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慈悲の怒り』

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No.0444

 

 『慈悲の怒り』上田紀行著(朝日新聞出版)を読みました。

 

 「震災後を生きる心のマネジメント」というサブタイトル通りの内容でした。


 著者は、この読書館でも紹介した『生きる意味』の著者であり文化人類学者です。ここ数年は、日本仏教の再生にも尽力しています。


 本書の帯の中央には「緊急出版!」と銘打たれ、その右には「モヤモヤ気分を解消して復興への一歩を踏み出すために」、左には「1歳児の双子と6歳の小学生の娘を持ち母を在宅看護する文化人類学者が提唱する、3・11後の私たちが今、やっておくべきこと」と書かれています。


 本書の目次は、以下のような構成になっています。


「はじめに」
1章:創造のきっかけを作る
2章:天災と人災をはっきり分ける
3章:「空気」に自分を沿わせない
4章:生きる意味を見直す
5章:慈悲からの怒りを持つ
「あとがき」


 「はじめに」で、著者は震災前の日本と震災後の日本はまったく別世界になったように感じられるとして、次のように述べています。


 「いま何よりも優先されるべきは、筆舌に尽くしがたい苦しみの中にある被災者の方々の救済であることは間違いありません。肉親を失い、友人を失い、家も財産も、そして職も失う・・・・・・。それはどれだけの苦しみでしょうか。その困窮の中にある仲間を、同じ国に生きる者として何としても助け、ケアしていくのは当然のことでしょう」


 そして著者は、「その復興には、被災をしなかった人たちがとても大きな役割を担うことになります」とも述べています。


 東日本大震災の後、東京に住む著者は心理的なダメージを受け、1カ月半もの間、仲間や学生との飲み会にも参加せず、心の底から笑ったこともなかったといいます。これには特殊事情も若干あったようで、著者は次のように述べています。


 「ゼロ歳の乳児2人と6歳の保育園児を抱えた私は、原発からの放射性物質によって東京の水道水が乳児にとって危険になる寸前に、家族を四国の実家に疎開させました。そして、動かすことができない重病で在宅看護中の母と2人で東京に残留したのです。その中で、新聞や雑誌への寄稿のために、来る日も来る日も震災関係のニュースと資料と向かい合う日々でした。その生活は精神衛生上あまりよろしくないことは明らかで、とても心の底から笑ったりできるようなものではなかったことは確かです」


 震災が不条理なものであるがゆえに、震災を経験した者は「なぜ、こんなことが起こったのか」「自分たちは何か悪いことをしたのか」「死んでしまった人たちに何か罪があったというのか」「これは何かの因果応報なのか」などなど、そんなことはないことは分かってはいても、どうしてもそう考えてしまう人がいるだろうと著者は言います。


 どうにも整理がつかないほどに感情が同時多発的に生起してしまうというのです。このように感情が混乱した状態について、著者は次のように述べます。


 「自分が引き裂かれてしまうような状態、それは私たちが大きな自我の不安を抱えている状態であると言えます。自分の思いをどのように表現していいのか分からない。自分の中でいくつもの感情の葛藤があり、それに向かい合おうとすればするほど、その闘いに疲れ果ててしまう」


 各人がそんな不安の中にあるとき、不安を払拭するようなスローガンが社会に登場し、広まっていきます。それは「がんばろう」とか「日本は強い国」とか「みんな一つになろう」といった、とてつもなく分かりやすく、誰もが乗りやすい言葉です。そういった言葉に強い違和感を感じるという著者は、次のように述べています。


 「そのメッセージ自体は美しいものかもしれません。間違っていないかもしれない。しかしこのタイミングでそうしたメッセージが連呼されるとき、それは私たちの自我の不安の軽減装置として、そこに逃げ込むべきものとして消費されてしまいます。葛藤を解消し、誰をも判断停止状態に追い込み、その言葉を連呼していれば安心できるような、非常に安易な解決法を私たちに提示することになるのです」


 さて、本書のサブタイトルにもなっている「心のマネジメント」とは何か。わたしたちは、どのような心構えで震災後の日本を生きていけばいいのでしょうか。著者は、「心のマネジメント」として明確にしておくべきポイントをあげます。それは、「共感するべき対象」と「怒るべき対象」をきちんと分けるということです。対象を整理しないことには、怒りの表出もできず、心からの共感もできないからだとして、著者は次のように述べます。


