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格闘家は女々しい奴が9割』

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No.0514

 

 『格闘家は女々しい奴が9割』真樹日佐夫著(東邦出版)を読みました。

 

 本書は新刊ではなく、2007年6月に刊行された本です。


 ずっと、コンビニ・マンガなどと一緒に書斎の隅で眠っていました。たまたま、『五十年 ああ身に余る』という本を読んだ直後に見つけたのですが、これも不思議な話です。一種のシンクロニシティかもしれません。


 著者は、空手、プロレスをはじめ、格闘技界に顔が広いことで知られています。それだけに、なかなか興味深い内容で、古さはまったく感じませんでした。


 本書の「目次」は、以下のようになっています。


佐山と前田―再会
佐山と前田―と藤原喜明
『UFC』『PRIDE』電撃提携は吉か凶か?
大木金太郎メモリアル&馬場、猪木
アントニオ猪木の功罪
ストリートファイトと格闘技
K-1、これからの課題と展望
合理化により画一化されたK-1の停滞と、異能の魅力
魔娑斗、比類巻―努力と天分の対決
ボクサー最強説はどこまで信じられるか
実力の伴わないチャンピオンへの道
大相撲現役横綱の可能性
「あしたのジョー」と若い才能とのコラボ
スターの象徴、タイガーマスク
空手之道を極めし者たち
山本キッドのオリンピック
プロ・アマ、本当に強いのはどっちだ?
NOAH、三沢光晴とプロレスの未来
小川直也の進むべき道
出でよ、平成のグレート東郷
プロレスマスコミの低迷
神格化される格闘家とは
「人間力」を育てろ!
「あとがき」


 まず、著者の真樹日佐夫氏は、「極真会館」で大山倍達から空手の指導を直接受け、その後、自ら「真樹道場」を興した、本物の空手家です。また、不良少年の物語である代表作「ワル」の世界そのままに多くのストリートファイト(ステゴロ)を経験したケンカ名人としても知られています。


 冒頭の「佐山と前田――再会」では、「佐山聡と前田日明。私の贔屓の格闘家2人である。彼らは新日本プロレスが生んだ、格闘技界の大いなる財産だ」と書き出しています。そして、まず佐山聡について、著者は次のように述べています。


 「佐山は天才だ。私の実兄の梶原一騎が創造したタイガーマスクを、大方の予想をはるかに超えた形で具現化してくれた。兄は佐山を息子のように可愛がった。茶目っ気たっぷりの性格で、あの人懐っこい目で見られると、何でも許してしまう。私も彼が可愛い。私の仕事部屋には、いまもブロンズでつくったタイガーマスクのモニュメントが飾ってある。佐山は私の兄の遺産のような存在だ」


 また、前田日明について、著者は次のように述べています。


 「前田も素晴らしい格闘家だ。私は彼の内面の無雑さにとりわけ惹かれる。少年のような純粋な心で格闘技を愛し、その理論と精神を哲学的に捉えようとする。肉体的にも恵まれている。大きな身体にゆったりとした筋肉。まさに格闘技をやるために生まれてきたような体だ。若い頃から、私は彼に注目していた。彼も空手をやっていたという。傍に置いて指導してみたかった男のひとりでもある」


 そんな佐山と前田ですが、第1次UWFの分裂から20年以上も顔を合わせていませんでした。2人は1985年にセメントまがいの遺恨マッチを経験しており、それ以来、けっして交わろうとしなかったのです。そんな因縁の深い2人を再会させた人物こそ著者でした。


 著者が原作を手掛けた映画「ワル最終章」にともにゲスト出演を依頼し、快諾を得た勢いで「週刊文春」の対談を企画したのです。2人はホテル・オークラの鉄板焼レストランの個室で20年ぶりの再会を果たしますが、やはり話が弾むところまではいきませんでした。しかし、途中でほんの短い間でしたが、2人の格闘技人生を象徴するようなやりとりがあったそうです。


