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梶原一騎伝』

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No.0499

 

 『梶原一騎伝』斎藤貴男著(文春文庫)を読みました。

 

 言わずと知れた、一世を風靡した劇画原作者の傑作評伝です。著者は、『カルト資本主義』や『機会不平等』といった社会派のノンフィクションを多く手掛ける作家です。1995年に新潮社から『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』として刊行され、2001年に『梶原一騎伝』として加筆されて新潮文庫化された作品の新装版です。本書の表紙裏には、次のような内容紹介が掲載されています。


 「『巨人の星』『あしたのジョー』『夕やけ番長』『愛と誠』など、中高年世代が若い頃に心を熱くした名作は、いずれも梶原一騎の原作である。しかし、彼の人生にはダーティーな影が付きまとい、事件・スキャンダルも絶えなかった。スポーツ劇画ブームを巻き起こした天才漫画原作者の実像を深く求め、鋭く迫った名著」


 本書の「目次」は、以下のようになっています。


序章

第一章  スポ根伝説~栄光の時代

第二章  生い立ち

第三章  青春

第四章  『あしたのジョー』

第五章  栄光の頂点

第六章  狂気の時代

第七章  大山倍達と梶原一騎

第八章  どいつもこいつも

第九章  逮捕とスキャンダルと『男の星座』

第十章  梶原家の父と子

「あとがき」

「文庫版のためのあとがき」

「解説  永江朗」


 『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』『柔道一直線』『空手バカ一代』『夕やけ番長』『侍ジャイアンツ』『赤き血のイレブン』『愛と誠』『虹を呼ぶ拳』『柔道讃歌』『キックの鬼』『紅の挑戦者』『カラテ地獄変』『四角いジャングル』、そして『男の星座』・・・・・梶原一騎が生み出した劇画作品の数々は、わたしを含め多くの日本人の「こころ」に強い影響を与えてきました。著者は、序章で次のように述べています。


 「梶原劇画の多くが、後世まで残る資格のある、素晴らしい作品群だったことは間違いない。『少年ジャンプ』の初代編集長である長野規(現、集英社顧問)は語っている。

 『わが国漫画史上において、梶原一騎は手塚治虫にも匹敵する存在でした。その生き方や創作者としてのあり方は大きく異なっていたけれども、読者や次の世代の漫画家に与えた影響力の点で、むしろ梶原さんは手塚さんに優るとも劣らなかったとさえ言えるかもしれません。影響された側が、そのことをどれほど意識しているかは、また別の話だけれども』」


 日本の漫画界において、かの手塚治虫にも匹敵するという梶原一騎。著者は大阪帝国大学の医学部を卒業し、「漫画の神様」あるいは「日本のディズニー」とまで呼ばれた手塚治虫のことを「名実ともに一流の人生を全うした」と評した後、次のように述べます。


 「一方の梶原一騎は、教護院(感化院)の出身である。

 高校も卒業できなかった。そこから成り上がり、確かに昭和40年代の一時期に一世を風靡したものの、後半生とりわけ晩年は悲惨だった。

 劇画のテーマとして描いていた格闘技興行に直接携わるようになり、暴力団との関わりが生じた。生き急いで暴走の限りを尽くした末、銀座のクラブで編集者を殴って逮捕され、それを契機に婦女暴行未遂や数々の女性スキャンダル、恐喝事件などが次々に明るみに出された。単行本の版元はこぞって彼の作品を絶版にした」


 著者は、もともと梶原作品は、その全盛期においてさえ権威とは無縁であったとして、「ある種特殊な状況下で描かれた『あしたのジョー』を除いて、彼の作品が手塚のそれのように真っ向から論じられたことはほとんどない。いかに売れようと、漫画雑誌以外のジャーナリズムやアカデミズムにとって、泥臭い梶原劇画は揶揄の対象でしかなかった。」と述べます。そして、その晩年について、著者は次のように述べるのです。