 「怒るべき対象は、地震や津波による外部電源、非常用電源の喪失という危険性が指摘されてきたにもかかわらず、見て見ないふりをしてきた東電の体質、国の無責任、さらには原発を生み出した日本のエネルギー政策のシステムです。
 一方、共感すべき対象は、今挙げたように現場で被曝しながらも頑張っている人たちです。このように怒りと共感の対象をはっきりと分けなければいけません。そして、私たちのモヤモヤとした感情をきっちりと切り分け、明確化させることによって、私たちが今後とるべき行動は何なのかが冷静に判断できるようになるのです。
 今まさに現場で身を張っている人々には、心からの感謝と共感を惜しまず、しかしその状況をもたらした原因には大きな憤りを抱く。それはまったく両立可能なことなのです」


 また、著者は不安について、次のように強調しています。


 「こうした不安な状態においては、私たちはきちんと不安になったほうがいい、つまり不安を感じる能力がむしろ必要だということです。これは通常私たちが考えていることと反対です。今回の事故でも、テレビ等では繰り返し、『不安にならず、落ち着いて行動してください』と呼びかけていました。そこには『不安になると落ち着いて行動できなくなり、間違った行動を取ってしまう』という考え方があります。しかし、今回の場合求められていたのは、『不安なことはしっかりと不安と感じて、それをもとに落ち着いて行動を取る』ことだったのではないでしょうか」


 これは、まったく著者の意見に同感です。著者は、不安について、さらに述べます。


 「ちょっとしたことで解消できるような『小さな不安』は解消したほうがいいと思います。しかし社会状況の中に重大な隠蔽があったり、社会全体の舵取りがおかしいといった、不安を生じさせるのが当然な重大な事態の時は、きちんと不安になったほうがいい。しかしパニックに陥ることなく、その不安が何によるものなのか見極め、単に自分の不安感の解消を目的にするのではなく、もっと大きな『不安の原因』を解消するように合理的な行動を取るべきなのです。操作された情報を鵜呑みにして不安を解消しようとしたり、『がんばろう』といった判断停止の言葉に逃げ込んで不安を忘れたりといった逃避行動ではなく、冷静かつまっとうな行動が要求されているのです」


 そう、「不安は無くすべきものではなく、活かすべきもの」なのですね。大震災や原発事故の後、被災地はもちろん、被害のなかった地域でも食料品や日用品が買い占められました。著者は、そのときの様子を次のように語っています。


 「震災直後、スーパーでの買い占め、買いだめがずいぶん非難されました。私もスーパーに行ってみて、棚がガラガラなのに驚かされました。それでも大きなカートに山のように商品を積み上げて、レジに持っていくおばさまとかもいて、これはいった何日分の備蓄をするつもりなのだろうと、唖然とさせられました。そのスーパーの情景は、確かに悲しく寂しい光景でした」


 なぜ、このようなことが起きてしまったのか。この悲しく寂しい光景について、著者は次のように分析します。


 「この風景がとても寂しいのは、その行動には前提とされていることがあるからです。それは、『私が困っても誰も助けてくれないだろう』という前提です。もし、『私が困っても周りの人が自分を助けてくれる』という環境であれば、誰もあんなに買い占めには走らなかったのではないでしょうか。近所の人や知り合いが、持っているものを融通しあって助けあっていくような社会がかつての日本にはありました。けれど結局のところ、自分が買い込んでおかなければ、いざというとき誰も助けてくれない、生き延びられないという前提、つまり前から述べてきた『見えない支えのイメージの喪失』が、この震災の前からこの社会には存在していました」


 「私が困っても誰も助けてくれないだろう」という前提、そして「見えない支えのイメージの喪失」が買占めの背景にあったというのは鋭い指摘だと思います。著者は、さらに次のように述べています。


 「自分が困っても誰も助けてくれない。自分は使い捨てだ。いちど斜面を滑り落ちてしまえば、決してもう1回はい上がってくることはできない。そんな社会は私たちひとりひとりに大きな不安をもたらす社会です。その『不安社会』に震災の不安が襲いかかり、不安の悪循環が止まらなくなったといえるでしょう。つまり、元々の『不安社会』がなければ、あそこまでの買い占めの風景は見られなかったはずなのです」


