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祖父が語る「こころざしの物語」』

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No.0508

 

 『祖父が語る「こころざしの物語」』加地伸行著(講談社)を読みました。

 

 著者は、わが国を代表する儒教学者で、わたしの尊敬する方です。これまでにも、『混ざり合った日本の私』、『社員でなく同志』、『聖人の思想とその現代的意義』などで著者の加地先生を紹介してきました。


 本書の「目次」は、以下のようになっています。


「はじめに」

第一限目:利己主義は敵か味方か

第二限目:他者とは何か

第三限目:親とは何か

第四限目:儒教における家族

第五限目:友情について

第六限目:君子と小人と

第七限目:エリートとは何か

「おわりに」


 本書は、大学教育通信教育を柱とするZ会の機関誌に「こころの物語」として連載された文章を集めたものです。75歳になった著者が、まるで自分の孫たちに語りかけるように、「人間の器を広げる人生の授業」を繰り広げています。


 「はじめに」で、著者は自分の幼い孫を抱くと、自然と涙がにじんでくると述べます。小学生の孫たちと出会うときは、「よく来た、よく来た」と言いながら強く抱きしめるとか。


 著者は、儒教の古典である『礼記』の中の「君子は、孫を抱きて、子を抱かず」(曲礼上篇)という言葉を紹介します。これは、もともとは或る儀式における作法なのであるが、祖父と孫とのつながりを示す言葉でもあるそうです。そこからは「生命のつながり」が強く感じられます。


 著者は、「高齢の私は、もう欲も得もなくなっている。私のこの生あるかぎり、次の世代の人たちに、私の想いを伝えたい、伝えておきたい、という気持ちだけである」と述べ、読者を自分の孫として、「こころざしの物語」を語りたいといいます。


 では、何を語るのか。それは、「若いあなたの前にある人生のさまざまな道において、どの道を選ぶべきか、その助言をしたい」というのです。今年3月11日に起きた東日本大震災について、著者は次のように述べます。


 「あの東日本大震災がもたらしたさまざまなことの内の1つは、<家族の絆>の問題であった。そのためであろう、家族の絆、ひいては日本人の絆、人間の絆ということが、はっきりと語られるようになってきている。それはそれで正しい。けれども、では家族の絆とは、いったい何なのか、ということについては、あまり語られていない。

 それは無責任である。<家族の絆>が大切と言うのならば、その<家族の絆>とは何かと語るべきであろう。まず私が語ろう。私が<家族の絆>とは何かを語りつつ、それを通じて、人の在りかた、世への見かた、友との関わりかた・・・・・・について語ってゆきたい。祖父が孫に語るようにして」


 本書の内容は多岐にわたっていますが、わたしの心に残った部分を紹介します。


 第一限目「利己主義は敵か味方か」で、著者は「人間だけが〈死〉について考える」として、次のように述べています。


 「人間は、死というものそのものについて考え、対処してきた唯一の動物なのである。

 もちろん、死を避けるためではあるが、一般動物のように、ひたすら死から逃げるのではなくて、むしろ積極的に死と向かい合うという態度をとってきたのである。

 そして、世界じゅうの至るところの人間は、死について考え、そのことによってなんとか死の恐怖から逃れようとしてきたのである。ただし、一般動物は<死の恐怖>からの逃走であるが、人間は、<死の恐怖>という目の前のことだけではなくて、こころの中の漠然とした<死の不安>からの逃走にも努力したのである。

 <死の恐怖>とは、例えば、ピストルを突きつけられるような、直接に死につながるような場合である。

 <死の不安>とは、例えば、老いること、或いは病気によって、いつの日かはっきりとは分からないけれども、やがて死が訪れてくることを何となく感じるときの状態である。

 この<死の不安>は、未来という時間があるということを知っている人間のみが持っているものだ。この<死の不安>を知っているということから、人間は死について考えるようになったのである」


 <死の不安>について、非常にわかりやすく説いた文章だと思います。死について説明するというようなことから、著者は「宗教」というものが興ったと推測しています。なぜなら、人間が<死の不安>を抱く限り、その必要があるからです。


 わたしは、<死の不安>とは「利己」から生まれてくると思っています。ですから、「利他」の心を持つことができれば、<死の不安>を乗り越える可能性が出てきます。そして、それは「志」というものに通じています。利己主義を超えて、他者の幸せのために志を立てれば、自分が死ぬことが相対化されていくのです。著者も、第二限目「他者とは何か」で次のように述べています。