 前田が「自分は猪木さんのそばにいて、きらきらと輝くような目が好きだった。若かった猪木さんの瞳は純粋で、いつも儚い夢を見ているようだった。それが、いつのまにかその瞳は曇り、濁ってしまった。佐山さんもそうだ。みんな変わってしまった」と言ったところ、喧嘩になるのではと酔いも吹っ飛んだ著者の心配をよそに、佐山は怒る気配を見せませんでした。そして、佐山は優しく前田に微笑みかけながら、「それは仕方ないよ。プロなんだから綺麗ごとだけじゃ済まないんだよ。みんな、飯を食うためにやってるんだから。いろんなことがあるさ」と言ったそうです。


 著者は、この2人のやりとりを聞いて、対談をセッテングした意味がこれだけで充分にあったと感じ、次のように書いています。


 「佐山はタイガーマスクの役割を背負わされ、プロレスビジネスの裏の裏まで知り尽くさせられた。それから彼は、総合格闘技の先駆者としての理想と、興行たる現実の狭間で悩み続けてきた。


 2人が目指したものは同じである。だが、2人の性格の差が道を別れさせた。佐山は佐山の道を歩き、前田は前田の道を歩いた。その道程で背負うものがどんどん大きくなり、もう交わることなどできなくなってしまったのでは・・・・・」


 その後、例の遺恨マッチを報じたスポーツ紙の切り抜きを示した雑誌記者に対して、「おいこら。おまえ、何のつもりでこんなモノを出しやがった」と佐山が凄み、それを前田が「佐山さん。そんなふうだから、プロレスは誤解されるんです」と諌める場面などもあったそうです。それからの2人の会話も噛み合うことはないまま消化不良のうちに時間切れになりましたが、最後の最後に佐山は表情を和らげて、「でもよかったよ、今日は。前田とこうやって話せて」と言い、終始硬かった前田の面差しも解れたように感じられたそうです。思えば、大阪の不良だった前田をプロレス界に誘ったのは、他ならぬ佐山だったのです。著者は、この2人が手を組んで、日本の格闘技界を盛り上げていってほしいという夢を抱いていました。


 また、「『UFC』『PRIDE』電撃提携は吉か凶か?」では、PRIDEがUFCに身売りされた話題に触れ、英国マンチェスター・イブニングニュースアリーナで開催された「UFC70」で前年のPRIDE無差別級GP覇者ミルコ・クロコップが無名のブラジル人格闘家ガブリエル・ゴンザーガにKO負けした試合について書いています。


 UFCの特徴は、PRIDEルールはもちろん、K―1ルールでも禁止されているヒジ打ちを認めているところにあります。


 著者は、「米国の総合格闘技のシェアは日本の10倍とも言われているし、こちらでは知られていないだけで、UFCの抱える選手層は半端ではなく厚い。とすれば、ヒジに不慣れなミルコの敗戦も、さほど驚くには当たらぬのかも知れない」と述べています。


 そして、著者はK-1もPRIDEもいずれ衰退し、世界の格闘技界はUFCの一人勝ちになるのではと予測するのです。本書の刊行から4年が経過した今、まさに著者の予測通りになってしまいました。


 「大木金太郎メモリアル&馬場、猪木」では、かつて大山倍達に挑戦してきた大木金太郎の対戦相手に著者が選ばれたことが明かされます。そして、プロレスラーのタフさと大木の頭突きを非常に警戒していたこともカミングアウトしています。結局、大木は著者との対戦を逃げたというか無視したのですが、著者は次のように書いています。


 「極真会館と新日本プロレスはそれ以前から遺恨があり、その遺恨は、猪木対モハメッド・アリ戦が行われる1976年まで続くこととなる。そんな中勃発したこの大木さんとの軋轢だが、大木さんはお客さんを入れた会場で試合をすることまでは想定していなかったようだ。ここで私が言いたいのは、私はプロレスを決して軽視していない、という事実である。プロレスはショーであるとよく言われるが、私はそのことにはあまり興味はない。それは興行の在り方の問題であって、意味を持つのはそのレスラーがどんな肉体とスキルを持っているか、であろう」


