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「いき」の構造』

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No.0531

 

 『「いき」の構造』九鬼周造著(岩波文庫)を再読しました。

 

 九鬼周造は、実存的な立場から時間論や偶然論を論じた哲学者です。

 

 芸術、特に文芸の哲学的解明に関しても優れた業績を残した人です。『「いき」の構造』は『文芸論』とともに、この方面における代表作で、日本人における「いき」というものを解釈学的な方法で解明しようとした名著です。それによると、「いき」の構造は次の3つの契機を含んでいるといいます。「媚態」と「意気地」と「諦め」です。第1の「媚態」はその基調を構成し、第2の「意気地」と第3の「諦め」の2つはその民族的・歴史的色彩を規定しています。


 まず、異性に対する「媚態」から見てみましょう。異性との関係が「いき」の原本的存在を形成していることは、「いきごと」が「いろごと」を意味することでもわかります。「いきな話」といえば、異性との交渉に関する話を意味しています。また、「媚態」は異性の征服を仮想の目的とし、目的の実現とともに消滅の運命を持ったものです。

 

 永井荷風は『歓楽』において、「得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない」と書いています。さらに菊池寛の『不懐の白珠』のなかで「媚態」というタイトルの下に次の描写があります。

 

 「片山氏は―玲子と間隔をあけるように、なるべく早足に歩こうとした。だが、玲子は、そのスラリと長い脚で―片山氏が離れようとすればするほど寄り添って、すれずれに歩いた」

 

 つまり、「媚態」のポイントは、距離をできる限り接近させつつ、距離の差が極端に達しないこと。このような「媚態」が「いき」の基調である「色っぽさ」を規定するのです。


 次に「意気」すなわち「意気地」です。「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想があざやかに反映されており、江戸っ子の気概が契機として含まれています。

 

 野暮と化物は箱根より東に住まないことを「生粋」の江戸っ子は誇りとしました。「江戸の華」には、命をも惜しまない町火消、鳶者は寒中でも白足袋はだし、法被一枚の「男伊達」。「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳の侠骨」がなければならないのです。

 

 「いなせ」「いさみ」「伝法」などに共通な気品や気格がなければならないのです。「野暮は垣根の外がまへ、三千楼の色競べ、意気地くらべや張競べ」というように、「いき」は媚態でありながら、なお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識なのです。「いき」のうちには、武士道の理想が生きています。「武士は食わねど高楊枝」の心が、やがて江戸者の「宵越の銭を持たぬ」誇りとなり、意気となったのです。


 そして、「諦め」です。運命に対する知見に基づいて執着から離れた無関心です。「いき」は、垢抜けしていなくてはなりません。「いき」は、「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界」にその起源を持っています。そうして「いき」のうちの「諦め」、したがって「無関心」は、世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心です。つまり、「野暮は揉まれて粋となる」のです。

 

 九鬼周造は言います。運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きること、それが「いき」なのだと。こうした「いき」の構造は、武士道の理想主義と仏教の非現実性を背景とするもので、「わが民族存在の自己開示」として把握されるべきものなのです。


 こうして、九鬼周造は「いき」の意味構造を明らかにします。その後は、「いき」の身ぶり、および芸術表現の分析に移ります。

 

 「いき」な身ぶりとは何か。それは、一語を普通よりやや長く引いて発音し、しかるのち、急に抑揚をつけて言い切る言葉づかいである。姿勢を軽く崩すことである。細っそりした姿であり、細おもての顔である。眼と口と頬とに弛緩と緊張を要することである。そして、抜き衣紋であり、左褄であり、素足であり、何よりも「うすものを身に纏った」女姿の「明石からほのぼのとすく緋縮緬」といった風情である。このように九鬼は、ほのぼのとした日本的色情を讃美し、西洋の画にある全裸は少しも「いき」ではないと言うのです。


 「いき」は芸術としても表われます。彼は「いき」の精神の自由な表現である主観的芸術を、かなり具体的に考察しています。

 

 例えば、縦縞は横縞より「いき」であるとか、「いき」な色とは、ねずみ色、茶色、青色の三系統のいずれかに属するとか、建築上の「いき」は茶屋建築に求めていかなければならないとか、「いき」な音曲においては変位が多く、一リズムの四分の一に近いとか。ここに至ってその叙述は、「いき」の趣味の理解者であるばかりでなく、底の底まで「いき」なお人でなければ到底書けないものとなっています。さすが、男爵の息子として東京に生まれ、京大教授となってからは、学問と並行して、祇園で派手に遊んだ九鬼周造ならではの鋭い分析と言えるでしょう。

 

 わたしは、「月の織姫」こと築城則子先生の小倉織の縦縞模様にいつも「いき」を感じています。築城先生の小倉織の作品は、わが社の「松柏園ホテル」や「小倉紫雲閣」にも飾られています。また、わたしは日頃から築城先生がデザインした小倉織の模様が入った名刺入れやペン皿やショッピングバッグを愛用しています。


