No.0467 グリーフケア | 死生観 『遺品  あなたを失った代わりに』 柳原三佳著(晶文社)

2011.10.13

 『遺品  あなたを失った代わりに』柳原三佳著(晶文社)を再読しました。

 著者は、交通事故や司法問題を中心に執筆するジャーナリストです。わたしと同じ1963年生まれですが、2004年から死因究明問題の取材にも力を入れています。実父を医療過誤で亡くし、自らも医療過誤被害を受けたという稀有な経験の持ち主であり、現在は医療問題の取材にも取り組んでいるそうです。

 主な著書に、『死因究明~葬られた真実』(講談社)、『焼かれる前に語れ』(WAVE出版)、『交通事故被害者は二度泣かされる』(リベルタ出版)、『交通事故の被害者になったら』(インシデンツ)などがあります。

 帯には、「愛する人は逝ってしまったけれど、心の中には『宝物』が遺っている・・・。」と記されています。また、カバーの見返しには、次のように書かれています。

「遺品―。
それは、高価なものでも珍しいものでもないけれど、
かけがえのない大切なもの。
流れていた時間は止まってしまっても、
あなたが遺してくれたものの思い出は、
ずっとずっと生き続けています」

 本書は、春夏秋冬の4つの章に分かれています。それぞれ次のような遺品にまつわるエピソードが紹介されています。

春―「餃子」「洗濯物」「吸殻」「マダムの腕時計」
夏―「納経帳」「金魚」「弁当箱」「パジャマ」「最北端からの手紙」
秋―「秋桜(コスモス)」「ランドセルの中のカード」「封筒」「口紅」「最後の写真」
冬―「エンゲージリング」「ベニヤ板の落書き」「アラーム」「観音像」

 この中には、いわゆる遺品の既成概念を超えたものもあります。でも、「四季」というコンセプトで分類している点が印象的でした。

 そして、わたしは「四季」という言葉から、かの吉田松陰の言葉を思い出しました。明治維新を呼び起こした1人とされる吉田松陰は、29歳の若さで刑死しました。松陰は、その遺書ともいえる『留魂録』に次のように書き残しました。

 「今日、死を決心して、安心できるのは四季の循環において得るところがあるからである。春に種をまき、夏は苗を植え、秋に刈り、冬にはそれを蔵にしまって、収穫を祝う。このように一年には四季がある」

 そして、松陰は人間の寿命について次のように述べました。

 「人の寿命に定まりはないが、十歳で死ぬ者には十歳の中に四季がある。二十歳には二十歳の四季がある。三十歳には三十歳の四季がある。五十歳、百歳には五十歳、百歳の四季がある。私は三十歳で死ぬことになるが、四季は既に備わり、実をつけた。その実が立派なものかどうか私にはわからないが、同志の諸君が私の志を憐れみ受け継いでくれたなら、種は絶えることなく年々実を結んでいくであろう」

 松陰の死後、その弟子たちは結束して、彼の志を果たしました。松陰の四季が生み出した実は結ばれ、種は絶えなかったのです。

 本書に登場するエピソードは、すべて交通事故によって突然、愛する者を失うという実話です。多くの犠牲者は若くして亡くなっています。中には、4歳のお子さんもいます。遺族にとってはやりきれない想いでいっぱいのことでしょう。それでも、いくら短い生涯であっても、その人なりの四季があったのだという松陰の言葉を思い出してしまいました。

 本書の冬の章には、「観音像」というエピソードが収録されています。島根県にある仁照寺の境内に佇むその美しい観音像は、20歳という若さで亡くなった江角真理子さんを偲び、交通安全を祈って建立されたそうです。真理子さんの父である江角弘道さんは、この寺の住職を務めておられます。また一方で、物理学者として研究活動を続けてこられたそうです。

 本書の「あとがき」で、その江角弘道さんの言葉が紹介されています。弘道さんの著書『いのちの発見 ~宗教と科学の間で~』の中の一節で、以下のような内容です。

 『亡き娘のことを考えると、次のような事実に行き当たりました。
 私が結婚する前には、娘はこの世の中のどこにもにいなかった。そして、昭和54年に生まれてきて、私たちと20年間一緒に暮らし、そして死んでいきました。だから、今はこの世の中のどこにもいないということです。
 これは、昼の星のように、最初に娘のいのちが見えなかった。そして、夜の星のように、生まれてきて見えるようになった。また昼が来て星が見えなくなった。つまり、いのちが無(仏教では空という)から出てきて、実在(仏教では色という)となり、実在(色)から無(空)へと帰っていったことにもなります。
 般若心経には有名な語句「色即是空、空即是色」があります。並べ替えて「空即是色 色即是空」とすれば、空から色、色から空と展開しているように感じられます。本当はもっと深い意味があると思います。つまり、亡くなった娘は、空から来てまた空に帰っていったとなります。だから私たちは、空から来て色になり、そしてまた空に帰る存在ではないでしょうか。空に帰る、つまりその帰るところは生まれ故郷であるわけです。だから、現在のわたしたちのいのちは、「見えるいのち」つまり「色」という状態から、やがて「空」に帰って「見えないいのち」となっていく、つまり、いのちには「見えるいのち」と「見えないいのち」があるのではないでしょうか。このように思うようになりました。(中略)
 「見えるいのち」というのは、私たちのこの肉眼で見るわけですね。ところが、「見えないいのち」は、心眼(こころの目)で観てゆく世界であるわけです。』