 「志とは何かというこの問題と、<他者とは何か>というテーマとは、実は密接につながっているのである。

 と言うのは、志を立てるとは、己のためではないからである。己のためならば、志などという面倒なことを考える必要はない。ひたすら自分の安泰だけを考えればすむ。そうではなくて、志を立てるとは、世のため、人のため、つまり他者の幸福のために自分は何をすべきかという決心のことなのである」


 第三限目「親とは何か」で、著者は「〈親離れ子離れ〉は正しいか」と問題提起し、次のように述べています。


 「家族をつないでいるものは何か。その根本は、血がつながっていることである。これは理屈ではない。事実である。ということは、家族の<生命体>が同じということだ。

 <生命体>というのは、身体の上に乗っている<生命のもと>・<生命の原質>のことである。現代生物学で言えば、DNA・遺伝子ということであろうか。

 親の生命体と、子の生命体とは同じである。すなわち、親と子とは、同じ生命体、言い換えれば、親のコピーが子なのである。

 コピーなのであるから、やや粗っぽく言えば、親と子とは同一生命体ということだ。この、同一生命体ということから、生物として自分が自分を愛するのと同じ感情で親は子を愛するのである。それは生物のしぜんな感情なのである。

 これが<無償の愛>の源となる」


 この著者の考え方にはわたしも多大な影響を受けています。いくつかの著書でも、引用させていただいています。「個人主義」の是非を問う著者は、基本的に個人主義は欧米の思想だと喝破します。そして読者に対して、もし個人主義という思想を信念としてそれに拠って生きてゆこうとするならば、次のような覚悟をしなければならないといいます。


 「個人主義に立つ場合、他に頼らずすべて自己責任となる。一切の弁解は通用しない。もちろん、老後において、家族が面倒をみてくれることはない。また、自分の親の財産はすべて関係なくなる。親がその全財産をその親の面倒をよくみてくれた人(まったく知らない人かもしれない)に贈っても文句は言えない。己の葬儀もだれが参列してくれるのか、分からない。・・・・・・というふうに、心身ともにすべて自己責任で自立し、自律して生きるのが個人主義である。そのように個人主義とは1人であることを覚悟する生きかたである。欧米人は小さいときからそういう環境の中で生きている」


 そして、著者は次のように断言するのです。


 「はっきりと言おう。欧米思想の個人主義など(日本国憲法はそれを主張しているが)、日本人には無理なのである。しかし、何も恥じることはない。日本人には日本人に最もふさわしい生きかたがあるのだ。それは、家族主義である」


 まったく同感です。しかし、ここまで正しいことを言い切れる人がどこにいるでしょうか? わたしは、ますます著者への尊敬の念を深めました。「日本人には家族主義がふさわしい」ということを広く世に伝える必要があります。


 第四限目「儒教における家族」で、著者は次のように正面から儒教を取り上げます。


 「ふつうは、儒教と言えば中国が生んだ思想・文化であるとする。なるほどそれは正しい。しかし私はこう考えている。
 中国・朝鮮半島・日本など東北アジアの人々の考えかたや感覚を、いち早くまとめあげ、それを文字で表した結果が儒教である、と。ふつうは、中国人は漢字を創造し、その漢字を使って記録したので、儒教は中国製と受けとられている。そうではない。中国と日本との間に、共通する考えかたや感覚があったからこそ、中国で生まれた儒教なるものが日本に渡ってきたとき、それを抵抗なく受け容れることとなったのである。
 その結果、例えば、日本特有のものとされる神道も儒教の考えかたをずいぶんと取りこむことができたのである。このことは、朝鮮半島においても同様であると言える。
 では、中国・朝鮮半島・日本等において共通する考えかたや感覚とは、いったいどういうものなのであろうか。それは、家族についての考えかたや感覚である」


 中国人、朝鮮人、日本人など儒教文化圏に生きる人々は、欧米のような「核家族」の思想には本来なじまないのです。それなのに、日本において核家族が急激に増えたのは、なぜか。著者は、その最大の原因は日本国憲法の普及にあり、戦勝国であるアメリカから個人主義を徹底して叩き込まれたからだといいます。


 儒教といえば、「葬礼」に最大の価値を置くことで知られます。儒教の開祖である孔子の母親が葬礼を司る〈おくりびと〉だったことを明らかにしたのは偉大な漢学者であった白川静ですが、彼の影響を強く受けている著者もこの説に賛同しています。そして、『儒教とは何か』(中公新書)をはじめとする著書で、宗教とは「死と死後の説明者」に他ならず、その意味で葬礼を重んじる儒教ほど宗教らしい宗教はないという見解を示しています。


