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人生論としての読書論』

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No.0460

 

 『人生論としての読書論』森信三著(致知出版社)を読みました。

 

 じつは、東日本大震災の被災者の方々へのメッセージブックである『生き残ったあなたへ』(仮題、佼成出版社)を執筆中に行き詰まったときに本書を読んだのですが、愛する人を亡くした被災者が死別の悲しみの悲しみを癒すためのヒントが書かれていて、驚きました。著者は、言わずと知れた日本を代表する教育哲学者です。


 本書は、『森信三全集』全25巻中の第20巻に掲載されているものです。これまで、「幻の読書論」として一般公開されていませんでした。それが、このたび致知出版社から単行本として刊行されることになったわけです。

 

 本書は、以下のような構成になっています。


「まえがき」(寺田一清)
一.読書と人生
二.書物の選択
三.本の読み方
四.読書による人間の確立
五.読書における場所の問題
六.読書と年齢
七.読書と職業
八.読書と実践
九.人生の浄福


 第一章の「読書と人生」で、著者は次のように述べています。


 「人生を真剣に生きようとしたら、何人も読書というものと、無関係ではありえないというわけである。同時に、このように考えてくると、時々出喰わす『近ごろはどうも、余り本が読めなくなってね』などとは、メッタに言えないことにもなるわけである。何となれば、それは『わたくしは近ごろ、人生を真剣に生きようとすることは廃業することにしました』というのと同じことだからである」


 著者は、わたしたちにとって必要な読書は、以下の3つの大きな部門に分けて考えることができると述べています。すなわち、


(1)われわれ自身がこの二度とない人生をいかに生きるべきかという問題を中心とする読書、即ち人生論とか宗教関係の読書。


(2)次には、自己の職業を中心とする読書、即ち専門的な読書。


(3)今ひとつは、以上の2つを合わせたものを円心としつつ、自分の生命力を半径として出来るだけ大きな円周を描こうとする読書、即ち広義における教養としての読書。


 そして著者は、「読書とは、われわれが心の感動を持続するための最もたやすい方法である」と喝破し、次のように述べます。


 「実際われわれ人間としては、その生命がつねに感動の持続であって、潑刺として躍動している時、その人の人生は充実し、そこに人生の生き甲斐は感じられるといってよいであろう。何となれば、われわれがこの人生に生き甲斐を感じるということは、われわれの生命がつねに全的に、自らの特質を発揮している場合について言えることだからである。しかもそのような生命の全的充実と実現のためには、何よりもまず生命の深い感動と充実感とが、その基盤として予想せられると言ってよいからである。即ちそれは生命の深い感動であり、その昂揚であって、生命がつねにこのような一種の内的昂揚の状態にあるのでなければ、われわれの一挙手一投足に、『生』の全的充実は期し難いであろう。しかしこのような『生』の全体充実と昂揚は、単なる自然の状態のままでは、とうてい得られることがないと言わねばならぬ。即ちわれわれの心は自然のままでは、あたかも放置せられている水のようなもので、ともすればそこには一種の沈滞が支配するといってよいであろう。さればわれわれは、自分の心の状態をかかる沈滞から救って、つねに潑刺とした動的状態におく必要があるわけであるが、しかもそれを比較的にたやすく可能とするのが読書だというわけである」


 著者は、多くの書物の中から「生きた書物」を選んで読まなければならないと訴えます。このあわただしい時代に、何を好んで生命なき死書を読む暇があるかというのです。そして、精神を集中して、一心専念、全的感動のうちに一気に読み終えるべきだとして、(1)全的感動をもってということと、(2)今一つは、一気呵成ということを大事なポイントとしてあげます。なぜ、そのような読み方が求められるのか。著者は言います。


