません。それどころか、『個人の自由』や『経済的な富』に対しては随分と警戒的だったのです。その意味では、日本の価値観の根本には、近代主義とはどうしてもなじまないところがあります。戦後日本の価値とは対立しあう面があるのです。

 それに代わってわれわれがもともともっていたものは、独特の人生観であり、死生観であり、自然観だったのです。国民の価値とは、本来、人生観、死生観、自然観、それに歴史観によって組み立てられます。ところが、この人生観や死生観、自然観が戦後日本ではすっかり忘れさられてしまいました。自由や富はいくら積み上げても人生観や死生観の代わりにはならないのです。もっといえば、人生観や死生観や自然観を見失ったために、どれだけ自由を求めても、経済を成長させても、幸せ感がなかなか得られないのではないでしょうか」


 さらに著者は、日本人の幸福観について次のように述べています。

 

 「日本の伝統的精神のなかには、人の幸福などはかないものだ、という考えがありました。むしろ幸福であることを否定するようなところがありました。少なくとも、現世的で世俗的で利己的な幸福を捨てるところに真の幸せがある、というような思考がありました」

 

 それをすべて肯定するわけではないけれども、かつての日本人がどうしてそのように考えたのか、そのことを思い出してみたいとして、本書は「反・幸福論」なのだそうです。


 現在、日本でもアメリカでも、「幸福論」が大はやりです。著者は、「幸福論」がはやるというのは、多くの人が何か不幸だと感じているからではないかと推察します。その意味では、この時代は決して良い時代とは言えないとして、次のように述べます。

 

 「今日の日本は『個人主義の国』でもなければ『集団主義の国』でもなくなってしまったように見えます。あえていえば今日の日本は『個人主義の国』でも『集団主義の国』でもなく、ただ『虚無主義の国』であるかのように思われるのです。

 アメリカでは、まだしもかろうじて『コミュニティ』が存在し、その上に個人主義が乗っかっているのに対して、現代の日本では、家族にせよ地域にせよ、その『コミュニティ』らしきものが崩壊してしまったために、まともな意味での集団主義にもならず個人主義にもならず、その両者の間を揺れ動きつつも身動きが取れない。これも煎じつめれば、『個人』であれ『集団』であれ、何らかの価値というものに信を置くことができなくなってしまったという『虚無』に浸されていることのあらわれと解するほかありません」


 日本は、アメリカと戦争をして負けました。民俗学者で歌人でもあった折口信夫にとって、あの敗戦の意味は日本の神が敗北したことでした。そしてその結果、神々はもうどこにも落ち着く場所を持てずに「宮出でゝ さすらひたまふ」ことになりました。著者は、この折口信夫の心情について、次のように述べます。

 

 「折口は、『すさのを』や『おほくにぬし』といった『古事記』に登場する名のある神々を引いていますが、もともと日本人の自然観には、自然の中に神々が宿るというアニミズム的な信仰がありました。ことに山には独特の霊性があり、山岳信仰のように山そのものが神性をもった場所として信仰の対象にもなったのです。吉野や熊野のような山岳信仰ではなくとも、田畑に囲まれた片田舎の小さな山々もそれなりに畏怖され、どこか霊性を帯びたものだとみなされてきた。柳田國男が『山の人生』で描き出したように、山に住む鬼によって人さらいにあったり、神隠しにあったり、山にはどうやら不思議な霊力が働いていると思われていたようです」

 

 著者は、このような霊力を背景にして、村々には神社があり、神社を中心にして共同体が作られていたと述べます。神社にはご神木やお稲荷さんがあったりして、この霊力が共同体を守っていると人々は考えました。いずれにせよ、神々が村々の共同体をまとめあげていたと言えるでしょう。


 さらに著者は、「神が敗れた」ことについて次のように述べます。

 

 「『神が敗れた』ということは、山里から神々もいなくなった、ということです。それは、必ずしも折口が述べたような、伊勢神宮や出雲大社に祭られた『古事記』の神々だけではなく、村々にいた土着の名もない神々の敗北でもあるのです。端的にいえば、『ふるさと』の敗北であり『都会』の勝利なのです。自然のうちに宿る神々によって守られてきた村々の敗北であり、都会の合理主義、近代主義の勝利なのです」


