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ウェブ×ソーシャル×アメリカ』

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No.0491

 

 『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』池田純一著(講談社現代新書)を読みました。

 

 いやあ、すごく面白かったです! これまで読んだIT系の本の中では、ダントツの面白さでした。なによりも、スケールの大きな視点が良かったです。「ウェブ」と「アメリカ」を考えるための基本書だと思いました。


 帯には「Google、Apple、Facebook、Twitterはなぜアメリカで生まれたのか?」というリードの後に、「批評の新次元を開く待望の書!」と大書されています。また帯の裏には、以下のような内容説明が書かれています。


 「ウェブはアメリカのプログラム(文化的伝統)をいかに継承・具現し、社会の変容にどう寄り添うのか? 歴史、社会、経済、思想、工学、建築、デザインなど分野の境を超え、その『構想力』の源流をたどり、未来を語る、斬新かつ根源的論考」


 著者は、デジタル・メディアの黎明期からの専門家です。1965年生まれで、早稲田大学大学院理工学研究科の卒業だそうなので、わたしと同時期に早稲田界隈を歩いていたことと思います。卒業後は電通総研や電通を経て、コロンビア大大学院で公共政策・経営学を学んだ後、FERMAT Inc.代表としてコンサルタント活動をスタートしました。


 本書の「目次 」は、以下のような構成になっています。


「プロローグ」

第1章:ウェブの現在

第2章:スチュアート・ブランドとコンピュータ文化

第3章:Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか

第4章:東海岸と西海岸

第5章:Facebookとソーシャルネットワーク

第6章:アメリカのプログラム

第7章:エンタプライズと全球世界

第8章:Twitterとソーシャルメディア

第9章:機械と人間

「エピローグ」


 「プロローグ」の冒頭で、著者は次のように述べています。


 「2010年代に入って、ウェブと社会の関係は一見シンプルなものになったように思える。90年代半ばのインターネットの登場からおおよそ15年が経ち、様々な点で『成熟』の時代に入ったかのようだ。ちょうどパソコンの誕生から15年ほど経ったところでWindows95が登場し、パソコン市場が安定期に入ったのと似ている。(中略)2010年代初頭の段階では、おそらく、GoogleとAppleがウェブサービスの2強であることを否定する人はいないだろう。そして、この2者に続いて、Microsoft、Amazon、Facebook、Twitter、Skype、あたりを加えれば、ウェブの世界の大抵のできごとの読み取りは可能になる。彼らはプラットフォームと呼ばれる存在で、それぞれ協力企業や利用者との間に独自のエコシステムを築いている」


 著者は、「全ての産業と同じように、ウェブの世界も成熟の果てにこのまま老成していくのか」と問いかけます。そして、イエスの立場もノーの立場も出始めているとして、イエスの急先鋒が『Free』の著者クリス・アンダーソンであると指摘します。アンダーソンは老成どころか「ウェブの死」を宣言しているそうで、著者は次のように述べています。


 「アンダーソンによれば、スマートフォンやタブレットの登場によって、インターネットの中に、世界中にオープンなWWW(ワールドワイドウェブ)とは異なる、クローズドな世界が急速に作られてきているという。その帰結としてウェブの細分化・断片化が進んでしまう。iPhoneやFacebookのような、モバイル・ウェブやソーシャル・ウェブでの動きがそうであり、そうしたクローズドな世界が提供するアプリケーションの繁茂によって、自由なアクセスが担保されたウェブ(=WWW)は死んだ、というのがアンダーソンの主旨だ」


 著者は、2010年代のウェブには「ウェブの死」という疑念が常についてまわると予測した上で、ウェブの内部世界については今後の構想力が問われてしまうとも言います。著者によれば、ウェブに限らずPCの開発については、その開発初期である1950年代から60年代にかけて基本的な構想が描かれていたそうです。そして、しばしばカウンターカルチャーの影響下でそれらの構想=ビジョンが描かれたとして、著者は次のように述べています。