 そして、著者はそういうプロレスの中から強い男たちが何人も生まれてきたとして、その代表としてアントニオ猪木をあげて、次のように述べます。


 「全盛期のアントニオ猪木は強かった。

 猪木のストロングスタイルとその生き方については、賛否両論いろいろあるだろうが、あのモハメッド・アリと引き分けた実績は高く評価しなければならない。

 亡くなった橋本真也が私の事務所に遊びにきて、アントニオ猪木の話になるときまって、『あの人の全盛期は半端じゃなく強かった。誰よりも強かったですよ』と言っていた。

 しかし猪木は、プロレスラーでありながらプロデューサーの才能がありすぎて、時々、自分の進むべき道を見誤ることもある。

 ジャイアント馬場も、晩年のイメージがあるから強さについてはあまり印象がないかもしれないが、力道山から厳しく指導されていた頃の馬場は強かった」


 それでは、馬場と猪木とではどちらが強かったのでしょうか? この永遠のテーマについて、著者は次のように述べています。


 「全盛時代の馬場と猪木が戦ったら、どうなっていたか分からない。

 ルールはパンチ、キックなしのプロレス(UWFに近い)ルールがいいだろう。大方のファンは、猪木が圧倒的に強かったはずだと言うだろうが、私はいい勝負になっただろうと思っている。パンチ、キックがないわけだから、当然、寝技や締め技の勝負になる。要するに、プロレスラーが道場で行っているシュートルールである。馬場の長くて強じんな手足を、猪木が極めることができたか。意外に馬場は寝技も巧みだったという」


 プロレスとプロレスラーをリスペクトしているという著者は、次のように述べています。


 「プロレスはある種、格闘技界の裏舞台でもある。すべての格闘技のスタイルが集約されたリングで、ファンはそれをリアリティを持って楽しむことができる。他の格闘技には見出せない楽しみ方や魅力が、プロレスにはいっぱいあるのだ」


 わたしも、プロレスの本質とは「夢の格闘技」であると思っています。そのプロレスという素晴らしいジャンルを進化させた人物こそ、アントニオ猪木でした。著者は、猪木を「優秀なプロレスラー」であり、現在の格闘技ブームの火付け役の最たる人物と高く評価しています。


 しかし「アントニオ猪木の功罪」で、著者は猪木の意志を継承する者を育てられなかった点が残念だといいます。長州力、佐山聡、前田日明、高田延彦、船木誠勝・・・・・新日本プロレスには、猪木の後継者たるべき優秀な人材が山のように肩を並べていましたが、いずれも独立し、それぞれ別の道を歩むようになりました。著者は、次のように述べています。


 「それが現在の格闘技界の隆盛を築くきかっけとなったのだから、これも時代の流れではあるのだが、猪木がつくった世界観をきちんと後の者たちに継承しておれば、新日本プロレスは現在のような凋落を見ることはなかっただろう」


 いま、DVDでよみがえる闘いのワンダーランドとして「燃えろ! 新日本プロレス~至高の名勝負コレクション」がヒットしているようですが、往時の新日本プロレスの盛況ぶりを知る者としては本当に寂しい限りです。しかも、著者がこの文章を書いた4年前よりも、さらに状況は悪化しているのです。


 著者は、新日本プロレスの凋落について、次のように述べます。


 「私は、猪木はもっと早い時期に第一線を退いて、佐山、前田、船木に主戦場を譲ればよかったのではないか、と思っている。

 佐山がタイガーマスクのマスクマンとしての限界を知って悩んだ時、彼からマスクを返上させ、前田と共にUWFスタイルを全面に押し出して、新日本プロレスを一緒になって改革させればよかったのだ」

 さらに、新日本プロレスは「世界最強の格闘技」を標榜し、「いつ何時でも誰とでも戦う」団体であったとして、著者は次のように述べます。


 「全盛期の前田や佐山ならそれができた。プロレス的な興行であってもシュートの世界であっても、何にだって対応できたはずなのである。

 だが、猪木の野心はプロレスとは別の方向へ向いてしまった。

 彼は政治家となり、事業に意欲を燃やし、もっと大きな金を欲しがった。その結果、万人に知られているプロレスラーという肩書きもこれまたなかなか捨て切れず、するうち若い後継者の居場所をも失くしてしまったのである。

