No.0533 民俗学・人類学 『日本人はなぜ妖怪を畏れるのか』 三浦節夫著(新人物往来社)

2012.01.23

 『日本人はなぜ妖怪を畏れるのか』三浦節夫著(新人物往来社)を読みました。

 著者は東洋大学ライフデザイン学部教授で、井上円了記念学術センター研究員です。井上円了といえば東洋大学の創設者にして、「妖怪博士」と呼ばれた人物ですね。

 ちなみに、『妖怪学講義』は、宗教学者・菊地章太が東洋大学で120年ぶりに復活させた「妖怪学」の連続講義の記録です。本書のサブタイトルも「井上円了の『妖怪学講義』」となっています。帯には、「妖怪を信じる日本人を恐怖から解放した井上円了。畏怖から日本固有の民俗をさぐった柳田国男。二人の天才の、まったく異なる妖怪学。」と書かれています。2つの妖怪学から、日本人の「こころ」の変遷を読むという内容の本です。

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

「まえがき」
第1章:井上円了はいかに妖怪博士となったか
第2章:哲学館の創立と「妖怪学」講義
第3章:妖怪学とはなにか
第4章:もうひとつの妖怪考 柳田国男
第5章:柳田国男の妖怪学
第6章:日本人はなぜ妖怪が好きなのか
「参考・引用文献」
「あとがき」

 現在は妖怪ブームとされていますが、明治時代にも妖怪ブームがありました。著者は、「まえがき」で次のように述べています。

 「明治の妖怪ブームの主役は井上円了である。円了は『妖怪学』という学問を日本人ではじめて創った人物である。2000ページを超える『妖怪学講義』をはじめとして、多くの妖怪関係の本を出版した。それとともに、各地を巡回して講演し(その数は全国の市町村の半数を超える)、妖怪をテーマとした講演もした」

 井上円了は、哲学博士でした。その彼が、なぜ「妖怪博士」と呼ばれたのでしょうか。
 それは、哲学によって妖怪の正体を暴こうとした人だったからです。哲学のめざすところは、合理的な思考にもとづく真理の主体的な追究と考えました。

 そして、妖怪とは真理をおおいかくす迷信そのものであり、その正体を暴いて撲滅しようと志したのです。井上円了にとって、哲学と妖怪学は表裏一体の学問だったわけです。そもそも「迷信」という翻訳後を生み出したのも、「妖怪」という概念を近代日本に定着させたのも、円了であったとされています。著者は、次のように述べています。
「哲学という移入されてきた西洋思想を基準(愛理)に、円了は国家・社会の発展(護国)を考えていた。哲学の普及・伝道は円了の生涯の目的の1つであるが、「妖怪学」はここから生まれてきたもので、『護国愛理』の思想の具体的実践でもあった」

 それにしても、井上円了はなぜそこまで妖怪にこだわったのか。やはり、彼が妖怪の話が好きだったからでしょう。著者は述べます。

 「円了が妖怪話を好んだのは、その生育環境が影響しているだろう。生誕の地である「越後」は雪国で、『北越奇談』『北越雪譜』などで知られる奇事・怪異・怪談が多かった。また、寺院は人間の生死に関わる場所であり、とくに死後の世界(お化けや幽霊などを含む俗信や習俗)が話題になりやすい環境であり、妖怪に関心を示しやすい条件があったと考えられる」

 じつは円了は、200年の歴史を持つ慈光寺という東本願寺の末寺の長男として生まれました。著者は、円了の特殊な宗教的環境について次のように書いています。

 「円了の自伝的文章によれば、青年時代から、仏教、儒教、キリスト教を知り、それを比較検討したが、それらのどれも真理とは思えなかった。
 こうして自分が十数年来刻苦して渇望した真理は、儒仏両教のなかになく、キリスト教のなかにもなく、ひとり西洋の哲学のなかにあることを知った。このときの喜びはほとんど測ることができないものであったという」

 そして、哲学に「真理を発見した」円了は、その哲学を基準とする見方からほかの旧来の諸教を再検討しました。その結果、仏教の説だけが哲理に合うと考えたそうです。哲学を通じて合理的な考え方に憧れた円了は、若い頃、福沢諭吉などの新時代の啓蒙書をさかんに読みました。そして、福沢諭吉が乗り込んだ咸臨丸の船長であった勝海舟と知り合い、円了は東洋大学の設立に当たって海舟の援助を受けます。