 「たとえば、Appleの"法王"であるスティーブ・ジョブズは自らカウンターカルチャーの洗礼を受けたことを表明してはばからない。あるいは、Googleの"全権大使"であるエリック・シュミットはカウンターカルチャーが生み出したDIY(=Do It Yourself)の文化の1つでもあるハッカーカルチャーのど真ん中にいた人だ。ジョブズとシュミットはともに1955年生まれであり、カウンターカルチャー全盛の60年代後半に直接的にその現場に居合わせたわけではない。しかし、その影響が色濃く残る世界で青年期を迎えた。

 何を言いたいかというと、ジョブズにしてもシュミットにしても若い頃に広く社会に流布していた理想=ビジョンを直接的・間接的にその身に吸収して今日に至っていることだ。ジョブズにすれば、それは『パーソナル・コンピューティング』の理想型というビジョンであり、シュミットにすれば、『ネットワーク・コンピューティング』の理想型というビジョンだ」


 著者は、おおよそ50年前に構想された理想が、ようやく最終形態として、いま実現されつつあるとして、次のように述べています。


 「そのビジョンは、商品やサービスの供給者である企業だけでなく、消費者であるユーザーも共有していた。そうした集団による夢の共有を可能にしたのが、後に紹介するスチュアート・ブランドが始めたWhole Earth Catalog(WEC)という雑誌やコミュニティの存在だった。夢の商品、夢の世界を実現させてくれるからこそ、PCやウェブの新商品は公表されるたびに熱狂をもって迎えられてきた。その熱狂があればこそ、単なる消費対象物・購買対象物を超えた「文化」として受け止められてきた。自分たちの夢を叶えてくれる存在として、多くのユーザーが、シリコンバレーを中心に登場するコンピュータやネットワークの企業を歓迎してきた。カリフォルニアの外にも多くのコンピュータ企業がアメリカには存在するにもかかわらず、ながらくシリコンバレーが聖地として奉られてきたのはそういう意味だ。つまり、シリコンバレーやベイエリアは、コンピュータやネットワークについては「約束の地」としてあった。いうまでもなく聖地や約束の地という言葉で形容できてしまうあたりが既に軽い宗教性、もしくは霊性(スピリチュアリティ)を帯びた熱狂であったことがわかる」


 わたしは、この文章を読んで、ドラッカーのことを連想しました。わたしが「ドラッカーの法則」と呼んでいる考え方があります。偉大なイノベーションの約50年後に社会が変化するという法則です。


 たとえば、1455年のグーテンベルクによる活版印刷術の発明の約半世紀後にはルターによる宗教改革が起こりました。また、1776年にアメリカが独立し、ジェームズ・ワットが蒸気機関を著し、アダム・スミスが『国富論』を書いた半世紀後には産業革命が起こり、資本主義と共産主義が現れました。そして、世界最初のコンピュータであるENIACが発明されて半世紀後にはインターネットが普及しました。これらの例と同じように、現在のIT社会にも「ドラッカーの法則」が当てはまるように思いました。


 本書の第3章「Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか」には、60年代のカウンターカルチャーの流れが描かれます。スティーブ・ジョブズもエリック・シュミットも、カウンターカルチャーの影響を受けていました。


 カウンターカルチャーといえば、ヒッピー、ドラッグ(LSD)、ビートニク、コミューン(共同体)運動、フリースピーチ運動、消費者運動、公民権運動、女性運動・ゲイ解放、ベトナム反戦などが思い浮かびます。カウンターカルチャーのシンボル的な存在として、ジョブズが自身のスピーチで引用したWhole Earth Catalog(WEC)がよく参照されます。スチュアート・ブラントが編集したWECは、その名の通り地球上のすべての商品カタログであり、今や伝説となっています。


 この「Whole Earth」という世界の見方は、バックミンスター・フラーの影響を強く受けていました。フラーとブラントの交流は、ブラントがNASAに地球の写真の公開を求める運動を起こしたことから始まったそうです。フラーは、「宇宙船地球号」という言葉を生み出した人です。そこには地球という同じ船に乗った人類は「呉越同舟」「一蓮托生」の立場にあるという意識があったのです。


 しかし、70年代になって、カウンターカルチャー運動は失速しました。ブラントは、フラーに続いて、WECの読者であるカウンターカルチャー世代の人々が社会復帰するための考え方として、グレゴリー・ベイトソンの「世界は生態系として1つである」という思想に着目しました。そこから、社会改革は企業や日常生活の場にあっても実現することができるという考え方を打ち出したのです。


