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「社会」の誕生』

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No.0507

 

 『「社会」の誕生』菊谷和弘著(講談社選書メチエ)を読みました。

 

 著者は和歌山大学経済学部教授で、専攻は社会思想史、社会哲学だそうです。


 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。


序  分解する現代社会―「社会」という表象


第1章 トクヴィル:懐疑

 1. 超越性に包含された世界と人間―二月革命以前

 2. 世俗世界の分離、「社会それ自体の出現」―二月革命

 3. 「人間」と「社会」の新生、「社会科学」の登場―二月革命以後

 4. 人間の生と信仰

 5. 次世代への地ならし―第二帝政


第2章 デュルケーム:格闘

 1. 実証科学としての社会学の創造―物としての社会的事実

 2. 歴史的背景―第三共和制初期

 3. ドレフュス事件―人間的人格一般

 4. 社会的生の原理としてのトーテム原理―「生きる物」としての人間と社会へ

 5. 『自殺論』について

 補節:身体のユニークネス―社会的事実の地盤


第3章 ベルクソン:開展

 1. 意識、持続、自由

 2. 生命一般と物質一般、生命の原理としての創造的自由

 3. 経験の拡張、内的および外的経験

 4. 第三共和制の変質

 5. 社会、人類、愛

 補節:自己意識のユニークネス―〈私〉の持続と身体という物質


終章 誕生した社会・絡繰―相互創造の網と人間的超越性


「あとがき」


 この「目次」を見ても、すぐわかるように、はっきり言って、本書は硬いです。言い回しも、なにかと難解です。それもそのはず、もともとは学術誌に発表された原稿がベースになっているそうです。 


 そのへんの事情について、著者は「本書は、学術誌『思想』第1010号および第1011号に発表した拙稿『共に生きるという自由について(上・下)――生の社会学への展望:トクヴィル、デュルケーム、ベルクソン』(岩波書店、2008)に大幅な加筆修正を加えつつ、同時に選書メチエの趣旨に鑑みて専門家に限られない幅広く多様な読者を想定しつつ一冊の本にまとめたものである」と書いています。うーん、なんで、こんなに硬い言い回しになるのでしょうか?


 「あとがき」の最後には、家族に対して次のような謝辞が捧げられています。


「そして最後に、私の生をすこぶる創造的なものとし、本書の論理に日々実体を与えてくれる妻と二人の娘たちに、本書を捧げることをお許しいただきたい」


 そりゃ、いくらでも許しますし、家族に対する感謝の念は素晴らしいと思いますよ。しかし、どうして家族への謝辞がこんな書き方になるのでしょうか?


 どうも、本書の出自が学術誌だからとかなんとかいうより、この硬さは著者独特の文体によるもののようです。著者は1967年生まれですので、わたしより4歳年下ですが、なんだか大正教養主義の時代の文章に触れているみたいです。


 それにしても、「からくり」をわざわざ漢字で「絡繰」と書くとは! わたしは心の中で、「漢字クイズじゃないんだから・・・」とつぶやきました。話が大きく脱線してしまいました。元に戻りましょう。著者は、「序 分解する現代社会」の冒頭で、次のように述べています。


 「社会に生きるということが、これほどまでにつらい営みになってしまったのは、一体いつからなのだろうか? そして、なぜ?

 世紀をまたいでまだ十年。しかしこの十年間で、最低限の社会的な良識が見失われてしまったように感じられる。以前から存在してこそいたものの常に後ろめたさと不可分だった嘘やまがい物が、『裏に隠れて』ではなく、『表立って堂々と』跋扈するようになってしまった。いつまでも終わらない戦争・紛争、頻発するテロリズム、国際的な権力構造による必然的で永続的な貧困といった悲惨な状況さえ、解決すべき異常な事態であるよりもずっと日常的で通常の事態、『ありふれた』『当たり前のこと』と感じられるようになってしまった」


 おっ、本文はそれほど硬くなく、すらすら読めます。それに、書いてある内容にも共感できます。たしかに、現代社会、それも現代日本社会は異常な事態に直面していると思います。無縁社会、格差社会、貧困社会・・・・・自殺者の数も3万人を超えていますし、こんな社会が真っ当であるはずがありません。著者は、続けて次のように述べます。


 「この事態を正確に捉えるとすれば『我々が生きる現場としての世界の確実性と普遍性の喪失』と言いえよう。いや喪失というよりも忘却、紛失、失認、やはり正しくは『見失い』だろう。それは、我々が皆『共に生きている』という、あらためて言われればまったく当たり前の現実的事実それ自体を把握し損ない、見失ってしまったこと、さらに言えばこの『共に生きている』という我々の生の基盤それ自身の奥底からの否定であるようにさえ感じられる。

