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本居宣長(上下巻)』

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No.0551

 

 『本居宣長』上・下巻、小林秀雄著(新潮文庫)を再読しました。

 

 著者の小林秀雄は、「近代日本最高の知性」とまで言われた評論家です。その彼が、国学の巨人である本居宣長の生涯と謎に挑戦したのが本書です。わがHPで公開している「私の20世紀」の「20冊の日本思想」にもリストアップされている本書の冒頭は、次のような書き出しで始まっています。

 

 「本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、『古事記』をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』でと思い、読んだことがある。それから間もなく、折口信夫氏の大森のお宅を、初めてお訪ねする機会があった。話が、『古事記伝』に触れると、折口氏は、橘守部の『古事記伝』の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の『古事記伝』の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。『宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか』という言葉が、ふと口を出て了った。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥ずかしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に『小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら』と言われた」

 

 冒頭から、いきなり折口信夫と小林秀雄という「知の巨人」同士が絡みます。彼らが語っているテーマは、これまた江戸時代を代表する「知の巨人」本居宣長! この豪華な顔合わせに、わたしの胸は高鳴りました。


 よく知られているように、宣長は激しく儒学を批判しました。そこには、「やまと心」と「漢意(からごころ)」の問題がありました。「言挙げせぬ」神道の精神を重んじる宣長は、理論的な儒学を「あげつらい」の小賢しい学問と見ていたのです。著者の小林秀雄は次のように書いています。

 

 「宣長の正面切った古道に関する説としては、『直毘霊』(明和八年)が最初であり、又、これに尽きてもいる。『直毘霊』は、今日私達が見るように、「此篇は、道といふことの論ひなり」という註が附けられて、『古事記伝』の総論の一部に組み込まれているものだが、論いなど何処にもない。端的に言って了えば、宣長の説く古道の説というものは、特に道を立てて、道を説くということが全くなかったところに、我が国の古道があったという逆説の上に成り立っていた。そこで、『皇大御国』を黙して信ずる者の、儒学への烈しい対抗意識だけが、明らさまに語られる事となった。当然、人々の論難は、宣長の独断と見えるところに向って集中した」


 後年、『直毘霊』を刊行して間もなく、宣長は還暦を迎えます。そして、彼は自画自賛の肖像画を作りました。その賛が、名高い「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」の歌でした。宣長は国学の専門家として、また生涯に自ら一万首を詠んだ歌詠みとして、よく知っていたこの古歌を取り上げたまでだったのです。しかし、ここに出てくる「やまと心」という言葉は、儒学者には耳障りで挑発的な響きを持ちました。

 

 そして、宣長は「漢ごころ(漢意)」を排斥しました。宣長の師である賀茂真淵がまず、『古事記』などの神典を正しく理解するには古えの心(古意)(いにしえごころ)を得なければならず、その古意を得るためには漢意を除き去る必要があると教えました。この教えは宣長において「漢意批判」として体系化される国学の思想方法論です。


 『古事記』の伝承における古えの心(古意)は、漢意を取り除くことによってはじめて明らかにされるというのです。つまり、古意とは漢意を排除することによって明らかにされる日本古代固有の心意なのです。言うまでもなく、漢意とは、外部から日本に導入された漢字文化にともなわれた儒教に代表される考え方であり、物の見方のことです。漢意の問題は、国学思想のもっとも重要な側面を形作りました。

 

 国学とは「日本文化の固有性をもった学問であり思想」ということですが、この固有性への志向は、文化における外来的なものの排除する傾向をともなうわけです。

 宣長の漢意批判は漢字そのものへの批判にもつながり、漢字によって書かれた『日本書紀』を漢意的な解釈に汚染されたものとして低く評価し、彼が「あるが中の最上たる史典」と呼んだ『古事記』よりも下に位置づけました。宣長以前は、ずっと『日本書紀』の方が『古事記』よりも上だったのです。宣長は、千年以上も「久しく心の底に染着たる漢籍意(からぶみごころ)のきたなきこと」に気づき、『古事記』の「古語のままなるが故に、上代の言の文も、いと美麗はしきもの」であることを悟ったのです。


 このように、儒学を徹底的に批判した宣長の人生には1つの大きな謎がありました。

 彼が、書き遺した「遺言書」です。死の1年ほど前の1800年7月に長男の春庭と次男の春村宛に書かれたものですが、日本人の「遺言書」の歴史があるとしたら、その中でも最も異例な、異様とさえいえる内容のものでした。自らの死に備えた「遺言書」といえば、死を迎える者の感慨が何らかの形で書かれていることを予想しますが、宣長の「遺言書」は人の予想をまったく超越したものだったのです。


 その内容とは、納棺・埋葬・葬送・葬式・戒名・墓地・祥月などについての詳細な指示書そのものでした。自身の葬儀や墓地のあり方をディティールに至るまで事細かに図入りで指示しているのです。 彼は世のしきたりにしたがって葬儀は樹敬寺で仏式で行われることを指示しながら、自分の遺骸は生前自ら定めた山室山の「本居宣長之奥津紀」に前夜内密に葬るように指示しています。また納棺についても、蓋の閉め方、釘の打ち方まで述べているのです。