 「何となれば、そうでなくては、渾一的な生命を捉えることは不可能だからである。
 だが、このように言うと、さらに言う人があるであろう。それは『なるほど一応の主張としては分からぬわけではない。しかし理論書などの場合には、やはり所々難解な箇所があるはずだが、そうした所を、何も考えずに一気に読めというのは、ムリではないか』との主張である。だが、わたくしから言えば、この点こそある意味では、非常に大切な点であって、わたくしの考えでは、そうした分からぬ所は、あまり大した詮索に深入りなどしないで、そのまま先へ読み進むがよいと考えるのである。否、これはひとりわたくしの考えだけでなく、古来一道に達した人々のひとしく唱えていることなのである。
 では何故そうかというと、仮に西洋風の体系的な書物の場合には、いやしくもそれが生きた独創的体系である以上、その如何なる部分も、その一々の部分は、つねに全体系の中における一々の部分であり、随ってそうした全一体系を予想せずしては、いかに頭をひねってみたとて、分かるものではないからである。
 では、そうした全体系は、一体どうしたら分かるかというに、それにはとにかくに、一応全体を読み通すことによってのみ得られるわけである。これショーペンハウエルが『自分の書物は二度読んでほしい』と力説するゆえんである。もっともこれは何もショーペンハウエルと限らず、いやしくも一個の生きた独創体系である以上、何人の書物についても当てはまる真理と言ってよい」


 では、生きた書物を読むというのは、いかなることか。著者は、生きた書物を読めば、その本のリズムが読者に乗り移るといいます。道元の『正法眼蔵』のリズムが自分に移ったことがあるという経験談をもとに、『徒然草』や『芭蕉文集』や西鶴や本居宣長などでも同様の現象が起こるとして、著者は述べます。


 「かくして真に生命をもっている書物を読むには、最初はただ、その書物のリズムに触れるだけに留めて先へ進んでも、リズムを通してはある程度その書物の生命を感得しうるゆえ、すでにそれだけの収穫はあったと言えるわけである。
 さればこのような事をたび重ねてゆけば、読むほうの体認も徐々に深まり、またこちらの体認が深まれば、やがて前には解し得なかった箇所も、しだいに分かるようにもなるわけである。それゆえ先に言ったように、『分からぬ箇所は、あまりそれに引っ掛からないで、先へ進むがよい』ということは、如上体系を主とする西洋の学問の場合にも、また体認を主とする東洋の教学の場合にも、いずれにもひとしく当てはまる読書の一要訣と言ってよいであろう」


 このあたりのくだりは、もはや「読書の真髄」といった観さえあります。このような「読書の真髄」は一日にして成るものではありません。そこでは、まず読書の基礎訓練が必要とされます。 「自分もこれからは、一日にこれくらいの読書をしなくてはならない」という決心し、かつ実践しなくてはなりません。一日の最低読書時間を自身に課すことは、一種の厳しい自己訓練になるとして、著者は次のように述べます。


 「人によっては、『一日不読、一食不喰』で、何らかの支障によって、読書の最低基準が果たされなかった場合は、次の食事を一食抜くというのである。これはかの禅門において、『一日不作、一日不食』というコトバにならって、わたくしが唱え出したことであるが、『一日不食』は少々ムリだとしても、『一食不喰』くらいのことが出来るようでなければ、真に読書の関門をくぐることは出来ぬと言わねばなるまい。
 同時にここまで来ると、読書への入門がそのまま、ある意味では、道への初歩的入門という意味をもってくるとも言えるであろう」


 「読書と自己超克の問題」において、著者は次のように述べています。


 「つねに高次なる目標への『生』の次元的飛躍の努力を怠らぬことであろうが、しかもこのような努力の意図する真のねらいは、即ちまた自己超克の一事にあることが忘れられてはならぬわけである」


 また、「求道としての読書」について、次のように述べています。


 「真の読書の中核となるものは、その人の求道の一念にあるべきことが、明らかになったと言えるであろう。そしてここに求道とは、これを言い換えれば、この二度とない人生を、いかに生きるべきかという大問題と取り組んで、つねにその解答を希求する人生態度と言ってよいであろう」


 本書には一貫して読書の意義や素晴らしさが説かれていますが、第八章の「読書と実践」はまさに圧巻でした。著者は、人間が知識を得るうえで読書ほど効果のある方法はないとして、次のように述べます。


 「では何ゆえ読書は、われわれ人間にとって、知識を獲得するための至便な方途と言えるであろうか。というのもわれわれ人間が、直接自ら知りうる知識の範囲は、きわめて狭少なところから来ていると言うべきであろう。そしてそれは、さらにその根源を突けば、結局われわれ人間存在自身が、その肉体的制約を免れえない有限存在だというところに、その終局的根拠はあると言うべきであろう。
 即ちその為にわれわれ人間は、その直接知るところとしては、この五尺の身体を基として、その感覚知覚、並びにそれら直接知を素材として下す判断が、われわれにとっては、一応手堅い直接知というわけである(もっとも、これらわれわれが直接把握する知識さえも、時に誤りなきを保し難いことは、今さら言うまでもないが、今はそのことの根因にまで追求すべき場所ではあるまい)。」