 もちろん、前田や佐山や船木に、猪木を超えられるパワーと運がなかったということもあるだろう。彼らの野心より、猪木の野心の方が上回っていたのだ」


 さて、佐山聡、前田日明、船木誠勝らが去った後、新日本では橋本真也が「強さ」の象徴として君臨しました。その橋本も、猪木に弟子入りし、佐山の指導を受けた元柔道王の小川直也にシュートを仕掛けられ、KOされてしまいます。まるで、かつての力道山vs木村政彦戦を彷彿とさせる凄惨なケンカ・マッチでした。この試合を高く評価する著者は、次のように述べています。


 「小川は橋本と何度か素晴らしい試合をした。それらはシュートとプロレスの交錯するような展開で、ある意味では、プロレスの今後の可能性を示唆するともいえる熱き戦いでもあった。近年、プロレスであそこまで迫力があった試合を私は知らない。あれは、情念と情念のぶつかり合った歌で言えば紛うかたなき艶歌だった」


 本書では、プロレス以外にも柔術、柔道、大相撲、レスリング、ボクシング、キックボクシング、K-1などの格闘技についての秀逸なエッセイがずらりと並んでいますが、特に著者の思い入れの深さを感じるのは、やはり空手、それも極真空手です。「空手之道を極めし者たち」の冒頭で、著者は次のように書いています。


 「極真空手が何派にも割れている。大別すれば松井章圭派と緑健児派に分裂してしまった。2人とも私の極真時代のずっと後輩に当たる。見るに忍びないが、私も大山倍達と袂を別ち、現在独自の空手道場を運営している。極真OBと言えど、傍が口を挟むべきではないだろう」


 著者は、かつて大山館長からの指示で、著者のもとに松井が電話をかけてきたエピソードを明かします。極真の大先輩である著者に対して恐縮しながらも、松井は「大山カラテスクールのことですが、極真を辞められた先生が、なお、その看板を道場に掲げておいでなのはおかしいのでは・・・・・」と言ったそうです。その堂々とした姿勢に好感を持った著者は、松井に世界大会で優勝するようにエールを送ります。


 著者は「松井は不言実行、礼節をわきまえた不世出の空手家である」と絶賛します。


 また緑健児に対しても、「緑も松井に劣らぬ大器で、大山総裁席の最後の世界チャンピオンである」と称えています。そして、この2人の天才空手家のことを深く思う著者は、「私は、松井章圭と緑健児を一度会わせたいと思っている。たとえ、互いを認め合うことはできなくとも、いつでも話ができるという状況に持って行くことは、両者にとってマイナスではないはずだ」と述べるのです。


 佐山聡と前田日明を20年ぶりに再会させたように、著者は松井章圭と緑健児まで再会させようとしている。この格闘技界を憂う気持ちには感動さえ覚えます。おそらく、日本の格闘技の流れは梶原一騎が作ってきた部分が大きいので、それを正しい形に軌道修正するのは弟である自分の務めと考えているのかもしれません。

 

 「神格化される格闘家とは」とは、ヒクソン・グレイシーは誰とも闘わなくなったことを取り上げ、大山倍達も同じだったと言います。若い頃は数々の武勇伝を残した大山も、少なくとも著者が弟子入りしてからは人と闘ったのを見たことがないというのです。このことについて、著者は次のように述べます。


 「人は誰でも老いる。誰もがいつまでも強者ではいられない。だあから、ある時期トップに登りつめた格闘家が、誰にも負けることなく、知らず知らずのうちに誰とも闘わなくなるというのは、考えようによっては理想なのではないかと思う。

 グレイシー柔術も極真空手も、武道を極めるという点では共通項で括られる。もちろん誰にも負けない最強の格闘家を目指すことに変わりはないが、それはあくまでも精神面を強調するものであって、問題なのは格闘家としての在り方だろう。

 格闘技の世界では、若くて強い奴がどんどん出てきて、理論面でも日に日に進歩し、それに合わせた効果的なトレーニング方法も次々に生まれる。誰だって永遠に第一人者たり得ないのだ。それなら伝説を汚さずに現役を引退した方が、自身にとっても信奉者たちにとっても好都合ではないか。かつて宮本武蔵が剣の道を捨て、仏門に帰依したように、武道家の行き着く先は精神世界という名の逃げ場なのかもしれない」


