No.0478 歴史・文明・文化 『江戸の遺伝子』 德川恒孝著(PHP)

2011.10.28

『江戸の遺伝子』德川恒孝著(PHP)を読みました。

著者は、かの家康公につながる德川宗家18代当主であり、(公財)德川記念財団理事長、(公財)世界自然保護基金ジャパン会長でもあります。

本書の帯には「世にも不思議な江戸時代」という大書されています。そして、それに続いて「なぜ二五0年も平和が続いたのか。德川宗家第十八代当主が語る江戸の真の姿とは!」というコピーが記されています。

「平成23年度 全国商工会議所 観光振興大会 in 関門」の開催が来月に迫ってきました。わたしはパネルディスカッションに出演する予定ですが、それに先立って基調講演が行われます。テーマは「共生・エコ社会の日本を考える」ですが、その講師が本書の著者なのです。わたしはパネリストとしての発言の中に、ぜひ著者の基調講演のメッセージを参考にさせていただきたいと考えています。それで、本書を読んだのです。

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「序にかえて」
第一章:江戸時代とは何だったのか
第二章:江戸時代を生んだもの
第三章:家康公の時代
第四章:最初の百年でつくられた江戸時代のかたち
第五章:華やぐ江戸の文化
第六章:日本の宗教と心
第七章:世界の中の日本と江戸の遺伝子
「あとがき」

「序にかえて」の中で、著者が日本郵船のニューヨーク支店に勤務していた頃のエピソードが紹介されています。「他に誰も出席できないのでジャパン・ソサエティの会合に出席せよ」という上司の命令を受けた著者は、レセプションである米国人紳士と会ったそうです。彼は著者の胸につけられた「トクガワ」という名札を見て大変驚き、さらに著者が德川宗家18代当主であることを知ると、次のように述べたそうです。

「私は世界の歴史の中で、德川家康公はもっとも素晴らしい指導者だったと確信し、尊敬している。そして現在の日本人が彼を正しく評価せず、狸親父などと呼んで、日本が西欧に遅れたのは彼のせいである、とまるで罪人のように評価していることに激しい憤りを感じている。世界の何処の国でも、家康公のような指導者が出て、3世紀に近い平和を維持してその国の基本の文化を創ったならば、『国父』と呼んで町々に銅像を立てる。日本がそうしないのは、まったく不可解である。若い貴方はその家康公の子孫として、德川家を継いでいることにぜひ高い誇りをもって欲しい。そしてこの偉大な人物に対する誤った評価を正すように努力して欲しい」

その紳士はアメリカ人だからこそ、リーダーとしての德川家康を客観的に評価し、リスペクトすることができたのかもしれません。本書で、著書が読者に問いかけるのは「歴史」というものの正体です。第一章「江戸時代とは何だったのか」の冒頭で、著者は次のように述べています。

「歴史というものはまったく不思議なもので、その対象となる時代そのものではなくて、その時代を歴史として見る後代の人たちの考えによって造られ、語られるものです。無論、対象となる歴史上の時代についての研究を重ねた上でのことですが、あまり当たり前で普通のことは記録に残らないものですし、最初から固定観念があるとそれに合ったことだけが目に入ってきますから、結果としては本当のことからは離れてしまいます。
つまり現在我々が生きているこの社会を、300年後の歴史学者が何と名付けて、どう評価するのかはまったくわからないわけで、『後期東京時代は自然環境が悪化し、人口の減少とともに社会が乱れ、子は親を殺し、親は子を殺す悲惨な時代であった』と書かれるのか、『東京時代は平和を維持し、未だ潤沢であった化石燃料を大量に消費することによって繁栄し、日本史上もっとも華やかな時代であった』となるのかは、すべて後代の人たちの見方と考え方に委ねられています。しかし一方では、どういう時代を後世の人たちに残し伝えるのかは、今日の我々の責任でもあるという不思議なものです」

江戸時代は、「封建的」であったと言われています。「封建的」という言葉はとにかく悪いことの代名詞で最大級の否定語のようでもありますが、著者は次のように述べています。