 本書では、AppleやGoogleの次を考える上で、Facebookに非常に注目しています。著者は、次のように述べています。


 「ソーシャル・ネットワークとは人々の『繋がり』の支援に照準したサービスだ。およそ6億人が日々何らかの繋がりを示すサービスとは、それだけで1つの社会を想像させる。その意味で、Facebookはスチュアート・ブランドがWhole Earth CatalogやWELLを通じて実現を夢見た『電子の広場』の現在的姿といっていいだろう。マクルーハンのグローバル・ビレッジの再来という人たちすらいる」


 特に、Facebookの創設者であるマーク・ザッカーバーグがウェルギリウスの『アエネーイス』を好み、ローマ帝国に深い関心を抱いていたというくだりが興味深かったです。著者は、次のように述べています。


 「ザッカーバーグはフィリップス・エクセター・アカデミーで高校時代を過ごした。スチュアート・ブランドが通ったのと同じ東部の名門校だ。そのエクセター時代、ザッカーバーグはラテン語や古代ギリシア語を得意とし、なかでもウェルギリウスの『アエネーイス』を好んだという。作者のウェルギリウスはダンテの『神曲』にも登場するように、西洋世界では何度も参照される偉人の1人だ。

 『アエネーイス』はローマ建国の神話であり、パックス・ロマーナ(ローマの平和)を支える、多民族融和の原理を示した物語だ。これにより今日に至る『ヨーロッパ』という概念が生まれたといわれる。つまり、多数の人々や文化が共存共栄する方向性が示され、それがヨーロッパの精神を育んだのだという」


 実際、ザッカーバーグは、『アエネーイス』の一節の、「境界のない世界・国家」という表現を特に好むそうです。何度か社内会議でも引用しているといいます。世界中の人々をひたすら「繋げる」ことに情熱を傾けているザッカーバーグが『アエネーイス』に惹かれているのは非常に興味深いですね。


 また、『アエネーイス』に加えて、ザッカーバーグはマクルーハンのグローバル・ビレッジにも関心を寄せているとか。ザッカーバーグに限らず、Facebook関係者がグローバル・ビレッジに言及することは珍しくないそうです。著者は、マクルーハンについて次のように述べています。


 「マクルーハンはカソリックであり、カソリック的世界観の影響下でグローバル・ビレッジを構想したとされる。だとすれば、この場合もヨーロッパの精神に繋がることになる。

 キリスト教はローマが国教に定めることによって普及を進め、またその過程でギリシア文化とともにヨーロッパを支える精神的支柱となった。カソリックは中世においては世俗的な領土的境界を越えて、ヨーロッパに広く浸透した。むしろ、カソリックの精神があればこそ、ローマから遠く離れた中央ヨーロッパ(今日のドイツ)に位置する神聖ローマ帝国がローマ帝国の継承として存続し得た。カソリック教会は当時から精神的な共同体という点でバーチャルな共同体としてあったわけだ」


 第6章「アメリカのプログラム」も興味深く読みました。著者によれば、アメリカの大きな特徴の1つは、確実に建国の起源に戻れることだそうで、次のように述べています。


 「200年遡れば一連の建国の出来事(独立戦争から憲法制定、連邦政府の樹立等)を史実として確認することができる(いわばある会社の『社史』のようなものとして国の歴史があると思えばよい)。他国においては、しばしば国や民族としての発祥を言祝ぐ『起源神話』があるものだが、アメリカの場合は史実として記録されている。そのためか、その『記録』をあえて『記憶』に転じさせ神話化しようとする動きが随所に確認できる。

 その最たるものは、4年に1度の大統領選の際に、ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソンといった建国の父祖(Founding Farthers)たちに関わる歴史書が多数出版され、新たな史実や新たな解釈が提出されることだ。そして、大統領選が4年に1度と厳格に定められているため、むしろ、そうした歴史解釈の想像力、あるいは、別解釈を生み出そうとする点で物語的想像力といってもいい想像力はアメリカでは何度も反復される。そして、その物語や想像力がまた新たな歴史を創りだしていくことになる。さらに、過去への想像力は容易に反転して未来への想像力に繋がっていく」