 

 墓地についての指示に続いて、墓参についての指示があります。さらに毎月の祥月の供え物の内容、祥月に1度は歌会を催すべきであること、歌会の客に対しての支度は「一汁一菜」であることまで指示しているのです。まさに異様としか表現できない「遺言書」なのです。


 生前の宣長は「死」について、わが古えにあって人は「ただ死ぬればよみの国へ行く物とのみ思ひて、かなしむより外」なかったのだとドライに言い切っています。この言い切り方には、死の不安を抱き、仏教に救いを求める世の人々の心を斟酌する趣きはいささかもありません。一般に、死に関心を抱かない者は葬儀にも無関心です。唯物論者がその好例です。しかし、宣長の「遺言書」には、偏執的ともいえるほどに葬儀への関心が示されていたのです。

 

 宣長の「遺言書」は大きな謎とされ、本書の冒頭にも出てきます。本書の下巻の最後には「『本居宣長』をめぐって」と題する小林と江藤淳の対談が掲載されています。この対談には、次のように「遺言書」の話題が出てきます。

 


小林  ああいう遺言を書いたという事は、これはもう全く独特なことです。世界中にないことです。それがとてもおもしろい・・・・。

 

江藤  宣長の葬儀のときには、やはり遺言のとおりにはいかなかったのでしょうね。

 

小林  それは幕府の奉行所から文句が出て、あのとおりにはいかなかった。空(カラ)で行くというような奇怪な事でして、後で、どういう申しひらきが出来るかという事でね。

 

江藤  冠婚葬祭といいますが、葬いというものは、やはり人生の終わりの儀式ですから、あらゆる文化の中で葬儀とか葬礼というものは、その文化の表現として重要なものだと思います。たとえば『礼記』の中にも葬いのことは細かく規定されていますが、お葬式というものは大変大切なものだと思います。(「『本居宣長』をめぐって」より)

 

 

 結局、2人は宣長の謎の「遺言書」および葬儀についての結論を出していません。江藤の「宣長の学問の一番深いところにつながっている」とか、小林の「あの人の思想のあらわれ」などの簡単なコメントの後、他の話題に移っています。謎は謎のままです。しかし、わたしには思い当たる節があります。江藤淳が述べているように、葬儀や葬礼は重要な文化の表現です。そして、それを細かく規定した『礼記』とは言うまでもなく儒教の書物です。

 

 儒教こそは、最も葬礼に価値を置く宗教に他なりません。もうおわかりかと思いますが、宣長の「遺言書」の葬儀についての尋常ならぬ思い入れは、きわめて儒教的なのです。じつは、「遺言書」は葬儀、墓地、墓参についての長々とした指示の後、最後に「家相続跡惣体の事は、一々申し置くに及ばざるに候。親族中随分むつまじく致し、家業出精、家門断絶これ無き様、永く相続の所肝要にて候。御先祖父母への孝行、これに過ぎざるに候、以上」という言葉をもって閉じられる。

 

 この最後の言葉だけが、いかにも「遺言書」らしいなどと言われていますが、これはもう明らかな儒教思想以外の何物でもありません。


 わたしは、宣長は学問としての「儒学」は否定しても、宗教としての「儒教」は肯定していていたのではないかと思います。そのように考えると、「遺言書」の謎が解けます。宣長の「遺言書」は、まさに儒教思想のエッセンスなのです。

 

 儒教の核心は「礼」の思想にありますが、それは葬礼として最高の形で表現されます。日本に儒教が伝来し、それによって律令制度が作られました。しかし、それは、あくまでも「礼」抜きのものでした。宣長は、腹周りの贅肉のようにまとわりつき臍である「礼」を隠している儒学的な理論には反発しましたが、「礼」そのものには深い共感を覚えたのではないでしょうか。


 彼は気軽に古歌を取り上げたところ、そこに出てくる「やまと心」が儒学者たちを刺激し、彼もまたそれを受けて「漢ごころ」批判を展開したため、儒学批判の象徴的存在とされましたが、その根本の根本において儒教をリスぺクトしていたように思えてなりません。日本史上において「儒学」の最大の批判者であった本居宣長は、「儒教」の最高の理解者にして実践者でもあったのです!

 

 葬儀について詳細に指示しつつ、最後は先祖や父母への孝行を指示した宣長の「遺言書」こそは、死の直前にその根本においての儒教肯定をカミングアウトするという、「ダ・ヴィンチ・コード」ならぬ「宣長コード」であったと、わたしは思います。なお本書には、江戸時代に活躍した多くの儒学者たちも生き生きと描かれています。その中の1人に、『論語』を「宇宙第一の書」と表現した伊藤仁斎も登場します。

 

 本書を読んで改めて思ったのは、日本人の「こころ」は神道・仏教・儒教の三本柱によって支えられているということ。日本人を含む現代人の「こころ」を総合的に探り、これからの「幸福」の道を求めるのが平成心学の目的なのです。