 人間は「直接知」だけでなく、「間接知」を用いることができるのです。わたしたち人類は、遠い祖先の時代から、すでに直接知のみでは生きていくのに不十分であることを知っていました。そこで、初歩的な段階ではあっても、さまざまな間接知を用いて、その「生」を維持してきたわけです。この傾向は、時代の推移とともにいよいよ増大してきたことは言うまでもありません。この「直接知」と「間接知」について、著者は次のように述べます。


 「今やわれわれに必要とせられる知性は、単なる間接知の記録的累積の量的多量というよりも、むしろそれら無量の間接知の中から、現在個人としての自分なり、さらには自己の属している集団の当面している難問を解決してゆく上に、必要な知識を明弁して、それらを抽出すると共に、さらにそれらを用いて、自らの当面している現実の難問を打開してゆくような動的知性でなくてはならぬであろう。しかもかような要求は、実は必ずしも現代に到ってはじめて出現したわけではないのであって、すでに昔の時代にあっても、『論語読みの論語知らず』という諺のあったことによっても明らかであろう。
 即ちわれわれにとって、真に必要な知性は、書物に記されている事柄の単なる模写的理解や、その記憶ではなくて、そこに記されている真理を、現在自分の当面している現実の難問の解決に対して、いかに適用しうるか否かにあると言ってよいであろう」


 著者は、読書に耽る「知の人」の陥りやすい欠点として、「実践性の希薄化」ということをあげています。知の人はともすれば迷って、断行への勇断を欠きやすいというのです。


 さらに著者は「いわゆる読書好きの人は、とかく読書の面白さに溺れて、眼前の実行がなおざりになりやすい」とまで言っています。これは、わたしがいつも気をつけている点でもあります。実の父であり、森信三から多大な影響を受けている佐久間進会長から「読書に溺れて実践を忘れるな」と事あるごとに戒められているのです。たしも、日頃より「読書と実践」を心がけている次第です。


 第九章「人生の浄福」も、著者の読書哲学が余すところなく語られていました。特に「二種の世界の住人」という言葉が心に残りました。著者は次のように述べます。


 「真に読書の趣を解し得る人は、一身にして『二種の世界の住人』たりうる人とも思うのである。もっともわたくしがここで『二種の世界』というのは、その一つはいうまでもなく、世上普通の人々と交渉するこの現実の社会生活なことはいうまでもないが、では今一つの世界とは如何なる世界かというに、それは書物の中に描かれている世界であり、書物を通して窺いうる世界というわけである」


 人は読書によって「二種の世界の住人」になれるのです。すると、どうなるのか。この日常生活の世界で苦痛なことや悲痛な出来事に遭遇しても、これまでほどには歎き悲しまなくなるというのです。


 それは、なぜでしょうか。著者は、「いかに書物を読む人でも、いやしくもこの肉体をもっている限り、わが子を失った場合の悲痛な思いは、地上における最大最深の悲痛事と言ってよいであろう」と述べています。じつは、彼は愛する子どもを失った経験があるのですが、その深い悲しみの底から読書によって立ち直ったというのです。著者は、次のように書いています。


 「書物を読む人は、多くの人々がわが子を失った悲しみについて書いた書物を読むことによって、世間には如何にわが子を失った人々が多いかということを教えられて、それまでは自分の周囲にも、わが子を失った人のあることにさえ気づかぬほどに、わが身ひとりの悲歎に沈んでいた人も、ようやくにしてこの地上には、わが子に先立たれた親の如何に多いかを知ると共に、自分としては、今度初めてわが子を亡くしたのであるが、世間には三人の子どものすべてを失い、今や人生の老境にのぞんで、ただ老夫婦のみが残されているというような人さえ、決して少なくないことを知らされるに及んで、これまでは自分こそこの世における最大の悲しみを負う者と考えていたことの、如何に誤りだったかを知らされるようにもなるのである」