 社会経済学者である著者の本に「折口信夫」の名が登場したのは意外でした。

 でも、著者の発言の内容には非常に共感できました。共感できなかったというか、違和感を覚えたのは第三章「『無縁社会』で何が悪い」です。日本社会の無縁化が叫ばれ、わたしなどもその対応策をいろいろと考え、行っています。しかし、著者は「そこで考えてみてください」と読者に呼びかけ、「実は、戦後の日本人はこぞってこの『縁』なるものをうっとうしく想い、放棄することに邁進してきたのではないでしょうか。さらにさかのぼれば、これは明治という近代の夜明け以来、というべきかもしれません」などと述べています。

 

 こういった論調自体は著者独自のものではなく、けっして珍しくありません。島田裕巳氏の著書『人はひとりで死ぬ』の主張もまったく同じです。著者は、無縁社会はわれわれが選択したことであるとして、次のように述べます。

 

 「都市化という形で近代化を目指したとき、われわれはこぞって『故郷喪失者』になろうとしたのです。いつまでも『故郷』などに縛られたくはない。都会ではばたかなければ幸福になどなれないと考えたのです。積極的に『故郷喪失者』であろうとしたのでした。それはまた「縁」を断ち切ることでした。われわれは『無法者』ではないにしても『無縁者』になろうとしたのでした。今頃になってまた『コミュニティ』が見直されたり、時には『絆』などといわれたりします。両方とも、『共同体』や『縁』とはあえて言わないのです。『共同体』や『縁』は『ムラ』や『イエ』を連想させてしまうからです。『絆』というのは、個人がある意味で自由に選びとり作り出すものです。それは偶然を引き受けようという『縁』とは似てはいるがまったく違った言葉です」


 都市化の中で日本人の多くが「無縁者」になろうとしたのは事実でしょう。また、「縁」と「絆」は似て非なるものであるという指摘も同感です。

 わたしは「縁」とは人間が社会で生きていく上での前提条件であり、「絆」とはさまざまな要因によって後から生まれるものだと考えています。「縁」のない人はいませんが、誰とも「絆」を持てない人はいます。いわば、「縁」とは先天的であり、「絆」は後天的であるとも言えるでしょう。

 

 ここで、著者は「故郷喪失者」という言葉を使いました。この言葉はドイツ語では「ハイマートロス」ですが、それをそのまま英語にすると「ホームレス」になってしまいます。著者は述べます。

 

 「じっさい、故郷喪失者とは『ホーム・レス』なのです。

 『家庭』という『縁』を失って、帰るべき『イエ』がない。

 『無縁者』といってもいいけれど『失縁者』といってもよいかもしれません。

 そして『ホーム・レス』を待っているのは『行旅死亡人』であるほかない。

 孤独死はなにも特異なことではありません。現代社会のひずみというようなものでもありません。それは近代化の帰結なのです。いささか極端にいえば『われわれは皆孤独死をすべき』なのです。『どうして無縁死が悪いのだ』というほかないのです」


 孤独死が近代化の帰結というのはまだわかるとしても、「われわれは皆孤独死をすべき」なのであり、「どうして無縁死が悪いのだ」と居直られても困ります。都市化や近代化といった日本社会の歩みが「孤独死」や「無縁社会」を呼び込んだことは事実でしょうが、それは「帰結」というよりも「副作用」と呼ぶべきだと思います。副作用に気づいたのなら、わたしたちはその対処を真剣に考えなければなりません。

 実際、孤独死の不安におびえている独居老人が大量に存在します。その現実を見れば、学者や評論家などの一部のインテリが「われわれは皆孤独死をすべき」「どうして無縁死が悪いのだ」とうそぶいてニヒリズムを気取っている場合ではないのです。


 思うのですが、学者や評論家や作家といった「物書き」の世界では、いま、孤独死肯定論や無縁社会肯定論を唱える人が多くなってきました。彼らは、『〔増補〕無縁・公界・楽』での網野善彦の中世論などを引用しつつ、「われわれは無縁を望んでいたのだ」などと言うわけです。

 

 どうも最近は、こちらのほうが正論で、真面目に「有縁社会」の再生をめざす意見のほうが異端となりつつあります。ネットなどを見ても、その傾向が強まっていますね。

 

 いわば、わたしのように隣人祭りなどを開催している人間はドン・キホーテなのかもしれません。それでも、わたしは今後も、ドン・キホーテとして「無縁化」の波に抗う悪あがきを続けたいと思います。著者は「無縁社会で何が悪い」と言いますが、わたしに言わせれば「無縁社会を悪いと言って、何が悪い」といったところです。