「封建制という言葉が中国古代の地方分権制を指すものであって(これに対応する中央集権制は郡県制と言います)言葉自体としてはまったく悪い意味ではないこと、それを中世ヨーロッパの貴族制を指す『フューダリズム』の訳語として使ったこと、そしてさらにマルクス史観からいえば、このフューダリズムの時代は人民が抑圧され搾取された最悪の暗黒時代と規定されたことから色々な混乱が起こった言葉だということを知ったのは、ずっと後になってからのことでした」

そして、著者は江戸時代の本質について、次のように述べます。

「江戸時代は日本に事実上初めて登場した強力な全国政権のもとで265年にわたる平和を維持して、他のアジア諸国の専制政治とはまったく異なった性格の時代でした。そして、その中から現代に繋がる組織のあり方や理念、洗練した経済社会を発展させた大変にユニークな時代でした。そのために西欧の歴史学者はこの時代を『トクガワ・ジャパン』、また、より広い意味では「パクス・トクガワーナ」(徳川の平和)とも呼んでいます」

ある外国人の国際政治学者は、次のように述べています。

「徳川幕府というのは政権の初期と末期に2つの見事な政治的判断をした極めて稀な政権である。この政府は当時の世界情勢の中でベストのタイミングで鎖国し、二百数十年たってギリギリのタイミングを外さずに、巧みな外交交渉で開国に踏み切った政府で、この国際情勢に対する判断はまさに絶妙なものだった」

さらに彼は、「ふつう政権はその創生期には大体において正しい判断をするが、終焉期にはあまりにも誤った判断をすることが多い中で、しかも限られた情報しかない鎖国体制の中で下した開国の判断は見事なものだ」と評価したそうです。

わたしたちは、もっと日本の歴史を知らなくてはなりません。自国の歴史も知らず、国際人を気取っても、誰も相手にしてくれません。そして、「歴史」を知ることは「誇り」と「自信」を持つことにつながります。著者は、次のように述べています。

「私たちが色々な国の歴史を肌で知るのは、その国の人たちが誇りと自信をもって自分の国の歴史を語り、自分たちの伝統を大事に守ろうとするのを実感するからですが、日本は明治以降まったくそれをやってこなかった国でした。それも無理のない話で、日本人自身が明治以前の日本を何か恥ずかしいものと感じるように教育されてきたのですから、仕方のないことです。
しかし、そろそろ私たちは色々なことを西欧文明の目を通して見るだけでなく、自分たちの目でしっかりと見る必要のある時代になっていると思います。特に最近は西欧諸国の『品格』に相当の問題が出てきていると感じますから、なおさらのことです」

第二章の「江戸時代を生んだもの」では、江戸時代のルーツは戦国時代にあったとしています。江戸時代を開いた德川家康とは、何よりも戦国大名の1人だったのです。そして、戦国大名というリーダーたちは、自ら生き抜くためにも、自らの出処進退を明らかにして、部下の武士たちと領民全体の厚い信頼を得ることが重要でした。

そのためには、強い武力を持つことが第一でしたが、それとともに峻烈さ、公平な人事、また弱いものに対して深い情けをあわせ持つリーダーであることが求められました。著者によれば、これは戦国以前のリーダーたちが子孫に残した遺訓とは、だいぶ異なっているそうです。

戦国以前には、「神仏を恐れ敬うこと」「礼儀作法に必ず間違いのないこと」「先例をよく知り、調べること」「上位のものには敬意をはらうこと」「付き合う相手をよく吟味すること」などの遺訓が多かったようです。これについて、著者は次のように述べています。

「全人格的リーダーを作るというよりは、むしろ如何にして安定した権威構造のある社会の中で身を生き抜くか、というニュアンスの方が強く表れているように感じます。これはこれで大変重要な処世の道ではありますが、戦国期の遺訓は、指導者の理念としてはもう一段上のもので、指導者の自己責任を強く感じます」