 「逮捕後の梶原は、一時は社会的な抹殺に近い状態にまで追い込まれる。釈放されてからは壊死性劇症膵臓炎という大病に冒され、いったんは奇跡の生還を果たしたが、昭和62年1月21日、50歳の若さでこの世を去っていったのである。以後もまともな評価が試みられた形跡はない」


 わたしにとって一番思い入れの深い梶原作品は、『巨人の星』に続いて描かれた『柔道一直線』です。本書には、そのストーリーが次のように紹介されています。


 「昭和39年10月。東京オリンピックの晴れ舞台で、柔道日本の無差別級代表・神永昭夫五段は、オランダ代表のアントン・ヘーシンクの力の前に敗れた。

 『柔よく剛を制す』の理想は、もはや夢物語なのか?

 われこそはその実践者たらんとする九州・小倉の柔道少年・一条直也は、折りしもめぐりあった"鬼車"こと車周作六段に強引な弟子入りをする。

 直也は天才ではない。少し強くなってから英雄的にふるまおうとすると、すぐにメッキがはがれる。試練を通して何かを学んだつもりでも、似たような過ちを何度も繰り返す・・・・・。しかし、雑草の根性を持つ大平凡児である彼は、柔道家としても男としても、いつかたくましく成長していく―」


 『少年キング』で連載された『柔道一直線』は大ヒットし、TBSでテレビドラマ化もされました。ドラマのほうは一条直也の出身が小倉ではなく、最初から東京の下町となっていたことを後年知りました。わたしの「一条真也」というペンネームは「一条直也」にちなんだものです。それくらい、わたしにとって「一条直也」はヒーローだったのです。


 後に斎藤ゆずるに変更されましたが、『柔道一直線』は当初、永島慎二が漫画を担当しました。その永島と梶原一騎の次のようなやり取りが本書に紹介されてますが、当時の状況をよく表わしていると思います。


 「『巨人の星』と『柔道一直線』。短期間のうちに二大人気作品を産みだした梶原一騎は、どこへ行っても肩で風を切って歩くようになった。当時の単行本に載っていた著者近影の写真をそのまま、ベレー帽に蝶ネクタイのいでたちで尊大にふるまう様子は珍妙ではあったが、愛すべき稚気の表れとして、多くの人に愛されもした。

 『川端康成がノーベル賞を取ったっていうけどよ、俺の方が原稿料は上なんだぜ』

 ある時、こんな自慢話をしてみせた梶原に、永島は冗談で返し、大笑いになった。

 『梶原さんは、もうヒットなんかしない方がいいよ。

 これ以上当たったら、そっくり返りすぎて後にひっくり返っちゃうよ』」


 しかし、梶原一騎はその後、『巨人の星』と『柔道一直線』を超える大ヒットを出すのでした。梶原作品の最高傑作として名高い『あしたのジョー』です。ちばてつやが作画を担当し、昭和42年12月から48年5月までの通算5年5ヵ月間に渡り『少年マガジン』誌上に連載された大型ボクシング劇画でした。


 著者は、「ボクシングは、梶原が終生愛し続けた唯一無二のスポーツである。彼が得意のフィールドにしていた空手にしろプロレスにしろ、ボクシングに比べれば、初戦は愛情よりも作家的な関心の方が勝っていた」と述べています。梶原は、その大好きなボクシングをテーマに、不良少年が一流のプロボクサーに成長していく物語を描いたのです。すさまじい反響でしたが、70年安保の前後という時代背景もあって、『ジョー』を反体制の物語として深読みする者もいました。昭和45年4月、日航機「よど号」をハイジャックした赤軍派の田宮高麿は「そして最後に確認しよう。われわれは、あしたのジョーである」と言い残して北朝鮮へと旅立っていきました。


 『あしたのジョー』の主人公。矢吹丈と最大のライバル・力石徹の戦いは日本中を熱狂させましたが、試合でジョーをKOして勝利は収めたものの、過酷な減量がたたって力石は死にます。その後、有名な力石の葬儀が行われるわけです。当時の様子について、著者は次のように描いています。