 わが子を失ったのは自分だけではない。人類の歴史がはじまって以来、同じ悲しみを抱いた人が無数にいることを本は教えてくれます。その気づきとは、ブッダのアドバイスで死者を出していない家を回ったキサーゴータミーの気づきと同じものです。さらに、著者は次のように述べています。


 「しかも書物を読むことが、しだいに身についてくると、人々は単に上に述べただけではなくて、広い世間には、わが子を亡くした悲しみを越える道として、どうしたらわが子の霊が浮かばれるか、というような問題についても、考えたあげくの果て、もしわが子が水泳中に亡くなったとしたら、わが子の亡くなったその淵の近くに、地蔵菩薩の像を祀って、その淵がいかに恐ろしい『魔の淵』であるかを警告する一助としたり、あるいは又、これまでとても幾人かの子どもが輪禍にかかって斃れた『魔の辻』で、わが子もついに命を失ったとしたら、そこへ交通禍の危険防止のために、金を寄附して標識を建てるとか、また遮断機のない場合には、これを寄附する等々の事をしている親の少なくないことを知らされて、自分もこれまでのように、ただ歎き悲しんでいるだけでは、死んだわが子の霊も真実には浮かばれぬことに目覚めて応分の寄附をし、同じ所で再び同じ種類の災禍の起きないようにと努力する気になったとしたら、その時その人は、一方では亡くなったわが子に対する悲歎の念いは、何ら消滅したわけではないにも拘らず、その人の住んでいる今1つの世界においては、今やこれまでのように、ただわが身ひとりの悲しみに歎き沈むという、これまでの世界を越えて、わが子の犠牲を機縁として、広く天下の子どもたちを守ってやろうという考え方にもなるであろう」


 これは、まさに「悲しみの社会化」ということに他なりません。そして、その社会化された悲しみは、多くの人々の命を救うことにもなるのです。このように、読書によって悲しみを軽くすることもできるのです。被災者へのグリーフケアの本を執筆中に行き詰まったときに本書を読んだのですが、グリーフケアとしての読書が明快に書かれていて、わたしは目からウロコが落ちた思いがしました。


 その後、著者の読書論は次のように一気に佳境に入ります。


 「まことにわれわれは、ひとたび読書の世界に入る時、文字通り足一歩を動かさずして、世界一周をすることも可能であり、またこれを時間的には、われらの民族の辿った悠久2千年のあゆみを、辿ることも可能だと言ってよい。
 否、われわれは、それに倍するほどの過去をもつ漢民族の辿った道行きさえ、これを知り得るばかりか、さらに彼我の比較研究をすることさえも可能である。
 これを思えば、この地上に人間として『生』を享け、しかもひと通り文字を読み得るようにして貰いながら、それでいて、書物に親しむことをしない人々の気持ちは、わたくしなどには全く解しかねると言ってよいほどである」


 読書によって、わたしたちの意識は一瞬にして全時空を超えることができる。まさに、読書によって「居ながらにして」さまざまなことが可能になるわけです。さらに著者が語る次のひと言は、古今東西のあらゆる読書論で最も格調高い言葉だと思います。


 「かくしてわれわれは、この地上に人間としての『生』を賦与せられた意義を知らんがためにも、何らかの程度で書物を読むの要があるとしたら、意識を賦与せられ、さらに文字さえ解しうる身にまで育てられながら、長じて書物を読まぬということは、かかる霊能を賦与した絶対者の意図を知らず、随ってこれに応えようとしない点から言えば、まさしく『天』に対する一種の冒瀆と言ってもよいであろう」


 読書をしないことは「天」に対する冒瀆である! ここまで読書という営みの意義を高らかに謳い上げた言葉を知りません。これを読んで、わたしは非常に感銘を受けました。


 最後に、新刊の執筆を中断してまで本書を手に取った理由をお知らせします。それは、本書の表紙に使われている本を持った木彫りの人形が目にとまったからです。大平弘氏のオブジェですが、本書と同じ致知出版社から出ている拙著『面白いぞ人間学』にも大平氏の読書人形が使われたのです。ちなみに、本の装丁は2冊とも、かの川上成夫氏によるものです。


 『人生論としての読書論』と『面白いぞ人間学』の2冊を並べてみると、2体の読書人形が揃って、まことに趣があります。そして、尊敬してやまない「森信三」と「一条真也」の名前が並んでいる姿に、わたしは大きな感動をおぼえるのでした。