 近年ますます語られる経済格差や教育格差の一層の拡大を背景に、我々の各人の目には、これまで共に社会を成していたはずの他人が、社会的な立場や状況を異にしてはいても同じ人間であったはずの隣人が、『いつでも自分がその立場に立ちうる同類者』とは映らなくなってきてはいないだろうか?彼らはむしろ、自分とは質的に異なる存在として、言い換えれば『私が人間であることと同じ意味において人間である』とはとても思えない存在として、我々の相互に、日常的にますます立ち現れるようになってきてはいないだろうか? そう、まさに我々の社会は分解中なのだ。

 ではこの、人間が、我々が、現代において『共に生きる・共に生きている』とはいかなる事態なのか。その根底には何があるのか?言い換えれば、社会とは結局何なのか?日々他者と共に生きているとは、一体どういう事態なのか?本書の問いはこれである」


 だんだん文章が硬くなってきましたが、言いたいことはよくわかります。さらに、続けて著者は次のように述べます。


 「このために、現代において我々が人間社会と呼び生きているこの『社会』なる概念の由来、その歴史的生成を振り返ってみたい。というのも、現代社会の常識とは異なり、『人が一緒に生活しているということ』『我々が共に生きているということ』イコール『社会』、ではないからだ。社会とは歴史上のある時点で生まれたもの、それ以前には存在しなかったものだからだ。人間は、社会というあり方以外の、なおかつ孤立ではない生き方をかつて営んでいた。それなのに、歴史の流れの中で、自らを社会で生きる(ほかありえない)存在と認めた。現代社会が根本的に変質し分解しつつあるとすれば、その行く末を見据えるためにも、この社会なる特殊な生き方の有り様とその理由を、根底からしっかりと摑んでおく必要があろう」


 要するに、「社会」とは何なのか、そして「社会」という概念がいかにして成立してきたのかを探ることが本書の目的だというのです。これらの問いに答えを出すために、著者は3人の思想家を取り上げます。


 アレクシス・ドゥ・トクヴィル(1805―1859)。


 エミール・デュルケーム(1858―1917)。


 アンリ・ベルクソン(1859―1941)。


 以上の3人です。彼らの思想を、その背景であるフランス近代史との密接な連関において取り扱うことが本書の主な内容となります。その理由について、著者は「何よりもまず、社会なるものを1つの『まとまり』として明確に対象化した最初の体系立った試みこそが『社会学』、とりわけ19世紀後半から20世紀初頭にかけてデュルケームがフランスで創始した実証主義的社会学だからだ。その成立過程の検討は、我々の問いにとって明らかに不可欠である」と述べています。


 最初に著者は、「社会」と「人間」について、次のように述べています。


 「我々の日常的な常識と異なり、『社会』も『人間』もずっと以前からあったわけではないようだ。いや、もちろんあらゆる概念の発生と同様『社会』という概念も、いつからとは特定しづらい長い過程の産物であり、その意味ではそれ以前にもあった。また人は有史以前からずっと複数の個人の間で関係を築きながら――家族、親族、部族、村落等々――『共に生きてきた』ようであるし、その意味では人類の発生以来『社会』も『人間』も存在したと言えなくもない。しかし、今日我々が社会の名の下に思い描く像、とりわけその典型の1つである、国家をモデルとする、国境線を模した輪郭のはっきりした1つの『まとまり』、1つの機能的に重層化された組織、人間の相互的連関の総体としてのいわゆる『全体社会』が観念されるようになったのはまったく最近のことなのだ」


 なるほど、この一文で「社会」についての見晴らしが一気に良くなったように思います。「社会学」という学問があります。「社会学」とは、一般にフランス社会学史において社会と社会現象を固有の対象とする一学問を指すそうです。


 その社会学を実際に成立させたのは、エミール・デュルケームだとされています。そして、神という超越性に包まれた世界から「社会」という観念が切り離されたとき、「社会科学」が生まれたのだと著者は述べます。

 

 そこで大きな鍵となるのが19世紀のフランスであり、さらに言えば、二月革命でした。19世紀フランスに生まれたトクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの3人の思想を1つの流れとして読み解く著者は、次のように述べています。


 「いずれにせよ、社会概念は拡張された。それは狭義の社会から、すなわち物としての社会から、その見失われた外部へと、すなわち我々が生きている世界の全体へと膨張を始めた。社会とはもはや、個人に外在し個人を拘束する社会的事実の全体ではなく、またそれがすべてであることに由来する至高の権威をもった抑圧的義務的な統合体でもない。それは『人間性全体の原理であるものへの愛の中で愛された人間性全体』、すなわち人間性を持つ存在としての人間の統合体であり、しかも拘束・義務による統合ではなく、人間性の原理そのものへの愛において愛し合う存在の全体としての統合である」