 本書の著者である柳原氏は、この弘道さんの文章を拝読したとき、自分がこの本で伝えたかったことが、初めて具体的に見えてきたような気がしたそうです。

 遺品とは、まさに「見えるいのち」と「見えないいのち」とをつなぐ物だったのです。そして、それは単なる「物」を超越した、愛する人を亡くした人にとっての「宝物」でした。著者は、「あとがき」の冒頭に次のように書いています。

 「この本をまとめながら、たくさんの『宝物』に出会いました。
 宝物、と言っても、それは高価な金品やきらびやかな装飾品ではありません。
 かけがえのない家族や恋人との、なにげない会話や、さりげない笑顔・・・・・。
 ともすれば、記憶の片隅にも残らない、ごくあたりまえの日常の、小さな心のふれあいです。本当はそんな宝物が、ゆるやかなときの流れの中で、雫のように心を満たしていってくれるはずなのに、それが叶わなかった人たちが、いったいどれほどいっらしゃることでしょう」

 そう、この世には、それが叶わなかった人たちがいるのです。著者が本書をまとめているとき、奇しくも東日本大震災が起こりました。著者は、「あとがき」で次のように述べています。

 「たくさんの方が、あの日を境に、かけがえのない大切な人を奪われました。
 山のように詰み上がった泥だらけの瓦礫の中から、小さな思い出の品を必死で探そうとする人たちの姿・・・・・。
 『瓦礫は、瓦礫ではなく、思い出とも言う』  
 朝日新聞の『天声人語』欄には、そう記されていました。
 一人でも多くの方が、どうか一日も早く、『見えないいのち』と心の眼で対話ができる日が来ることをお祈りするばかりです」

 『生き残ったあなたへ』には、「遺品がないあなたへ」という章があると述べましたね。残された人の中には、遺体はもちろん、遺骨や遺灰さえ手元にないという場合もあります。さらには、遺品さえないということもあるでしょう。

 今回の津波の被害に遭った方の中には、家そのものを流されてしまった方もいます。その中には、故人の思い出の品々がすべて一緒に流されてしまったという気の毒なケースもありました。つまり、故人の遺品が何もないわけです。

 残された人は、遺品によって、ありし日の愛する人の面影をしのび、その冥福を祈ります。それが記念の品が何もないということであれば、仏壇のところでも書いたように、残された人の記憶の中の故人の姿を似顔絵に描いたり、あの世の故人宛に手紙を書くのもよいでしょう。また、故人が愛用していた洋服やアクセサリーと同じものを購入して身近に置いておくのもよいと思います。

 死者に心を通わせることは、記憶とイメージの問題であり、その品が実際に故人の遺品でなくとも、故人を思い出すよすがになればいいのです。

 最後に、非常に心に残ったエピソードをご紹介したいと思います。

 やはり冬の章に、「アラーム」というエピソードが収録されています。交通事故で亡くなった息子さんの携帯アラームを今でも鳴らし続けているというお母さんの物語です。泥酔状態でも飲酒運転の犠牲になり、息子さんの原付バイクは壊滅状態になりました。でも、それだけ強い衝撃を受けたにもかかわらず、携帯電話だけは奇跡的に無傷で、毎朝6時55分になると鳴るのだそうです。

 その携帯アラームに設定されていたバラード調の曲は、エリック・クラプトンの「ティアーズ・イン・へヴン(天国の涙)」でした。事故で息子さんを亡くしてから、ずいぶんあとで、そのことを知ったお母さんは次のように言います。

 「この曲が生まれたきっかけを聞いたときには、思わず言葉を失いました。エリック・クラプトンは1991年に、溺愛していた4歳の息子さんを亡くしていたんですね。高層アパートの53階からの転落事故だったそうです。突然の事故で息子を失った彼は、嘆き悲しみ、ひきこもる生活が続いていたそうですが、そんなとき、亡き息子を思いながら書いたのが、このバラードだったというのです」

 わが息子が、なぜ多くの曲の中から「ティアーズ・イン・へヴン」を選んでアラームにセットしたのか、今となっては永遠の謎です。しかし、毎朝6時55分になると流れてくる音色が、お母さんの心の支えになっているそうです。亡き息子がセットしたアラームを聞くと、「今日も頑張ろう」と思えるというのです。

 本書は、「死」と「思い出」と「供養」にまつわるエピソード集です。その内容は、『最期のセレモニー』(PHP研究所)にも通じます。でも、文体などは『むすびびと~こころの仕事』(三五館)をイメージしました。

 わたしは、飛行機の中で本書を読んで泣きました。そして、やさしい気持ちになれました。すべての「愛する人を亡くした人」へおすすめしたいと思います。

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