 著者は、ここで「アメリカン・ルネサンス」というキーワードを持ち出します。「アメリカン・ルネサンス」とは、19世紀半ばの新たな文芸思潮です。今日のアメリカ大衆文化の源泉として、エマソン、ソロー、ホイットマン、メルヴィル、ポーといった「アメリカン・ルネサンス」の作家たちが取り上げられることが多いそうです。


 いずれも大学人ではなく、市井のアマチュア作家でした。アメリカでは、19世紀後半以降まで今日のような近代的な研究型大学ができておらず、それ以前は市井の人々が「知」の現場で活躍しました。思想や思考が表現される場も「文学」つまり、詩や散文でした。そして、それは出版によって人々の間に浸透していったのです。


 アメリカン・ルネサンスの作家の世界における中心人物はラルフ・W・エマソンでした。エマソンはトランセンデンタリズム(超越主義)と呼ばれる思潮の考案者にして牽引役で、ほとんどのアメリカン・ルネサンスの作家たちはエマソンのトランセンデンタリズムに強い影響を受け、創作活動に勤しんだといいます。


 つまり、エマソンこそはアメリカン・ルネサンスの生みの親なのです。彼の唱えたトランセンデンタリズムは、東洋の宗教の影響も受けながら、自然との一体化とそれによる意識の拡大を促すものでした。エマソンについては、拙著『法則の法則』(三五館)に詳しく紹介されています。トランセンデンタリズムやアメリカン・ルネサンスについて、著者は次のように述べます。


 「ここで大事なことは、事実として、トランセンデンタリズムやアメリカン・ルネサンスが、アメリカ独立後に初めて大々的に記録された文化思潮であったことだ。加えて、エマソンやソロー、ホイットマンといった市井の人々による言葉で綴られることによって、民衆の思想とでもいうべきものが創りだされたことも捨ておけない。ワシントンやジェファーソンのような建国の父祖たちのように偉人として特権視された人たちではない、普通の人々の信条や言葉が代弁されたのだった。とりわけ、ホイットマンは、自ら政治活動にも参加した経験を活かし、自分自身の言葉で建国の理想を人々に届く形で伝えた。ソローは、都会の喧騒を避け、コンコードの森に住み着き、自然の中で自らを見つめ直した」


 アメリカン・ルネサンスの作家たちは、アメリカ人という自意識を生み出すことに貢献しました。著者によれば、彼らの作品は、当時の主流の文化や風潮に対して異を唱えるものが多く、まさに19世紀のカウンターカルチャーでした。その異を唱えられた主流(メインストリーム)なるものが、欧州伝来の文化的伝統であったため、結果的にアメリカにオリジナルなものとして広く理解されることに繋がったというのです。そうして、アメリカの人々の心の糧となったわけです。


 著者は、「エマソンのトランセンデンタリズムが『意識の拡大』、ホイットマンやソローらの文学が『コミューンの新設』という点で、カウンターカルチャーの運動にもしっかり繋がりを持っているわけだ」と述べます。


 現在のネット文化のルーツをはるかアメリカン・ルネサンスにまで遡るという手法は、わたしの「DNAリーディング」の考え方にも通じ、非常に刺激的でした。著者は、次のように述べています。


 「カウンターカルチャーの動きが全米的な『運動』にまで転じたのは、1830―50年代にかけて起こったアメリカン・ルネサンスに代表される、アメリカ独自の思潮が、その後の100年をかけて全米に広く浸透していた素地があったからだといえる。その意味で、カウンターカルチャーもアメリカのプログラムの発現の1つとみなすことができるだろう」


 さらに続けて、著者は次のように述べています。


 「19世紀の精神はその後広範にアメリカ文化に浸透し、60年代のカウンターカルチャーに限らず現代にも繋がっている。たとえば、トランセンデンタリズムはゴシック文学にも連なり、現代アメリカ文化の想像力に影響を与え続けている。

 ゴシック文学とは、主には恐怖文学に連なる文学で、多くは今日パルプフィクションと呼ばれる大衆文学(推理小説やSFなど)に関わる。もちろん純文学でもそうした傾向は認められる(たとえばポール・オースターの作品など)。