 九鬼周造は、「いき」だけでなく、「風流」についても述べました。『風流に関する一考察』という文章を書いており、そこで「風流」にも3つの契機というか、要素があると述べています。それは、「離俗」と「耽美」と「自然」です。

 

 まず、第1に、「風流」は「離俗」です。「風流」とは世俗に対していう言葉であり、社会的日常性における世俗を絶つことから出発しなければなりません。語源からいうと、風声品流の能く一世をほしいままにするのを「風流」というのだそうです。しかし、それは別として、「風流」の本質とは「風の流れ」といったところです。水の流れには流れる床の束縛がありますが、風の流れには何も束縛がありません。世俗を絶ち、因習を脱し、名利を離れて虚空を吹きまくるという気迫が「風流」の根底になくてはならないのです。世俗的価値の破壊または逆転ということが「風流」の第一歩なのです。


 しかし、「風流」はそういう消極的方面だけでは成り立ちません。積極的方面が直ちにつらなってこなければならず、日常性を解消した個性によって直ちに何か新しい内容の充実がなされなければならないのです。そうして充実されるべき内容としては主として美的生活が理解されています。美の体験につきものの霊感とか冒険が、風流の破壊的方面と相通ずるからです。「風流」のこの第2の契機が「耽美」です。


 「風流」の第3の要素は「自然」です。「離俗」と「耽美」とのいわば総合として、世俗性を清算して自然美へ復帰することが要求されるのです。したがって、「風流」の創造する芸術は、自然と密接な関係にあります。「風流」な生活というのは、自然美と芸術美とを含む唯美主義的生活です。自然美のない芸術美だけの生活では「風流」とは言えません。したがって、庭や花は、「風流」にあって重要な地位を占めてくるのです。

 

 なお、自然美は決して人生美を排斥するものではなく、かくて色道と茶道とは人生美を追う「風流」の前衛の役目をつとめる。

 

 このように「風流」が一方に自然美を、他方に人生美を体験内容とする限り、旅と恋とが風流人の生活に本質的意義をもって浮き出てくることは当然でしょう。「風流」においては、自然と人生と芸術とが渾然として一つに融け合っているのです。


 以上が「いき」と「風流」に関する九鬼周造の見解です。ここで、わたし自身の考えも述べてみたいと思います。以前、ある雑誌の「風流特集」でいろいろとインタビューされたので、その答えをもとにしていくことにします。

 

 九鬼周造による「風流」の3つのファクターのうち、最も気になるのは「自然」です。「風流」とは、風が流れるごとく自然に振る舞う、自然と遊ぶ、つまり、地球のアイテム、自然のディテールをエンターテインメントとしてとらえることだと思います。言葉を換えるなら、「見立て」ができることだと言ってもよいでしょう。

 

 桜の花や月や雪を、友のように愛し、いつくしみながら酒を飲む。花見、月見、雪見などの遊びは、このうえなく「風流」です。最近の日本人の美意識は、確実に「花鳥風月」を愛でる方向に向かってきています。そういう意味で、「風流」はこれからの社会のキーワードの1つになるでしょう。「風流」というものは「アース・コンシャス」というか、地球環境を意識する心とも深く関わってきます。ともに、自然への愛がベースとなっているからです。


 さて、「いき」についてですが、わたしなりに解釈すると、「風流」は自分の心と自然との対話であり、観客を必要としません。しかし、「いき」は行為や現象に対する評価というか、そこに第三者、観客がいて、「いき」だと評価しないと成り立たないような気がします。

 

 「いき」はまた、心意気でもあります。プライドや美意識を持って、ひとりよがりではなく、相手を気遣う心がなくてはなりません。「いき」に対する言葉に「野暮」がありますが、これは美意識がなく、プライドもなく、自分勝手で動物的に振る舞う人間のことを指します。そして、この野暮な人間をいかに「いき」にするかというソフトが礼儀作法なのです。

 

 わたしは「いき」な人間になりたいとずっと思っていました。それで、学生の頃から小笠原流礼法を学びました。社会人になってからすぐ、宗家の故・小笠原忠統先生から免許皆伝の書状をいただきました。


 礼法やマナーというと堅苦しいものと思われがちですが、ゲームを楽しむうえではルールがないと楽しくないのと同じく、人生というゲームを楽しむには、やはりマナーというルールがあった方が面白いのです。例えば、あなたが突然、最高級のフランス料理のレストランに招待されても、テーブルマナーをまったく知らなければ緊張して料理の味などわからないし、会話を楽しむこともできないと思います。

 

 しかし、マナーを意識しすぎてガチガチに振る舞うのも良くありません。ロボットのようでは、かえって野暮というものです。傍で見ていて、風が流れるように自然に振る舞うためのソフトなマナーを身につけたいものです。相手に「いき」だと思わせるコツはバッドチューニング。一度、正式なマナーを熟知したうえで、ちょっと崩して振る舞うことです。マナーを身につけておけば、「ゆとり」をもって他人とつき合うことができるのです。