 このように違和感を感じるところもあった本書ですが、非常に興味深く読んだ箇所もありました。たとえば、「現代の死生観」について述べた部分です。著者は、近代社会の大きな問題点は「死生観」を作り出すことができなかった点にあると指摘します。

 

 著者いわく、死生観とは、「死」をどういうものとして受け入れ、「死」を前提としてどのように生きればよいのかという漠然たる了解です。中世には「メメント・モリ(死を忘れるな)」という教訓がありましたが、生命尊重主義、生存至上主義をとる近代社会では死生観を持つことができなかったというのです。そして、著者は「死」に最も近いはずの医者が「死」に関心を持っていないとして、次のように述べています。

 

  「医者が『死』についてあまり関心をもたないのは、ひとつは、医者は死者を相手にするのではなく、あくまで『生』の側にいるからでしょう。職業柄『生かす』ことを考えるのでしょう。それともうひとつは、どうやら『生』も『死』もたかが生物体の個体が消滅するかどうかだけのことで、それも生物的現象だと思っているふしがあります。

強いていえば現代の死生観なるものはそういうものなのです。いわば『死生観なき時代の死生観』といってもよいでしょう」


 著者は、現代の死生観とは生命尊重主義、生存第一主義の時代の「死生観もどき」であり、「死生観の代理」だとして、次のように述べます。

 

 「この文明の最高度な段階で、われわれは『死とは、ただ個体としての生物体の消滅である』というあまりにあけすけで単純でむき出しの『死』という原点に復帰したというわけです。とすれば、ベッドにくくりつけられて死ぬのも、誰に知られることもなくひっそりと孤独死をするのも実は同じことなのではないでしょうか。どちらも、『死とは、ただ個体としての生物体の消滅である』という現代の原理からすれば、同じ考え方に基づいているのではないでしょうか」


 考えさせられたのは、無縁死とは「現代の姥捨て」ではないかという指摘です。著者は、次のように述べています。

 

 「無縁死とは、もっとわかりやすい現代の姥捨てということになるでしょう。いわば自己責任原則による姥捨てのセルフサーヴィスのようなものなのです。そして結局、姥捨てにかわる別のやり方を現代の文明が発見したわけでもないのです。

 私は、何も無縁死を礼讃しようとしているわけではありません。

 ただ、姥捨てを悲惨だ、凄惨だ、人権無視だといって非難するほど、われわれが進歩したわけでもなんでもない、ということなのです」

 

 さらに著者は、「孤独死」についても次のように述べます。

 

 「『死』とは、どうしても生物体としての個体の消滅です。『人間』が否応なく動物に戻る瞬間なのです。そこにどんな死に方がいいも悪いもありません。自然死としては、できるだけ荷物を軽くし、現世の縁をたち、誰にもさして迷惑をかけず(確かに死体処理者や遺品処理者にはかなり迷惑がかかりますが)、猫が自らの死期を悟ったとき姿を消すように、いつのまにかこっそりと孤独死するのが本当の姿なのです」


 そして、「家族」について述べた以下のくだりには非常に共感しました。

 

 「実は家族こそが最大の『縁』です。だから『家族』が解体してゆくと、本当に『無縁社会』がでてきます。私は、本当に『家族』が解体するとは思いませんが、『家族の意味』が見えにくく、著しく希薄になっていることは間違いない。

 その先に待っているのは、『無縁社会』ということになる。家族から逃れて広い社会でもっとよい『縁』が作り出されるとも思えないからです。しかしそもそも本当に家族から逃れることはできるのでしょうか。夫婦は離婚することができます。しかし、子供とは簡単に縁を切ることはできません。それに、それよりも以前に、誰にも必ず親がいます。たとえ死んでいても親の記憶はあるし、場合によっては遺産も借金もある。『横軸』は破棄することができても、『縦軸』は破棄できないのです」

 

 この著者の発言には、まったく同感です。わたしは隣人祭りで地縁の再生に取り組んでいますが、血縁こそは最もつながりの深い縁であり、その中でも家族が最大の縁なのだと思っています。だから、最近のカラオケでは必ず福山雅治の「家族になろうよ」を歌っているのです(笑)。