 トランセンデンタリズムの『自然賛美』は、19世紀のアメリカで登場した絵画の一派であるハドソンリバー派の描く風景画でも見られる。それらの風景画は、アメリカン・サブライムとも呼ばれ、崇高(=サブライム)な、畏敬の念を抱かせる。

 トランセンデンタリズムに端を発したこのような発想は、今現在でも、アメリカ人の中で蠢いており、アメリカ人の想像力の源泉の1つとなっている」


 これはもう、ウェブの問題など超越した壮大なスケールのアメリカ文化論と言えるのではないでしょうか。いわば「アメリカ人の精神史」とでも呼ぶべきものですが、そこでポイントになるのはアメリカという国家の歴史の浅さです。著者は、アメリカの歴史の浅さについて次のように述べます。


 「アメリカでは自らの民族的来歴を語ることがよく見られる。3代から6代ぐらい遡れば先祖はアメリカ以外の土地からやってきていることがほとんどであり、あたかも企業の創業者であるように、ある街の創始者となる一族も生まれた。街≒共同体の起源が実際に遡れてしまうわけだ(もちろん、そうした街とある一族との密接な関係は、時に街自体を支配する権力者として描かれることも多い。これはこれで別種の物語的想像力を刺激してきた。ジェイムズ・エルロイ等の都市暗黒小説やノワールものがその例だ)」


 アメリカは建国当初から「ユートピア」をめざした国でしたが、そこでキーワードになたのが「平等」でした。多民族国家であるアメリカには、常に「平等」の理念が求められたのです。著者は、このようなアメリカの精神風土について次のように述べます。


 「平等会社として始まってしまったアメリカだからこそ、その平等を求める意識が反転して生み出しかねない、個人間の不平等という疑心暗鬼を拭い去り、一定の範囲で人々が結びつくきっかけになるものが求められる。そのためにトクヴィルは宗教を肯定的に評価した。ここでいう宗教とは、恒常的に確定した世俗の権威(たとえば王)の不在を補うものであり、アソシエーションのような形で他者との紐帯関係を築くきっかけを与えるようなものだ。実際、2011年現在のアメリカでも、先進国では珍しく宗教が社会的に重要な役割を果たしている。宗教が政治的な支持の基盤になりさえする。連邦議会議員や州知事のように公職に就く人たちは自らの信じる宗教も公開している。非営利法人(non-profit company=NPC)という存在も、もともとは宗教が先導するチャリティ(charity)を制度化する中で生まれてきたものだった」


 さらに著者は、「イノベーション」という新しいキーワードを持ち出します。そして、『イノベーションのジレンマ』『イノベーションの解』などの著者である経営学者クリステンセンの見解などに触れながら、次のように述べます。


 「クリステンセンは、イノベーションという過程をevolution同様、一種の自然法則と捉えている。法則は人間の意志でどうこうできるものではない。自然法則としてニュートンの万有引力の法則を例にとれば、引力の働きは人間の意志で変えることはできない。それと同じことだ。そして、だからこそ、その(innovationという)自然法則の扱いを巡って(innovatorである)人間がジレンマを抱え、解答を模索することになる。その模索から知恵が生まれ、新たに工学的な対処方法が考案される。再び万有引力の例でいえば、法則としての引力をいかに人間に有用なものとして活用するか、という態度になる」


 クリステンセンはinnovationをevolutionのように、環境適応の帰結として現出するものと捉えました。evolutionは環境に対してただ起こるだけであり、そこから生じることにいいも悪いもありません。著者は、同じことがクリステンセンの捉えるinnovationにも当てはまると言います。良いも悪いも人間の側で判断できない自然法則に対してinnovatorの苦悩(ジレンマ)が検討されるわけです。


  そして、本書における最大級のキーワードは「全球」です。第7章「エンタプライズと全球世界」の冒頭で、著者は次のように述べています。


 「2010年代のウェブを考える上で世界の動きは無視できない。ソーシャル・ネットワークに注目が集まる状況ではなおさらだ。というのもソーシャル・ネットワークの本質は『人々の間の交流』にあるからだ。人々の活動が世界的な広がり―スチュアート・ブランド的にいえば『全球的』広がり―を持つ中では、人々の交流もまた全球的な様相を帯びるようになる。そして、そのような全球的な交流を支援し加速させる方向にソーシャル・ネットワークのサービスも向かうからだ。それは、同時に、より柔軟で自由なイノベーションの機会を与えてくれさえする」