 「力石の死が描かれて1ヵ月と少し後の昭和45年3月24日、東京・音羽の講談社講堂で、力石徹の葬儀が現実に行われた。アングラ劇団『天井桟敷』を主宰していた寺山修司が中心になって催したもので、全国から集まった弔問客は約八百人を数えた。

 学生運動華やかなりしこの当時、どん底からはい上がったジョーは反体制の、白木財閥の後ろ楯を得た力石は体制の、それぞれ象徴だというわけである。

 漫画の登場人物の葬儀という酔狂とも言える行為が実現したのは、そのような時代背景の産物でもあった。列席した梶原・ちばコンビは体制云々の意図はなく、したがってこの場の反響にも複雑な表情を隠せなかったが、一方で身震いするような責任を感じたという。帰りの車中で、二人はこんな会話を交わした。

 『物書き冥利に尽きると言えば尽きるな。だけど、これから先が大変だ』

 『みんな真剣でしたね。これは一回止めてしまって、新連載で描き起こすくらいのつもりでないといけないかもしれない』」


 『あしたのジョー』の大成功によって劇画原作者として栄華を極めた梶原一騎でしたが、その心は満たされていませんでした。すさまじい欲求不満を抱えていた当時の梶原について、本書には次のように書かれています。

 

 「欲求不満は時に凄まじい形で発散される。44年11月5日夜、梶原は青山の酒場で客に暴力を振るっていた来日中のプロレスラー、キラー・バディ・オースチンを見とがめ、同行していた真樹日佐夫とともにこれを取り押さえた。ちなみにオースチンはWWAヘビー級の世界チャンピオンにもなったことがある実力者で、過去に必殺技パイルドライバーで2人のレスラーを死に追いやっていた」当時のインタビュー記事などを見ても、「次にやりたい仕事は?」という問いに対して、梶原一騎は「『ジャン・クリストフ』や『チボー家の人びと』のような教養大河小説」とか「へミングウェイの『武器よさらば』みたいなやつ。所詮かなわぬ夢だろうけど」などと答えています。


 著者は、「俺はこんな漫画ごときの世界じゃあ終わらんぞ、という心の叫びだったのだろう。当時、梶原の周囲にいて、彼の抱く文学へのコンプレックスに気づかなかった人間は1人としていなかったと言っていい。それぐらい梶原は、おのれの原作者という立場をあからさまに卑下していた」


 また、梶原一騎が抱いていたコンプレックスについて、さらに著者は述べます。


 「梶原一騎が生涯抱き続けたのは、文学者になれなかったコンプレックスだけではなかった。仕事の上では絶対にかなわぬと立ててくれるこの弟の真樹にも、劣等感めいた感情を持っていたらしい節がある。真樹自身はこう忖度するのだが―。

 『兄貴より親父に可愛がられたことと、俺の方がガキの頃からずっと女にもてたことかな。女に関しちゃ、兄貴はすごく不器用だったよ。だから女優とかホステスばっかりで、普通の女と付き合っていないだろ。

 それから性格ね。あの頃の兄貴は肩に力が入るっていうか、彼流の帝王学みたいなのがあって、偉そうに演技してるわけだ。俺はそんなこと何も考えないで、開けっ広げだから、それがうらやましかったんじゃねかな』」


 たしかに女にもてることとか、オープンな性格ということもあったでしょうが、わたしはやはり父親からの愛情という要素がコンプレックスの原因として大きかったと思います。梶原一騎は教護院(感化院)に入っていましたが、弟の真樹日佐夫は入っていません。


 そして、そこに入るのは両親の承諾が必要でした。つまり、梶原一騎は両親の意思によって施設に入れられたわけで、その疎外感は大きかったと思います。実の両親から養子に出されたことがトラウマとなったスティーブ・ジョブズを連想しますが、ジョブズと同じように梶原にも「現実歪曲フィールド」が働いたのかもしれません。しかし、それは負の「現実歪曲フィールド」と呼ぶべきものでしたが。