第三章の「家康公の時代」では、江戸時代において德川家康は「神君」として、多くの人々から尊敬されていたことが紹介されます。著者は、次のように述べています。

「テレビもラジオもない江戸時代に、子供たちは自分の家の先祖の話を繰り返し、繰り返し聞きながら育ちました。まして武士の子供たちは『神君』、その『神君』と自分の主君である大名や先祖たちの関係、自分の先祖の武勇や歴代の業績についての話を、いやというほど聞かされたはずです。こういう教育と、その結果身についた先祖との深いきずなの感覚は『家』という概念がなくなってしまった現代には急速に失われつつありますが、日本の歴史と文化を考えるとき、この『先祖―自分―子孫』という、自分の属する『家』の流れや、そこにある名誉や伝統、その流れの中での個人の責任というものが常に強烈に意識されてきたことをよく理解しておくことが必要と思います」

第四章の「最初の百年でつくられた江戸時代のかたち」では、熱狂的な「お伊勢参りブーム」について触れられています。江戸時代には4回にわたって、爆発的な「お伊勢参り」の流行がありました。不思議なことに、だいたい60年ごとに突発的に起こっています。なぜ、お伊勢参りが突如として熱狂的に江戸人たちを揺り動かし、途方もない旅行ブームが出現したのかよくわかっていません。

ブーム以外の時でも、お伊勢参りは誰もが一生に一度はやりたいものでした。また、お伊勢参り以外にも、善光寺参り、江戸の近くでは成田山、江ノ島の弁天様、大山詣、富士宮などの参拝行事が非常に盛んでした。森の石松が代参した金毘羅様も有名ですね。

第五章の「華やぐ江戸の文化」では、社会全体が子どもたちを育てていた様子が描かれています。江戸時代には、寺子屋がたくさんありました。その規模ですが、時代と地域により千差万別でした。農村では40~50人、都会では50人~100人くらいが目安だったようです。著者は、寺子屋について次のように説明しています。

「授業料として師匠が額を決めて請求するものはありませんでした。子弟の親たちは入門にあたって『束脩』としてお礼を差し上げ、あとは謝義として節目節目にお礼を差し上げています。貧しい親は小額、豊かな親は沢山のお礼をしました。農村では米を出す風習もありました(月に1升が目安でした)。また親たちはそれぞれの家業によって、食べ物を持ってきたり、畳の修理をしたり、家屋の手入れをしたりして感謝の意を表しています。教育は金で買うものでありませんでした。それは一種の神聖な行ないと見られていたのです」

続いて、著者は日本における教育の在り方について、次のように述べています。

「日本で最初に授業料を定めたのは福沢諭吉の開設した慶応義塾です。福沢は、学問はそれを授けられる個人の財になるものであるから、対価としての授業料金を、受益者負担の原則によって支払うのは当然と考えたのです。
しかし、ある意味ではこの時から教育という行為のもっていた『神聖さ』が少しずつ失われ始めたとも言えましょう。さらに戦後になって、マルクス主義が蔓延する時代のなかで、教育者が自らを労働者と規定して組合を組織したところから、教育というものがさらにその神聖さを失って異質なものになっていったと思われます」

まったく同感です。現在の1万円札には福澤諭吉の姿が印刷されていますが、福澤自身がお金に思想を持っていた人だったのですね。

また、第五章の最後にある著者の次の発言は、非常に重要です。

「靖国問題も消費税も大事な話ではありますが、世界的な気象異常のリスク、長期的にみた日本のエネルギー問題や食料問題についての真剣な話が、日本にはまったく欠けていることはとても奇妙なことです。日本の産業は『省エネ』技術が進んでいる『優等生』『良い子』だからそれで良いのだということと、いざ世界中に食料や石油がなくなったら日本はどうするか、という問題はまったく次元が違うことです。クラスの中で、自分より成績が下と思われる人数を数えて安心する気持ちはまったくもってよくわかりますが、このケースには当てはまらないのです。かつて日本人はもう少し長い尺度で物事を見てきたと思います」

そして、第六章の「日本の宗教と心」で、著者は次のように述べます。

「いまでも子供たちがいたずらをしたり、ものを壊したり、生き物をいじめたりすると「仏様の(神様の)バチが当たるよ」と言って叱ることがあると思いますが、日本人の心の根底に、神様、仏様、そして亡くなった肉親など家族の御先祖様が、何時も身近で見ているという感覚があります。これも西欧人とはまったく違う感じ方です。一神教では亡くなった方ははるか彼方の天国へ行ってしまいますから、もう残った者とはあまり関係はありません。そのため命日に供養するということもありません」