 つまり、「社会的連帯(solidarite sociale)」ではなく、「人間的同胞愛(fraternite humaine)」による統合であるというのです。「社会」誕生の謎を追う著書の関心は、「心」という問題にまで及びます。そして、次のように述べています。


 「結局、『他者に心があるのか』という問題設定が、『他者は、私を離れて、それ自身として自由意志を持つ存在なのか否か』という問題設定自体が、現実に即していないのだ。創造的な=生きている=自由な存在としての<私>の創造行為なくして『他者の心』はありえない。私が自由に生きることによって他者の心を創り、またおそらく同様に他者によって<私>が創られているのだ。

 この愛という創造は、無論人間の反省的意識性が前提となる。というのも<私>を表象可能な意識、自分自身を対象化可能な意識であるが故に、社会的道徳的行為の決断をおこなうこともでき、『他者を愛するという決断』も可能となるのだから。この意味で愛は『自然に湧き出る』ものでも『盲目的な』ものでもないのだ。

 そしてこの愛、すなわち他者の自由に向けられた私の自由なまなざしこそ、生物としての生、いわば身体の生である『生存のための生(la vie pour survivre)』からは質的に区別され、かつ、デュルケームによって縮小されたその範囲をより現実に即して、しかしあくまで経験に基づいて、『信仰』には至らない範囲に再拡張された意味において『社会的生(la vie sociale)』と呼ぶべきものであろう。それは、『群れ』としての『閉じた社会性』ではなく、『自由な意識諸主体の社交体』としての『開いた社会性』であろう」


 そして、ベルクソンの愛の人間主義的解釈などに言及しながら、著者は述べます。


 「『社会』、我々が共に人間である根拠であり、社会的生を営む現場。それは神的超越性に支えられざるをえないように久しく考えられてきた。確かにそれは、物質的可感性という意味での世俗性の水準では根拠付けられていない。しかし他方で、我々が生きているという事実は意識内的に経験的に確証できる以上、少なくともこの超越性は一切の世俗性と完全に切り離されたまさしく神的超越性ではなくともよいはずだ(『神秘(主義)』の語は神的超越性に対し限定して使用されるべきであろう)。ならば、外的な物質的証拠はなくとも内的な経験的根拠に基づいて、神的超越性と物的世俗性の間に、我々がまさしく人間としての社会的生を実際に営んでいる自立した領域の存在を、『人間的超越性』ないしは『人格的超越性』とでも呼ぶべき領域の存在を認めることができるのではないだろうか? そしてこの領域に、我々が社会的生を営む存在一般としてすなわち人間的人格一般として互いに同類であり平等であることの根拠を措定できるのではなかろうか? 日々現に我々が互いに創造し合い成している愛の領域に」


 ついに、著者は「社会」そのものについて、以下のような認識を得るのでした。

 

 「結局のところ、この人間的超越性の領域としての社会の中でこそ我々は、超越神でもなければ物でもなく、まさに人間として生きているのだ。神と物質の間には、神学と物理学の間には間隙があり、そこで我々は相互に人間として創り合い、実際に共に自由に生きているのではなかろうか。
 以上が、歴史の中で生み出された『社会』という表象の赤裸々な有り様であり、すなわち現代社会の根底的で現実的な構造、絡繰である」


 この一文をもって、本文の最後の結論となっています。さらに、「あとがき」で著者は次のように述べています。


 「我々は通常『社会』を思い浮かべる際、誤って社会制度ないし社会システムを、つまり『統合された1つの全体としての社会』を思い浮かべる。それもしばしば我々が生き延びるための必要悪として、それに組み込まなければ『まともに生きてゆけない』必要悪として、まるで『近代国家』の同義語のように『社会』を思い浮かべる。そしてこのように誤解された『社会』とは、実のところ、『法と刑罰』に典型的に見られる通りの、科学の名の下に物理法則に類似させた、反作用としての制裁を伴う規範すなわちルールの一体系ではなかろうか。別様に表現すれば、それは、数多くの『部品たち』によって構成された金属製の硬い機械から類推した一全体システムだ」


 とどのつまり、著者が言いたいことは何なのか。それは、次の言葉に集約されるではないでしょうか。


 「社会を成すとは、共に生きるとは、通常思われているよりもずっと、本質的に自由な行為である。これこそが本書の社会分析が我々自身に対して持つ意義の核心だ」


 文章が硬くてなかなか読み進めるのに苦労するところもありましたが、それでも本書を読んでさまざまなヒントを得ることができました。


 「社会」の本質について深く考えたい人には、一読の価値があると思います。