 それ以外では、第六章「人が『天災』といわずに『天罰』というとき」が秀逸でした。

 東日本大震災の話題から始まりますが、自然災害のエピソードとして、著者は1755年に起こったリスボンの大地震を取り上げます。当時のヨーロッパ社会に甚大な影響を与え、思想上の大転換をもたらす契機となった巨大地震です。著者は、次のように述べています。

 

 「この地震は11月1日のキリスト教の祭日に起き、多くの教会を破壊したのです。そのこともあって、当時まだ中心的であった神学的な世界観は大きな打撃を受け、それに代わる近代的な世界観の登場を助けたのでした。

 たとえばヴォルテールはまずこの地震に触発されて『リスボンの災難に関する詩』を書き、続けて有名な『カンディード』を書くことになります。『カンディード』は、神の創造した世界においてはあらゆるものが『最善』である、というライプニッツ的な弁神論に挑戦するために書かれた書物でした」


 また、カントは地震の影響から『美と崇高の感情の観察』という著書を書きます。さらに、それをもとにして彼は有名な『判断力批判』を書くのでした。興味深いことに、カントは「われわれは絶対的に大なるもの(マグニチュード)を崇高と名付ける」と述べています。このカントの「崇高」について、著者は次のように要約しています。

 

 「すさまじい破壊力を持つ火山、すべてをなぎ倒す暴風、怒濤渦巻く無辺際の大洋、おびただしい水を落下させる瀑布、こうしたものは絶大な威力をもってわれわれの前に姿を現す。この自然の威力を前にしてわれわれは全くの無力感に襲われ、大きな恐怖を覚えるだろう。しかしこのどうしようもない無力感、絶望感と恐怖があるからこそ、われわれは理性や構想力でもって、自然の意味を理解し恐怖を克服する。

 そのとき、人は自然の驚くべき脅威を前にしつつ、その自然に向かって毅然と立つ。

 こうして人は自然に対する優位を確保するのである。恐ろしい自然は確かに人間の生命を根底から脅かすが、理性と構想力によってその恐怖を克服する人間は、ただ生きるという生命保存とは違った「人格性」をもつことができるのである」


 カントは、「崇高」はわれわれ人間の本性に内在していると考えます。そして、圧倒的な自然の脅威や暴威がこの「崇高」を目覚めさせるというのです。著者は、これについて、次のように述べています。

 

 「もちろんカントのいう『崇高』は自然災害ばかりではなく、目を見張るような瀑布、壮大極まりなくそびえ立つ山々といったものでもある。とはいえ、今回のような大地震、大津波を前にすれば、われわれはどうしようもない絶望的な恐怖にとらわれるでしょう。それは当然のことです。それでもカントはいいます。『自分の正直な心意を神の御心に適うものとして意識するときにのみ、かかる威力の作用は、神的存在者の崇高性を彼の理念のうちに喚起するのに役立つ』と」


 石原慎太郎都知事の著書『新・堕落論』での「天罰」発言が問題になりました。奇しくも同じ新潮新書であるとはいえ、本書で著者が石原都知事の「天罰」発言を擁護する気があるのかどうかは知りません。でも、もともと日本人、いや人間には「天罰」という考え方が備わっていることは言えるでしょう。さらに、「天罰」という言葉によって人は何かを思い出すのではないかとして、著者は次のように述べます。

 

 「『天』といっても『神』といってもこの場合、あまり変わりません。

 『天罰』だか『神罰』だかという言い方によって、初めてわれわれは今日のわれわれが忘れてしまったものを思い起こすことができるのでしょう。

 小林秀雄は、かつて『あの戦争』の始まったとき、『神風がふいた』という言い方について、実によい言い方ではないか、と述べたことがあります。『神風』があるのなら『神罰』もあるでしょう。『神罰』だということによって、われわれは何を忘れ去ってしまったのか、と改めて自らに問うことができるでしょう」


 孤独死、無縁社会、天罰・・・・・本書には多くのテーマが語られており、それなりに考えさせられます。しかし、『「欲望」と資本主義』に大きな感動を覚えたわたしとしては、ちょっとテーマが拡散しすぎて消化不良の思いも残りました。

 

 著者のような大教養人が守備範囲を拡げることは間違っていないのでしょうが、やはり専門の社会経済学の著書に比べると物足りないことも事実です。専門分野というのは馬鹿にできないものだと改めて思いました。