 劇画原作者という立場にコンプレックスを抱いていた梶原一騎は、映画製作の世界の進出します。それには、まず極真空手の大山倍達との出会いがありました。


 「けんか空手」として空手界では孤立していた大山は、牛と戦うというデモンストレーションを行いますが、彼の波乱万丈の半生に注目した梶原は『空手バカ一代』の連載を『少年マガジン』でスタートさせるのです。結果は大反響を呼び、大山倍達は「地上最強の男」として一躍ヒーローになりました。また、各地の極真空手の支部では入門志願者が殺到したそうです。


 梶原一騎は、弟の真樹日佐夫とともに、大山倍達の義兄弟となりました。そして、ある日、相談を持ち掛けられます。それは、昭和50年秋に開催される「第1回空手道オープントーナメント大会」(世界大会)の記録映画を製作してほしいという相談でした。「記録映画を撮っておきたい」と言う大山に対して、梶原が「それなら」といって、三協映画を設立しました。そして、世界各地でロケを敢行したドキュメンタリー映画「地上最強のカラテ」が完成し、これが大当たりしたのです。


 思いもよらぬ大ヒットに気を良くした梶原は映画の世界に本格進出します。次に、「地上最強のカラテ PART2」を製作します。


 その映画のハイライトになったのが、極真空手ニューヨーク支部の黒人空手家ウィリー・ウイリアムが野生の熊と戦うというものでした。元祖である大山の「牛殺し」に対して、梶原はウィリーを「熊殺し」にしたのです。映画はまたまた大ヒットしましたが、これが大山と梶原の義兄弟の間に亀裂を生じさせることになります。興行収入の取り分に関する契約問題で、2人の関係は後に決裂するのです。そして、映画の次に梶原が目指したのが、格闘技興行のプロデユーサーでした。


 もともと、プロレス、ボクシング、キックボクシングをテーマにした作品を多く手掛けていた梶原は格闘技興行の世界には精通していました。著者は、次のように述べています。


 「プロの格闘技興行というものは、社会に欲求不満が蔓延した時にブームを呼ぶものだ。わかりやすいプロレスを例にとれば、日本人が敗戦のコンプレックスから抜け出られないでいた頃、力道山のブームが起こった。高度成長が行き詰まった頃に馬場と猪木がそれぞれ独立、新団体を興して黄金時代を迎え、完全なる共産主義社会ともいうべき政財官界一体で民衆を抑圧する社会システムが完成しつつある近年、再々度の盛り上がりを見せているといった具合である。受け入れる側の人間の心理状態によって面白くもつまらなくもなるのが格闘技興行の世界であり、ということは梶原がそれまで生きてきた劇画原作や映画と酷似している。さらに周囲の環境や人脈などを考え併せれば、プロ格闘技興行への進出は自然の成り行きではあった」


 著者は、梶原の中にあったイメージは、『少年サンデー』誌上で52年の春まで連載していた『天下一大物伝』(大島やすいち・画)の主人公・無双大介ではないかと推測しています。ちなみに、無双大介とは、小倉出身のプロモーターで、柔道・空手・相撲・プロレス・ボクシング・キック・ムエタイ・サンボ・・・・・世界中のありとあらゆる格闘技を集めた「格闘技オリンピック」を開催する人物です。現在の「UFC」やかつての「PRIDE」を先取りするような興行を梶原はイメージしていたのです。


 さて、ここでいよいよ、アントニオ猪木が登場します。


 もともと梶原が初めて原作を書いたプロレス漫画で『チャンピオン太』という作品がありました。それがテレビドラマ化されたとき、第1話で力道山と「死神酋長」というインディアン・レスラーが戦いましたが、その「死神酋長」役に当時付き人の猪木が選ばれました。そのときに、初めて梶原と猪木も遭遇したわけです。著者は、次のように書いています。