「供養」は、日本人だけが理解できる感覚なのです。日本人の心には神道と仏教が根づいていますが、もう1つ社会道徳に大きな影響を与えた儒教の存在を忘れることはできません。著者は、儒教について次のように述べています。

「私は、儒教は『指導理念』『道徳理念』という風に理解していますが、違っているのかもしれません。大変面白いと思いますのは、孔子の教え(論語・中庸・大学など)がイエズス会の宣教師によってラテン語に翻訳されて、18世紀の西欧、特にフランスに大きな影響を与えたことです。ヴォルテールは、『儒教は実に素晴らしい。儒教には迷信もないし、馬鹿げた伝説もない。理性や自然を愚弄し、明確さを隠すドグマもない』と述べ、フランソワ・ケネー(重農学者)は孔子教(儒教)の政治理念は、すべての国の規範として採られる価値がある、と述べています。彼らはフランス革命に大きな影響を与えた人たちですが、彼らのなかに儒教を通じて中国の易姓革命思想(君主の統治が悪ければ、天がこれを見放し、天の支持を受けた新しい王朝が立つという思想)が伝わり、これがフランス革命の基本にあったと考える歴史学者も多いようです(フランス革命は浅間山の噴火と儒教によって起こった、と言うとフランス革命好きの方々に叱られそうですが)」

わたしは、『知ってビックリ! 日本三大宗教のご利益~神道&仏教&儒教』(だいわ文庫)をはじめとして、多くの著書で、「日本人の心は神道・仏教・儒教の三本柱から成り立っている」と繰り返し述べてきました。ですので、著者の儒教に対する好意的な見方を知って嬉しくなりました。そして、何よりも『論語』を愛読した日本人の代表が德川家康であったことを思い出しました。

著者によれば、自然というものに対する考え方が、西欧人と我々日本人とでは根本的に違うところがある、もしくは少なくとも歴史的にはあったと思わざるをえません。すなわち、自然を「征服」するのか、自然と「共生」するのか、ということです。著者は、次のように述べています。

「日本は現時点では非西欧型文明の『共生文明』の長い歴史と文化をもつ唯一の先進国です。また世界で最も豊かな生活水準を持っている数少ない国家の1つです。ですから本当ならば世界に貴重なアドバイスと手本を示すことの出来る唯一の国という立場にあるはずなのですが、『国家の大計』としてそのことを真剣に取り上げようとしているとはどうしても思えません。多くの民間の方々が森と自然の再生・CO2の削減に熱心に取り組んでおられますが、それだけではまだまだ不充分です。教育や税制を含めて国家としての本気の取り組みが必要な時期に来ていると思います」

第七章の「世界の中の日本と江戸の遺伝子」で、著者は次のように述べています。

「現在の日本は、長い時間をかけて出来上がった日本文明の遺産を急速に食い潰しながら進んでいます。しかしその文明を支えてきた基盤である『遺伝子』はそんなに簡単に失われるものではないと思います。素直に『日本らしさ』を表にだして自信をもって日本型の組織による経済社会、自然と共生してゆく社会を作ってゆくことが、日本が世界に貢献する道だろうと考えています。そして早くそれをしないと間に合わないのではないか、と心配しています」

わたしたち日本人には、「江戸の遺伝子」が生きています。エコロジーとボランティアの社会に生きた人々の遺伝子が生きています。寺子屋で『論語』を学び、「人の道」を重んじ、供養を大切にした人々の遺伝子が生きています。そして、お伊勢参りをはじめとして、観光という営みを大いに愛した人々の遺伝子が生きています。来月のイベントで、著者にお会いできるのが今から楽しみです。

最後に、いま、TPPの問題が激しい議論になっています。わたしは、どうしても鎖国のことを連想してしまいます。「江戸の遺伝子」を持つ日本人は、TPPにどう取り組むべきか。よく考えてみる必要があるのではないでしょうか。

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