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「東北」再生』

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No.0441

 

 『「東北」再生』赤坂憲雄・小熊英二・山内明美著(イースト・プレス)を読みました。

 

 本書は、東日本大震災から51日目となる2011年5月1日に行われた公開鼎談の記録です。著者の赤坂氏は民俗学者で、学習院大学教授。小熊氏は社会学者で慶応義塾大学教授、そして南三陸町の出身である山内氏は一橋大学大学院の博士課程に在学中です。


 本書は、以下のような構成になっています。


 「まえがきのように」(赤坂憲雄)
1  鼎談 (赤坂憲雄+小熊英二+山内明美)
   第一部:幻想のラインを撤廃せよ
   第二部:分断された日本と再生への道すじ
   第三部:どんな「生のあり方」が可能なのか
2  論考
   「最後の場所からの思想」(山内明美)
   「近代日本を超える構想力」(小熊英二)


 「まえがきのように」で、赤坂氏は次のように書いています。


 「震災から1か月後に、わたしは東日本大震災復興構想会議のメンバーに任命された。まったく青天の霹靂だった。だれが、いかなる理由で、わたしを選んだのか、それすらいまだに知らない。わたしはこの会議のなかで、一度だけ、30分の時間を独占して提案を行なう機会をあたえられた。4月30日、そのときに提出した発表レジュメ『鎮魂と再生のために――2011・4・30復興構想会議発表メモ』は、内閣官房のホームページ上で公開されている。それはわたしが会議の場に提出した唯一の公式文書でもある。わたしはそこに、構想会議の委員として語るべきことをすべて語っている。具体的な提案はふたつ、『福島県を自然エネルギー特区にすること』および『災害アーカイヴセンターを創ること』であった」


 正直言って、この2つの提案、特に後者は「いかにも学者の発想だな」と感じました。いま実行すべきことがアーカイヴセンターの創設というのは違和感があります。
 また、赤坂氏は民俗学者なのですから、日本民俗学がこれまで培ってきた「知」を示すような提案を行って欲しかったです。本書の中でも「東北の民俗知」という言葉が出てきたので、興味を抱きましたが、言葉だけで具体的には説明されていませんでした。


 山形の大学で教鞭を取っていた赤坂氏は近年、「東北学」なるものを提唱し、さまざまな形で東北についてアジテーションをしてきました。2011年、山形の大学を退き、東京に戻ってきました。東日本大震災の後、赤坂氏は次のように思ったそうです。

 

 「最初に僕のなかに浮かんだのは『なんだ、東北って植民地だったのか、まだ植民地だったんだ』ということです。かつて東北は、東京にコメと兵隊と女郎をさしだしてきました。そしていまは、東京に食料と部品と電力を貢物としてさしだし、迷惑施設を補助金とひきかえに引き受けている。そういう土地だったのだと」


 若い世代はそういう感性や感受性を持ちませんでした。みんな、「こんなに東北は豊かになったんだ」と感じていました。しかし赤坂氏は、福島の原発事故が起きて、見せかけの豊かさの陰に「植民地としての東北」という構造が隠されていたことが明らかになったというのです。そして、「やっぱり迷惑施設を公共事業とひきかえにひき受けている、沖縄と一緒だったのだな」と確認したそうです。


 一方、小熊英二氏は大震災後の雑誌のいわゆる論壇に載った知識人たちの文章に違和感を抱いたとして、次のように述べています。


 「そこでは、『日本の危機』『第2の敗戦』『日本の転換点になる』ということを述べているものが多かった。しかし、被災地からそういうことをいう人はほとんどいない。現場や自分の事情を話すことで精いっぱいだからです。『日本の転換点』『第2の敗戦』といったことを書いていたのは、ほとんど東京より西の人たちでした」


 仮設住宅などのプランについても、「仮設住宅を高台につくるという話でしたが、そんなところに仮設住宅をつくったり、街をつくったとしても、仕事に行く場所がないのにどうするのでしょうか。半年か1年たったら、みんな出て行ってしまうだろうなと思わざるを得ません」と述べています。


 赤坂氏も小熊氏も現代日本を代表する高名な学者ですが、3人の著者のうち、最もわたしの心に響く発言は、現役の大学院生である山内氏の発言でした。たとえば、山内氏は赤坂氏が触れた「爆心地の政治学」の問題について、次のように述べています。