 不安を抱えた人間が集まれば「不安社会」が生まれるのは当然といえば当然です。そして、「不安社会」は「自殺社会」「孤独死社会」「無縁社会」などとも呼ばれるのでしょうか。それを何と呼ぼうが、このままで良いはずがありません。


 大震災の後、日本人のマナーの良さが見直されました。また、被災地の避難所でも、忍耐強い人々の姿が感動を呼びました。しかし、著者には大きな違和感があるようで、次のように熱く述べています。


 「『忍耐』や『がんばろう』は最初から日本人は得意です。しかし『怒り』はもっとも不得意な分野でしょう。それも『正当な怒り』『生産的な怒り』がとても苦手なのです。ある状況の中で、誰かを悪と名指して怒りをぶつけることはできても、その悪を生みだした状況自身を変えていくことができない。水戸黄門的な勧善懲悪で溜飲を下げる文化に長年親しんできたせいか、それ以上には怒りが育っていかず、それが結局のところ、大きな構造の改善へとつながっていかないのです。そして同じ過ちが何回も繰り返されるという光景を我々は何度も見てきました。


 ですからここは、積極的に怒りを持つことを提唱したい。確固とした怒りを持つ。それも生産的な怒りを持つということが今まさに求められていることだと思うのです」


 ここで本書のタイトルにもなった「慈悲の怒り」というキーワードが登場します。ダライ・ラマ14世との対話から生まれたというその言葉は、人に向けた悪しき怒りではありません。それは、行為に向けた「慈悲の怒り」であり、不動明王の憤怒の相に出ているものです。仏教の教義では「怒りはよくないことだ」とされますが、ダライ・ラマは「行為に対する怒り」の必要性を説きます。


 著者は、「行為に対する怒り」をもう一歩進めて考えてみることを提案します。なぜその人がそんな行為をするに至ったのか、その原因の探求に向かっていくのが大事だとして、次のように述べています。


 「仏教の中心的な考え方は『縁起』です。日本語では、縁起のいい・悪いというふうに使われていますけれども、仏教用語ではこの縁起がいい・悪いという意味ではなく、縁起とはすべてのものはつながり合っているということを意味します。つまり、すべては因果関係の中にあったり、関係性の中にあるということです」


 宗教には、非論理的で、感情をかき立て、合理的判断を誤らせる一面がたしかにあります。しかし、仏教の「縁起」の考え方はきわめて論理的であり、人間に苦しみをもたらす世界の歪みに対して立ち向かっていく強い合理性を持っていると、著者は言います。


 そして、人にぶつけてしまうような「小さな怒り」ではなく、「大きな怒りを持て」というのがダライ・ラマのメッセージであるとして、著者は次のように述べるのです。


 「人間の中には善と悪の両面があります。そのどちらが出てくるかは、まさに縁起によって、つまり関係性によって決まるのです。どこに生まれるか、親の教育がどのようなものか、どんな友達と付き合ってきたか。そしてちょっとした出来事によって、その人の善の部分が引き出されてくる場合もあるし、悪の部分が引き出されてくる場合もあります。ですから、私たちが考えるべきは、この社会をいかに人間の善きところを引き出せるようなシステムにしていくかということです。そしてもし現実の世界が人間の悪の部分を引き出してくるようなシステムであれば、『大きな怒り』を持って、そのシステムを変えていくことなのです」


 最後に、本書で最も心に残ったのは、著者の次の言葉でした。


 「今回の未曾有の大災害によって2万3000人を超す死者と行方不明者が出ました。しかし一方、それを上回る3万人以上もの人が、この13年もの間、毎年自殺しているのです。あれだけの地震と津波で亡くなった人よりもさらに多くの人々が、1年間にこの日本のどこかで自分の命を絶っている。それを10年以上も止めることができない国に私たちは住んでいるという事実に愕然としないでしょうか」


 たとえ東日本大震災が起こらなくても、わたしたち日本人には「心のマネジメント」がもともと必要だったのかもしれません。本書を読み終えて、そう思いました。


 ちなみに、最近刊行された『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)には、「ハートフル・マネジメント」というサブタイトルがついています。この本もまた、「心のマネジメント」についての本であり、その中で「怒りのマネジメント 」についても書いています。