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劇画一代』

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No.0500

 

 『劇画一代』梶原一騎著(小学館)を読みました。

 

 本書は、もともと1979年(昭和54年)に毎日出版社から刊行された本の復刻です。『あしたのジョー』の実写映画化と例の「タイガーマスク運動」が話題になったことで、今回の復刻が実現したそうです。来年には、『タイガーマスク』の実写映画(落合賢監督)がウエンツ瑛士主演で公開される予定です。


 本書は、以下のような構成になっています。


〈復刻〉肉筆原稿

『あしたのジョー』

『柔道一直線』

『吹けよ! カミカゼ』

『あゝ五高 武天原頭に草萌えて』


1.少年作家の夢と力道山

2.週刊マンガ誌の波に乗る

3.アニメ・ドラマ化の狂熱時代

4.怒涛の興行世界へ

5.第二幕へのエピローグ


ちばてつやインタビュー「梶原さんの原稿よ格闘した熱き日々」


「梶原一騎略年譜」


 1話のみ現存する『あしたのジョー』の肉筆原稿など、4作の一部原稿が再現されているのはファンには嬉しいでしょうね。また巻末には、「ちばてつやインタビュー」が掲載され、「梶原さんと出会い、その原作と格闘した日々は、それほど私にとって記憶に残る体験でした」という言葉が紹介されています。


 ちばてつや氏とのコンビで発表した『あしたのジョー』は、著者の最高傑作ともいえる名作ですが、本書には興味深いエピソードが紹介されています。


 ジョーがプロボクサーのヒヨコになったとき、ちば氏はクロスカウンターの打ち方がわからなかったそうです。著者は電話で説明したのですが、これではラチがあかないと六本木の終夜営業クラブへ連れていき、ちば氏を正面に立たせて、こう打つのだと実演しました。すると、2人がケンカしていると勘違いしたマネジャーやボーイが飛んできたとか。


 また、主要キャラクターの力石徹の描き方についても大問題が起こったといいます。ストーリー上「殺す」つもりだった力石でしたが、原作で死んでしまうと、あとから原作を消化してくるテレビが困るという話になり、またもや六本木の酒場で密談したそうです。2人で、「殺すか、殺すまいか?」「やっぱり殺そう!」などとカウンターでヒソヒソ言い合っていると、小耳にはさんだバーテンが青くなり、こっそりマスターに耳打ちして大騒ぎになったそうです。


 代表作ともいえる『あしたのジョー』以前から、すでに著者は劇画原作者として売れっ子であり、多忙を極めていました。『巨人の星』でスポ根ブームが爆発し、著者は『柔道一直線』や『タイガーマスク』などの連載を数本同時に抱えていたのです。朝から晩まで、ただひたすら原稿用紙のマスを埋めて実働15時間だったという当時の多忙ぶりを、著書は次のように書いています。


 「誇張ではなく右手でエンピツ走らせつつ左手でラーメンすする器用な芸当もやった。ずらり担当編集者が出来上がりを待っていて、たがいに将棋を指したり本を読んだり、インタビュアー時代の長部日出雄、江國滋といった人達が訪ねてきてはくれたものの、あまりの狂乱状態に呆れてか取材もそこそこに退散したのを覚えている。よくタレントのスケジュールなどで見て半信半疑だった睡眠3、4時間なんて生活が、わが上に現実に襲いかかったのだ」


 また、著者は自身の創作についても語っています。「自分を極限状態におく」として、著者は次のように述べます。


 「告白すると私は生来、およそ自分は物書きに向かぬ人間だと信じている。

 これは純然たる物理的、生理的なる問題であって、こと身体を動かして何かやるのであれば齢40ン歳の現在でも10代、20代の若者たちと一緒に空手の稽古をやって一向にバテぬ。酒も徹夜でバーボンのボトル2本近く空けても、ついぞ二日酔いで枕が上がらぬなどの体験はない。

 先日も弟の真樹日佐夫と会員になっている人間ドッグに先方から何度も催促されて2人して入ったところ、どちらも30代はじめの肉体なりとタイコ判を捺された。

 ひとたびそれが原稿用紙のマス目と相対するや、とたんに欝状態になる。題名を書いただけで疲れてしまう。グターッとなってしまい、これだけの枚数を緻密に構成した文字で埋めるなんぞ奇跡のごとき不安に襲われる。

 物書き稼業をはじめて以来、ずっとこれはそうなのだ。

 だから私は笑われるのを承知の心理だが、ともかくもそんな状態から『巨人の星』や『あしたのジョー』や『愛と誠』を生み出してこられたのは、自分は何やら周波数の合ったアンテナのみ偶然にそなえた媒体的な存在であって、それへ未知にして深遠なるパワーが作用しての結果のような気がしてならぬ」


 この一文は非常に興味深く、著者は宮沢賢治のような一種の霊媒体質だったのかもしれません。ゲラ刷りが出てくるたびに、いつも「ヘエ、この波乱万丈にして感動的なストーリー、このオレがホントに書いたの!?」と思ったそうです。


 その他、本書には著者の劇画原作の手法なども披露されています。


 「セリフ鋭く、ト書きは長く」「"濃縮スープ"的なノート」「柱はキャラクターづくり」「一点動かぬ強烈な個性」などのキーワードが並んでいます。


 著者が原作を書いた数々の名作の創作秘話を自ら語っているところも興味深いですが、なによりも本書は、著者が力道山や大山倍達らと初めて出会った場面の描写が秀逸でした。著者が『冒険王』で『鉄腕リキヤ』というプロレスをテーマにした絵物語を連載していましたが、この作品を力道山が目にしたそうです。