 最終章となる第9章「機械と人間」で、著者は一気に現在のウェブ社会を俯瞰しようと試みます。まずは、以下のようにGoogleとFacebookを比較します。


 「Googleが端末に繋がった人たちをあくまでも情報入力装置として客体化して捉えようとするのに対して、Facebookは、端末を介してネットワークの向こうにいる人を繋げることで、そこで有意な情報が新たに生み出されることに期待している。Googleにとって大事なのは、ユーザーの痕跡としての出力結果だが、Facebookにとって大事なのは、ユーザー自身だ。Googleはあくまでも、知識絵図、マップを作ることが目的であるが、Facebookが求めるのは社会的な交流関係や結びつきの図式であるソーシャル・グラフを作ることで、それに基づき複数の人の集団をマネージすることが目的だ。その意味でFacebookは、ザッカーバーグ自身が直感しているように、自治政府のありように近い。本質的にコミュニティだ」


 ここで、本書の中でもわたしが最も感心した箇所が登場します。Google、Facebook、Appleの違いを表現する上で、著者は以下のようなアナロジーを使うのです。


 「いささか言葉遊びになるが、真善美という3つの基本的な価値になぞらえれば、科学的合理性を追求するGoogleは『真』、ユーザーという人間的なインターフェイスを通じて共同体の構築を進めるFacebookは『善』、触覚を通じた自在性を売りにすることで、ヒューマンタッチを具体化させたAppleは『美』、という具合にそれぞれ基本的な価値を実現していると見ることもできるだろう。一見すると同じウェブやコンピュータのサービスを提供しているようだが、その実、背後にある価値観は異なる。その価値観=思想の違いが、彼らのサービスの開発や設計=デザインの違いとして表出する。


 わたしは、この比喩には本当に感心しました。著者は、非凡な表現センスの持ち主だと思いました。著者はこの秀逸な対比を行った後で、「科学的合理主義を追求するGoogleに対して、FacebookとAppleは、いわば人間賛歌=ヒューマニズムを復権させたことになる。それは同時に、インターフェイスの設計=デザインの問題、人間性を感じさせるためにどのような『フェイス=顔つき』を与えるのかという問題を突きつける」と述べています。


 Facebookは人間主義的で、Googleは合理主義的で機械的。また、Facebookは電子の「広場」を体現し、Googleは電子の「市場」を推進すると著者は述べます。


 しかし、このような単純な対比は、あくまでも創設者の志向性の違いからデフォルメされたものに過ぎず、現実の世界ではそのようなきれいな2分法は通用しないことも著者はよく知っています。というのも、ウェブが遍在していく状況は、それこそコンピュータ開発の最初期に構想された「マン・マシン系」、すなわち、人間と機械がともにシステムに繋がれ協働する状況を現出させていくからだというのです。 ウェブが遍在化する近未来について、著者は次のように述べます。


 「ウェブが遍在化する社会とは、技術的にはユビキタス社会といわれるものだ。ユビキタス社会では、無線・有線のネットワークが配備され、人間がいつでもどこでもネットワークにアクセスできる環境が整えられる。その傍ら、様々な機械が通信機能を持つことで機械どうしでも、あるいは機械と人間との間でも交信可能になる」


 そして最終章の最後で、著者は次のように述べています。


 「ソーシャル・ネットワークの存在が前景化する2010年代は、Appleが依拠したカウンターカルチャー性(人々の解放)の追求でもなく、Googleが一般化した市場交換性(ウェブで完結した交換=売買)の実施でもなく、Facebookに代表されるソーシャル・ネットワークが用意しようとするデモクラシー(平等社会)のウェブでの配備が鍵を握る。人間の社会とネットワーク内のリソースが一緒になったマン・マシン系が舞台になる。そこではフィードバックの揺り籠という陥穽に陥らないために、あれこれ策を講じなければならない。その時に有効と思われる視座が、たとえば遊戯性であり可塑性である」


 さて、本書には仮説的な疑問として「カウンターカルチャーがPC/ウェブを作ったのか」という問いがありました。実際は、どうだったのでしょうか?