 著者は、本書でも「われわれ人間とそれ以外の動物との間には、或る決定的な相違点があるからである。その相違点とは何か」と問いかけます。そして、「それは、仲間―家族や友人や近所の人々等、彼らが死を迎えたとき、その遺体の処理をするという一点である。仲間の遺体の処理をする。これが人間と他の動物との決定的な相違点なのである」と述べています。


 さらに著者は「儒教は死の教科書である」として、次のように述べます。


 「人間はこの世に生を享けたあと、ただちに独りで生きてゆくことはできない。牛や馬の子は、生まれるともう歩きだしているが、人間の子はとてもそんなことはできない。そこで親が育てることとなる。というわけで、人間は母親を第一として家族と深い関係を持つこととなる。もちろん、例えば牛や馬とて母親と深く結ばれている。しかし、少数の例外を除いて、ほとんどの動物の場合、自立してゆき、もとの家族とは別れる。猿などは相当長期間にわたって家族グループが存続するとのことであるが、それは例外的である。

 これに対して、人間のみが家族関係をずっと保ち続けるのである。

 たがいに死に至るまでそれは続く。

 そしてその次。世界の人間家族において、死後においてもなお家族関係が続くのは、東北アジア(日本・朝鮮半島・中国など)の家族だけなのである」


 そして、儒教の大きな特徴とも言える「祖先祭祀」について、著者は述べます。


 「祖先祭祀をするということは、亡き人を想い出すことであり、死者にとっては、親しい人々が想い出してくれるというそのことで、生きている者は死の不安が収まり、精神の安定が得られる。また子孫一族が続くことによって、己の生命体はこの世に存在し続けることになるので、死の不安にある肉体が安定を得られる。この(1)祖先祭祀と(2)子孫一族の残存と、そして現実の家庭における(3)<子の親への敬意・愛情>という3者を併せて、「孝」と言う。儒教では」


 ここで、ついに「孝」というコンセプトが登場しました。著者は、さらに「孝」を一言で言えば<生命の連続>だとして、これをわれわれは最も大切にしてきたといいます。これを基盤として家族主義が成立し、その家族主義(古くは一族主義)をわれわれは支持してきたというのです。続けて、著者は述べます。


 「この孝は、祖先祭祀を基礎にして宗教的であるが、家族道徳でもある。この孝道徳の上に儒教道徳が積み上げられてゆく。とすれば、孝の基盤には儒教の死生観がこもっており、孝はまた同時に儒教道徳のスタートとなる。

 この孝が最も意識され、実践されるのが家族においてである。すなわち、儒教における家族とは、宗教的にしっかりと結びついているのである。だから、家族は生きているときのみならず、死後もずっと結びついているのである」


 わたしは、多くの著書で「孝があれば、人は死なない」と書いていますが、それは著者のこのような考え方に影響を受けたからです。


 第五限目「友情について」は、高校生には非常に考えさせられる箇所ではないかと思います。著者は、次のように述べています。


 「友人のいない場合がある。心配するな。いつか必ずできる。「いい日旅立ち」という歌がある。その歌詞の一部に、「日本のどこかに わたしを待ってる人がいる」とある。これは異性に対する想いを歌っているのではあるが、異性だけの話ではない。同性の友人との運命的な出会いが、いつかどこかで必ずある。

 友人とは<無償の愛>で結ばれている。金銭や利害の関係で結ばれているのではないから、ここ一番という本当に大事なところで協力してくれるし、真剣に考えてくれる。そのような友人が一人おれば十分である」


 まさに、祖父が高校生の孫に語りかけるような言葉です。非常に優しくて、かつ説得力のある言葉だと思います。


 第六限目「君子と小人と」で、著者は再び「志」について次のように述べています。


 「志を立てる、すなわち他者を幸せにすることの第一歩は、東北アジア(儒教)では、両親を幸せにするということなのである。

 そこからさらに、自分の兄弟姉妹へと愛情が及び、そうした血縁者を幸せにしたその後にはじめて、自分とは血縁関係のない人々に対して愛情をそそげ、と言うのである。

 その意味はこうだ。他者を幸せにするというのであれば、まず自分と親しい人々(つまりは家族)の幸せを図り、その後に自分とは親しい関係のない人に対して幸せを図ってゆけ、ということなのである。

 自分の親や家族を幸せにすることができなくて、どうして非血縁者たちを幸せにすることができようか、という思想である。これが東北アジア人(日本人・朝鮮民族・中国人)のふつうの考えかたであった」


 そう、「友愛」や「隣人愛」といっても、わたしたち日本人を含む東北アジア人の場合は、まず「家族愛」からスタートするのです。そして、「家族愛」は「友愛」や「隣人愛」へと拡大していく、あるいは発展していくものであり、それらはまったく矛盾しないのです。