 「その猪木と梶原が再び接近したのは、十余年後、昭和49年頃のことだ。極真会館が年に一度開催している全日本大会のポスターに、他のあらゆる格闘技の挑戦を受けると刷り込んだところ、すでに日本プロレス協会を辞めて新日本プロレスを興していた猪木が挑戦の意思表示をした。結局この時はルールの点で噛み合わず実現はしなかったが、猪木には最強を主張する極真側の姿勢を放っておけば、ファンにプロレスの強さが疑われてしまうという判断があった。

 51年6月、ボクシングの元世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦に引き分けた猪木は、今度は攻勢に転じる。『格闘技世界一』を自称したのだ。すると今度は極真側が激怒した。こうしたやりとりの過程で、空手対プロレスの決着をつけようという話になり、互いに異なるルールの調整などをしているうち、両者は案外と親密な関係になっていく。そもそも異種格闘技などという発想は梶原のものだったから、それを映画やビジネスにしようとしていた彼と、プロレスラーであると同時に新日本プロレスの社長でもある猪木との交際も、自然に深まっていった。

 猪木vs.ウィリー戦は、そうした中で行われた。1ラウンド3分の15回戦で、勝負は第4ラウンド1分24秒、両者が場外転落。セコンド陣がこれを取り囲む混乱の中でドクターストップがかかり、引き分けに終わっている」


 その後、新日本プロレスは若手レスラーの佐山聡にマスクを被せて「タイガーマスク」としてデビューさせます。タイガーマスクは空前のプロレス人気を呼び、猪木をも超える人気者となります。そのキャラクター権を持っていた梶原とのトラブルから、かの「アントニオ猪木監禁事件」が起き、梶原と猪木の関係は決裂、新日本のライバル団体である全日本プロレスの若手レスラーであった三沢光晴がマスクを被り、「2代目タイガーマスク」としてデビューを飾りました。その三沢は全日本のエースを務めた後、新団体「ノア」を旗揚げし、試合中に死亡するという衝撃的な最期を遂げました。


 時の流れの速さと夜の無情を痛感します。昨年、恵まれない子どもたちにランドセルを送るという「タイガーマスク運動」が突如として発生し、多くのマスコミがこのプロレス劇画の名作に再び光を当てたことは記憶に新しいところです。


 最後に、本書のサブタイトルは「夕やけを見ていた男」となっています。もともと最初に単行本が刊行されたときには、『夕やけを見ていた男』がタイトルでした。


 なぜ、著者は梶原一騎をそのように表現したのでしょうか。著者は、単行本の「あとがき」の最後に理由を次のように書いています。


 「数多くの梶原一騎原作作品の中で、私は『夕やけ番長』こそ梶原氏の原風景だと指摘した。この作品のラストは、スモッグで汚れた東京の空に、故郷の赤城山に帰った忠治の顔が浮かんでいる背景が描かれ、梶原氏の次のようなメッセージで締めくくられていた。〈赤城忠治はどこへ行ったのでもない。どこへ消えたのでもない。


 彼を愛してくれた愛読者諸君の心の中へと去り、そこに住みついたと信じたい。永久の無二の友として・・・・・〉赤城忠治は、もちろん今も私の心の中に住みついたままである。そして、梶原一騎氏も―。」


 思えば、梶原一騎の人生そのものがセンチメンタルだったのかもしれません。トラウマ、コンプレックス、ジェラシー、裏切り、そして人間不信・・・・・彼は、じつに多くの負のエネルギーを抱えていました。


 そのエネルギーが、あれだけの名作群を生んできたのではないでしょうか。よく、『あしたのジョー』の矢吹丈が彼の分身だと言われます。しかし、わたしは『タイガーマスク』の伊達直人も同じく分身だと思います。


 あの「タイガーマスク運動」は、梶原一騎からの「もっと隣人を愛しなさい」という日本人へのメッセージだったように思います。


 なお、映画「タイガーマスク」(落合賢監督、来年公開予定)が製作され、ウエンツ瑛士が主演することが発表されました。梶原一騎氏原作の国民的人気コミックが初めて実写映画化されるのです。新たなタイガーマスク・ブームが起こり、梶原一騎の再評価が進むかもしれません。