 著者は、「エピローグ」で「どうやらそうではなかったようだ」と結論づけた上で、「確かにカウンターカルチャーをPC/ウェブの圏域に接続したのは、Whole Earth Catalogを発行したスチュアート・ブランドだが、彼自身はカウンターカルチャーそのものに対してはむしろ批評的だった」と述べています。カウンターカルチャーがPC/ウェブを作ったわけではなかったのです。


 では、何がPC/ウェブを生み出す原動力となったのか。著者は、それは「宇宙開発」だとして、次のように述べます。


 「むしろ、2010年代以後の動きを考えるならば、宇宙開発という夢が全ての出発点にあったということにこそ注目すべきだろう。PCもウェブもこの夢の副産物として生まれ、先んじて一般社会に普及したに過ぎない。コンピュータ(computer)の語源であるコンプトゥス(computus)が暦算法(暦の計算方法)であったことを踏まえれば、宇宙開発からコンピュータが生まれたのも必然だったのかもしれない」


 なるほど、「宇宙開発」ならば「全球」というアイデアにつながります。著者は、次のように述べています。


 「その意味で、ブランドが広めたWhole Earthという視点こそが現在までの技術開発の想像力、社会変革の想像力を支えてきたといっていいだろう。だから、確かに、ブランドとWECのおかげなのだ。ただし、コンピュータに限らなかったことなのだが。

 いずれにしても、私たちはブランドの想像力に多くを拠っている。地球全体を俯瞰するGoogle Earthや、海中の様子を簡単に覗けるGoogle Ocean等のアプリケーションは一見奇異に見えるけれども、つまり、Googleには何の脈絡もないように見えるのだが、それらもWECの掲げたWhole Earth=全球の視座に触発されたものだと思えば納得するのは容易なことだ」


  「宇宙開発」は単なる「宇宙研究」ではありません。著者は述べます。


 「ここで大切なのは科学ではなく工学というところだ。真理を探求すべき存在として宇宙があるのではなく、開発し何かを作りあげる対象として宇宙を捉えていたということだ。60年にケネディ大統領が公言した『ニューフロンティア』という表現は、単なる言葉の綾にとどまらなかった。十分な想像力を広く喚起させたのだった。つまりは、宇宙開発という目標が、今日に至るまで技術開発の全体性を与え続けてきたわけだ。


 だから、今後は、Whole Earth=全球という視座から物事を見ていくほうがいいのだろう。たとえば、Facebookは、いわばバーチャルなスペースコロニーのようなもので、その意味でザッカーバーグはブランドの理念の直系の継承者といっていいだろう、という具合にだ。従来のプライバシー概念に代えてオープンやトランスペアレンシーをザッカーバーグが重視するのも、きっと、Facebookの登場によって、いわば人間の間に働く引力(=重力)が変わったのだから、それにふさわしい関係のあり方を築こうではないかと提案しているに違いない。そんな感じで解釈してみる。このような見方をした方が、おそらくは納得できることが増え、生産的に物事の推移を見ることができると思うのだ」


 「宇宙船地球号」を唱えたバックミンスター・フラーは、無重力の宇宙空間では上下を定義することができず、「内側」と「外側」の区別しかないとした後で、こう述べたそうです。


 「環境(environment)」とは、私を「除いて」存在するもの全て。


 「宇宙(universe)」とは、私を「含んで」存在するもの全て。


 著者は、ここで「宇宙」はspaceではなくuniverseであることには注意が必要であり、むしろ「世界」と取るべきだという見解を示しています。そして、この知的好奇心を刺激してやまない本書の「エピローグ」の最後は次の一文で締め括られています。

 

 「全ては宇宙開発から始まったのだ」


 とにかく面白い本でした。317ページと新書としては厚めの本でしたが、一晩で一気に読めました。

 

 ウェブの世界は「日進月歩」で、どんどん進化していきます。しかし、本書の内容はいつまでも古くならないのではないかと思います。