 ここで、「君子」と「小人」の違いについて、著者は次のように説明します。


 「孔子はこう考えた。人間は士と民とに分かれる。しかし士と言っても、知識だけの者と、知識と有徳(徳性の有るもの)との2つを身につけた者との2種がある、と。そこで前者を『小人』、後者を『君子』と言ったのである。この孔子の気持ちに沿って、私はこう現代日本語訳にした。『小人』を『知識人』、『君子』を『教養人』と」


 わたしは日頃から『論語』を愛読し、最近は『世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)という本も書きましたが、著者のこの現代日本語訳は素晴らしいと思います。「君子」とは教養人であり、「小人」とは知識人である。まさに、その通りではありませんか!


 その「君子」とは、「エリート」という言葉につながります。


 第七章「エリートとは何か」において、著者は、あらゆるエリートにとって必要なものこそ「道徳性」に他ならないと喝破し、次のように述べます。


 「患者の気持ちに寄り添ってくれる医療技術者、生徒の気持ちになってくれる教員、人々の日本人としての在りかたに基づく官僚、社員が集団の中でしっかり働いていることを察する経営者・・・・・・そうなれるかどうかは、当事者の道徳性の問題である。
 つまり、<志を持つ>ならば、知識や技術を磨き高めるのはもちろんであるが、同時に己の道徳性をも修養することに努力することなのだ。かつてインドの哲人、ガンジーは、社会的な罪を挙げたが、その中の『人格なき学識』『人間性なき科学』のようであってはならないのである。この社会的罪は、高学歴の者ほど犯しやすいのである」


 そして、著者は繰り返して言います。若い人々が求めるべき道は、「<他者の幸せのため>に生きようと決意し、それを実現するための知識・技術を習得し練磨し、一方、己の道徳性の修養に努力する<教養人>への道、すなわち真のエリートへの道である」と。


 そして、「祖先を大切にすることの意味」を説く著者は、日本が生んだ「仏壇」という文化について次のように述べています。


 「お仏壇は、聖なる空間にして、かつ家族の絆を強烈に意識できる、すばらしい日本特有のものである。お仏壇の前で、家族はともに泣き、ともに喜ぶことができるのである。それが家族主義の姿なのである。


 もし家にお仏壇がなければ、あなたが作ればいいのだ。菓子箱でも段ボール箱でもいい、千代紙を貼って華やかな色調にしてもいいのだ。何も黒色でなくてもいいのだ。そして内部は3段にし、上段に仏様(おシャカ様でも観音様でも)を安置し、中段にはあなたの家の祖先の位牌を建て、下段には、向かって左から花瓶(花を活ける)・香炉(線香を点てる)・ろうそく立ての3つを置けばりっぱなお仏壇なのである。大切なことは、仏壇という<物>ではない。祖先と出会う<こころ>なのである」


 わたしは『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)という本を書きましたが、そこでも仏壇の重要性を力説しました。また、最新刊『のこされた あなたへ』(佼成出版社)でも、いかに仏壇が残された遺族の心を慰めるかについて書きました。著者の言うように、仏壇とは亡くなった死者と出会う〈こころ〉だと思います。


 「おわりに」で、著者は本書を書いたきっかけについて、次のように述べています。


 「奈良県の高校生が、父親に対して重大な決心をし、自宅に放火し、結果として母親と弟と妹とを焼死させてしまった事件があった。その高校生が父親から厳しい教育を受けていたこと等の理由が報道された。そうした報道の中で、このようなものがあった。その高校生の実母は離婚しており、その離婚の結果、妹は実母が引き取ることとなった。当時、幼年だったその高校生は、泣いて妹を抱きしめて離さなかったという。
 私は、この泣いて妹を抱きしめて離さなかった少年が不憫でならなかった。放火・殺人の罪は罪、しかし、妹と別れさせられた少年のその後の淋しい孤独な生活を思うと、涙がにじむのであった」


 著者は、この孤独な少年と同じ年頃の高校生たちに、人として生きる上で最も大切なメッセージを伝えようと思ったのです。これこそ、他者の幸せのために生きる「こころざしの物語」でないでしょうか。本書は高校生向けの内容ですが、大人であるわたしの心にも大いに響きました。


 わたしも、著者の「こころざし」を見習って、他者の幸せのために生きることのできる人間を目指したいです。そして、いつか、わたしに孫が生まれて成長したら、このような人間の器を広げる人生の話をたくさんしてあげられる祖父になりたいと思いました。