 「この人はプロレスを宣伝してくれる」と感謝したらしく、ある日、力道山は著者に電話をかけ、「わし、力道山です!」と潰れたガラガラ声で言ったそうです。思いもかけない国民的ヒーローからの電話に著者は動揺しますが、力道山のほうもどこかギクシャクしていて、テレくさそうだったとか。著者は、次のように述べています。


 「要するに、いつもプロレスに理解を示された作品をつうじて少年層にプロレスを普及して頂き感謝している、ついては一度お逢いする機会を得れば資料面などでも役に立てそうだ、と力道山はギクシャク言い、

 『どうも、わしゃ文芸は苦手なモンで』

 と、にわかに彼は耐えかねたようにカラカラ打ち笑い、

 『いま秘書と代わりますから、日取りと場所を打ち合わせてくれますか?』

 私は、この男に好感を抱いた。絵物語をなんと文芸と奉られたからでもないが、そこには有名人の謙虚さとかウサン臭いものと違う本質的な無邪気さが感じられた。電話を秘書にかけさせず、まず自分が出たのも彼なりの礼儀なのだろう」


 赤坂の料亭での初対面のとき、著者の若さに驚いて、しばし力道山はポカンとなったそうです。そして、著者が訊きもしないのに、「プロレスに八百長なんかないよッ」と息まいて、「ヘタに八百長なんかやってみな、おたがいにケガするんだ。そんな甘ちょろいものじゃないのにバカにしやがってッ」と言い放ったとか。


 すっかり酔った著者が「素手のケンカならリキさんの日本一は、まず間違いないでしょうな」と質問を発したところ、力道山は「イヤ、わしより強い男が1人おるよッ」と言ったそうです。その男こそ、空手家の大山倍達その人でした。


 「力道山より強い男」に強い興味を抱いた著者は、大山倍達の自宅を取材がてら訪問します。想像していたよりも粗末な家に上がり込み、著者は「こんな仕事をしている者です」と持参の少年誌の自分の絵物語の部分をいくつか示しました。


 大山は、「ホー」と言ってタコだらけのグラブみたいな手に取って、いちいち丹念に眺めたそうです。その絵物語の中に、空手使いの悪役が柔道家の主人公にブン投げられる筋書きの作品が紛れ込んでおり、著者はヒヤッとしました。それで先手をとって弁解することにし、「空手は富田常雄氏の『姿三四郎』以来、いつも悪役ですからな」と言ったとか。著者は、次のように書いています。


 「大山倍達は苦笑したのみで、それよりこの構えは間違っています、と悪役空手家の手足の位置を生真面目に指摘した。私は頼みこんで、アメリカで発刊されている『リング』とか『ブラック・ベルト』などの格闘技専門誌が彼の活躍ぶりを扱っている号を見せてもらった。巨大なレスラーやボクサーが空手着姿の彼の足許に虚ろな目をみひらき血まみれで横たwっている写真が無数に載っている。ゴッド・ハンド(神の手)・マス・オーヤマと最大級の讃辞が冠せられてある!

 『力道山と戦ったとして、勝つ自信がありますか?』
 『そういうことは口にすべきではありませんが、もし戦えば結果は力道山君が知っているでしょう。彼は戦いません』
 私は力道山も好きだが、この不遇な超人を、もっと好きになった。で、ミイラとりがミイラになり、その場で大山門下に入門してしまうのだ」


 力道山といい、大山倍達といい、著者との出会いのエピソードの大部分はおそらく創作でしょう。当時、民族問題や政治的信条の違いもあり、力道山と大山倍達は友好的な関係ではありませんでした。力道山が「わしより強い男」として大山倍達の名前を挙げるなど有り得ません。また、アメリカの格闘技雑誌に大山がプロレスラーやボクサーをKOした写真が無数に掲載されていたというのも聞いたことがありません。


 後に著者が手掛けた大山倍達の一代記『空手バカ一代』のストーリーのかなりの部分が創作であったことが明らかになっていますが、本書に描かれているエピソードも同様だと思います。巨大なファンタジーであった『空手バカ一代』は、それでも実際に無数の大山門下生を生み出しました。


 大山倍達と著者は義兄弟の契りを交わし、その後、すさまじい極真空手ブームが巻き起こります。しかし、映画の興行収入の配分などをめぐるトラブルが原因で2人は絶交状態になり、そのまま著者は亡くなってしまうのでした。


 1987年1月28日、梶原一騎は死去しました。そのとき、大山倍達は次のようなコメントを雑誌に寄せています。


 「もっと早く、仲直りすべきだった
 彼は劇画において天才でしたね。もうああいう天才は二度と出ないでしょうね。
 時代にマッチしていたんですな。もう10年長生きしてほしかった。
 私の弟分のような存在で優しくしてやったりもしました。
 もっと早く仲直りすべきだった。許すべきだった。後悔しています。
 彼も天才なので人の言う事を聞かない処がありましたしね。
 約20年間のつきあいでしたが、仲直りできなかったのが、かえすがえすも残念でなりません。仏に申し訳ないと思っています。  大山倍達」


 その大山倍達も、1994年4月27日に死去しました。人の縁の不思議さと命のはかなさを思い知らされます。