 「原子力爆弾が投下された広島・長崎と、原発事故の福島を並列で語るということには、注意が必要なのですけれども、同心円図の固定化については、すでに問題が指摘されています。放射性物質による被ばくは中心からの距離ではなく、風向きに影響されます。ところが、赤坂さんが触れてくださった『爆心地の政治学』ということについてですが、広島・長崎の被爆者のうち政府から認定されて援護法や医療保障の対象になるのは、爆心地から一定以内の距離にいた人にかぎられています。症状が出ても、一定以上の距離にいた人は認定されない」


 南三陸町の出身である山内氏は、東北の未来について次のように述べています。

 

 「私個人としては、東北がどんなに低開発と呼ばれようとも、一次産業で立っていける場所にしたいのです。今回被災した地域は、『ケガチ』と呼ばれる飢饉の頻発地帯です。そこに暮らす人は『ケガヅ』と言いますが、いずれにしても、文字どおり『ケ』、つまり日常の、ことに食料が欠けがちな場所なのです。地震も津波も冷害もある。陸で生きるのも浜で生きるのも過酷な場所です。過去の歴史のなかでどれほど津波が起きてきたのか、私たちはあらためて知りましたが、それでも、漁師が漁をやめたことはありませんでした。過酷な自然に対峙しながら、ここまで続いてきたのです。いま、私たちは、この深刻な汚染を発端として、将来へ向けてどんな『生のあり方』が可能なのか、未来への責任とともに考える時期にあるのだと思います」

 

 これは、東北出身者としての魂の叫びであると思いました。


 さて、冒頭で赤坂氏は「植民地としての東北」というテーマを示しました。小熊氏は「近代日本を超える構想力」で、「東北が『米どころ』の地位を確立したのは戦後だという歴史は、意外と知られていない。熱帯原産の商品作物であるコメは、東北では冷害に悩まされ、大正期まで収量が低かった。それが変わった背景は、品種改良をはじめとした農業技術の進歩もあるが、東京市場の膨張、戦中と敗戦後の食糧増産政策、戦前のコメ供給地だった朝鮮と台湾の分離などである。こうして東北は、コメ・野菜・水産物などの東京への供給地となった」と述べています。


 コメ・野菜・水産物だけではなく、東北は労働力、そして電力というエネルギーまでも東京に供給する場所となりました。高度成長期の負の遺産について語る中で、小熊氏は次のように述べています。


 「沖縄に基地が集まった構造と、福島や福井に原発が集まった構造はよく似ています。迷惑施設を交付金とともに、他に産業のない土地に引きうけてもらうという形ですね。どちらも1960年代から70年代初頭に、つまり高度成長期に現代の日本の基本型ができたときにできあがった構造です。


 東北が食料と労働力と電力の供給地としての地位を固定化された構造も、同じ時期にできたものです。それにたいして公共事業を呼び込んでなんとかしようという発想も、原発を呼び込んで補助金と雇用をつくろうという発想と同じく、その時期の遺産です。今回打撃を受けて、限界をさらけだしているのは、まさにこの構造そのものです。もう古くなって、限界にきていた構造の弱い部分が、打撃を受けてしまったわけで、それを立て直すには発想の転換をしないとどうにもならない」


 小熊氏から、80年代の産業開発から観光リゾート開発への転換の話が出ました。その観光開発の先駆けともいえる「リゾート」が、1960年代に誕生しました。いわき市の「常磐ハワイアンセンター」(現在の「スパリゾートハワイアンズ」)です。映画にもなったこの名所について、山内氏は述べます。


 「石炭から石油へエネルギー転換する時期に、常磐炭坑の町では、町の危機を乗り越えるために地元にテーマパークとしての『ハワイ』を作ったのです。その様子は2006年に映画『フラガール』として公開されました。松雪泰子さんが主役を演じましたが、映画監督は李相日さんという在日三世です。常磐炭坑には多くの『在日』も働いていました。李監督は、炭坑の町の民衆の姿を映画のなかに緻密に描いたと思います」


 「最後の場所からの思想」と題された論考で、山内氏は次のように述べます。


 「非核三原則を唱えてきた日本列島は、一方で原子力発電所の集積地でもあった。いま、世界における原子力市場を、ほぼ独占しているのが日本企業である。この矛盾を『倒錯』と言わずに、何と言えばいいのだろう」


 これを読んだとき、わたしは「脱原発」を訴えながら、その裏で諸外国への「原発輸出」を促進していた二枚舌の人物の顔を思い浮かべてしまいました。


 「死の町」発言といい、かの政党の人々は日本を滅亡させたいのでしょうか?


 ドジョウ内閣も、いきなり出だしからつまずいてしまいました。