 本書の最後に置かれた「『人間力』を育てろ!」では、次のように冒頭からいきなり格闘技についての哲学的本質的な問題が提起されます。


 「人はなぜ闘うのか。それは人が闘う本能を持っているからだ。

 生物界は弱肉強食の生態系で成り立っている。強い者が弱い者を啖い、明日につなげている。その繰り返しが、生命の営みだ。

 人間には知恵という素晴らしくも厄介なものがあるため、その本能をカモフラージュしようとするが、やっていることは動物の世界と同じである。

 人間は、ゾウ、ライオン、虎、サメ、クジラ、クマ、大蛇、バッファローより強い。

 何せ人間は武器を製造し、それを駆使できる知恵を持っている。核兵器だって作り出した。こんなに強い生物は、他にはいない。

 その人間の歴史も、弱肉強食の歴史と言えるだろう。有史以来、世界中のどこかで必ず戦争が起きている。戦争というと、ライオンと虎の戦いよりはるかにスケールが大きそうだが、言ってみればただの縄張り争いである。やっていることは動物たちとなんら変わりはない。人間には闘う本能があるのだ」


 これは、もう前代未聞の「格闘技の哲学」と言えるのではないでしょうか。そして著者は、『人間力』を育てろ!」の最後で次のように述べます。


 「すべての闘いは内なるものから端を発している。それを忘れないで欲しい。その人間力に裏打ちされた闘いが、ファンにも伝わるからこそ感動を呼ぶのである。

 内なるものとの闘いに勝利すれば、相手との勝負はもはや二の次だ。

 勝者もいれば敗者もいて当然なのだ。人生はそれだけではないのだから」


 最後に、『格闘家は女々しい奴が9割』というインパクトの強いタイトルについて。著者は、けっして格闘技界に生きる人々をおちょくっているわけではないとして、次のように「あとがき」に書いています。


 「よく『男の中の男』ということが言われる。『勇ましい』とも『雄々しい』とも。格闘家はしかし、そういった褒め言葉が似合うタイプでは間違っても大成は望めない。それだけ心にゆとりがあり、でんと構えていては、ここ一番の真剣勝負を制するのはまず無理だ。逆説のようにも聞こえようが、男らしさとは対極にある、精神面でのゆとりのなさ、試合への恐怖感こそが、いよいよというときに『必死の心、必死の力』に取って替わるのだ。本書にも登場するモハメッド・アリが、あのヘビー級の歴史に残る偉大なチャンプが、毎度毎度リングインの直前まで、大勢の取り巻きに囲まれながら恐怖に打ち震えていたのは知られた話だ。そう、情ないほどに女々しくも―。

 『格闘家は女々しい奴が9割』は、いうなれば一流の証し。選ばれし者のエンブレムでもあるということをゆめ、お忘れなきように」


 著者が本書を書いた2007年当時は、第2次格闘技ブームとされていました。著者の兄である梶原一騎の劇画「空手バカ一代」が大ブームを起こし、やはり梶原作品である「キックの鬼」の主人公・沢村忠のキックボクシングが人気を誇った頃が第1次格闘技ブームだそうです。第2次ブームでは、K-1やPRIDEが人気を呼びましたが、4年後の今、それらはすでに消えてしまいました。


 わたしは「狂」がつくほどの格闘技大好き人間なので、なんとか第3次ブームの到来を願うばかりです。ぜひ、著者の目の黒いうちに、佐山聡と前田日明、松井章圭と緑健児の大連立が実現することを希望します。


 なお、これまで「読書館」で紹介してきた格闘技関係の書籍は以下の通りです。

 

『ヒクソン・グレイシー 不敗の法則』ヒクソン・グレイシー著(ダイヤモンド社)

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也著(新潮社)

『完本 1976年のアントニオ猪木』柳澤健著(文春文庫)

『力道山の真実』大下英治著(祥伝社文庫)

『大山倍達正伝』小島一志・塚本佳子著(新潮社)

また、梶原一騎・真樹日佐夫の兄弟に関する書籍は以下の通りです。

『梶原一騎伝』斎藤貴男著(文春文庫)

『劇画一代』梶原一騎著(小学館)

『ああ五十年 身に余る』真樹日佐夫著(東邦出版)

 

 最近、この書評サイトに多くの格闘技ファンが訪れているようです。まだ読んでいない記事があれば、どうぞ御覧下さい。