 さらに資金を集めたい円了に、海舟は「全国を講演して回ってはどうか」とアドバイスしたのです。著者は、次のように書いています。

 「海舟の支援を受けた円了は、1年のうち150日以上を巡講にかけるなどして、4年間かけて北は北海道から南は九州まで、全国32道府県・36市・3区・230町村で講演を行ない、また寄付金を募集した。民衆の寄付金は多くて1円、50銭や30銭が普通であった。円了はこの全国巡講のなかで、哲学館の館主として教育者であると同時に経営者としての自覚ももった。さらに、全国の民衆の生活にふれることにより、当時の日本の問題をより深く理解することができた。
 4年間にわたる全国巡講の際、円了は各地の妖怪談を聞きとっていった。
 これがのちに『妖怪学講義』に活かされることになる」

 円了自身は、妖怪について、どのように考えていたのでしょうか。著者は、次のように述べています。

 「円了は妖怪について、一般的には『これを解して不思議』といい、また『これを釈して異常もしくは変態』というが、これは妖怪を妖怪といっているにすぎないと述べている。通俗的にいえば、妖怪とは『普通の知識にて知ることができず、また尋常の道理にて究めることができないもの』をいうと指摘する。円了は『妖怪とは異常、変態にして、しかも道理の解すべからず、いわゆる不思議に属するものにして、これを約言すれば不思議と異常を兼ぬるもの』と定義する」

 それでは、「妖怪学」とはいったい何を目的とするのか。著者は、次のように説明しています。

 「妖怪というものは時代や人によってとらえ方が異なり、妖怪のいる、いないは、その人の知識や思想によってかわるものである。したがって、妖怪そのものがなにであるかを見極めて、これに説明を加えることが妖怪学の目的であるという」

 円了は、妖怪学によって妖怪の正体を明らかにしようとしました。妖怪を明らかにすることの目的は、「護国愛理」です。真理を愛する精神にもとづいて世間の人々を「迷苦」から解き放つことは、円了にとっては国家を護ることに他なりませんでした。そして、妖怪学で円了がとくに重視した分野は、教育と宗教でした。

 妖怪学によって教育家、宗教家の「迷雲妄霧」の状態にあるものを一掃することは民衆の「心の雑草」を除去するものだというのです。したがって、「妖怪学は宗教に入る門路にして教育を進むる前駆なり」と位置づけられました。

 ここで、妖怪研究のもう1人の巨人として柳田国男が登場します。言わずと知れた、「日本民俗学の父」です。日本の民俗学を創立した柳田の思想に大きな影響を与えた人物が3人いるとされています。平田篤胤、ハインリヒ・ハイネ、アナトール・フランスです。柳田の民俗学や妖怪学は、この3人の思想とつながっているのです。

 では、柳田の妖怪研究の姿勢とはどのようなものだったのか。著者は、次のように述べています。

 「円了は妖怪学を体系化して提唱したが、柳田は民俗学の一部として妖怪学に取り組んできた。円了は大正8年(1919)に死去したので、柳田が活躍する時期と重なることになるが、2人の間で妖怪学をめぐる論争のようなものはない。円了の妖怪学の著作の最後は大正8年に刊行された『真怪』で、そのように死去の年にいたるまで多くの著作を残した円了であるが、管見の限り柳田に触れた記述は見当たらない。一方の柳田は、円了の妖怪学に言及している」

 円了の『妖怪学講義』は明治26年(1893)にはじまり、同29年(1896)に6分冊にまとめて出版されています。そのため、柳田は円了の『妖怪学講義』を読んだうえで、その学説を批判しています。そこでの柳田の口調は「徹頭徹尾反対の意を表せざるを得ない」というかなり強い反対意見です。

 本書の第6章「日本人はなぜ妖怪が好きなのか」の最後で、著者は述べます。

 「現代の妖怪ブームはブームとして一過性のものなのか、あるいはさらに伝統思想として発展するものなのだろうか。まだ判断を下すには早いと思われる。
 高度に合理化・管理化された現代の日本社会では、仏教などの宗教を含めた伝統的な価値観をもう一方で必要としているのだろうか。私は現代の日本が政治的・経済的・文化的に行き詰まっていると思っている。日本人は『あれか、これか』ではなく、『あれもこれも』という価値観が特徴であるといわれている。オカルト、スピリチュアル、妖怪というブームに商業的なものが果たした役割は少なくない。しかし、日本人が普通の生活以外に求めるなにかが、妖怪をおもしろがる気持ちに重なっているのではないか」

 わたしたち日本人の「こころ」の中には神道・仏教・儒教が共生し、イエスやソクラテスをも崇拝することができます。まさに、「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」の精神です。

 そして、この精神の背景には八百万の神々を信仰するアニミズムがあり、それが日本人の妖怪好きにつながっているような気がしてなりません。

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