No.0455 心霊・スピリチュアル | 死生観 『人は死なない』 矢作直樹著(バジリコ)

2011.09.24

 彼岸は、死者を思い出す大切な時間です。わたしは、いつも「死者を忘れて生者の幸福などありえない」と言っています。彼岸の中日となる「秋分の日」に、「死」と「死者」についての本を読みました。

 『人は死なない』矢作直樹著(バジリコ)という本です。新聞の書籍広告で見つけた本ですが、タイトルに惹かれて注文しました。「人は死なない」とは、わたしの口癖の一つでもあるからです。

 本書には、「ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索」というサブタイトルがついています。著者は、東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授にして、さらに東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部部長です。

 それにしても肩書きが長い! そして、凄い! 帯には「神は在るか、魂魄は在るか。」と書かれ、続いて次のように書かれています。

 「生命の不思議、宇宙の神秘、宗教の起源、非日常的現象。生と死が行き交う日々の中で、臨床医が自らの体験を通して思索した『力』と『永遠』、そして人の一生。」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

第一章:生と死の交差点で    
第二章:神は在るか
第三章:非日常的な現象
第四章:「霊」について研究した人々
第五章:人は死なない
「あとがき」

 本書の冒頭には、著者の次のような「幼い頃の記憶」が綴られています。

 「幼い頃、私は『どうして人間には良心があるのだろうか』という素朴な疑問を持っていました。もし自分が生きている世界がこの世でしかないとしたら、何をしてもよい、どんなに悪いことをしても、たとえば人を殺しても、死ねばすべてはなかったことになってしまう。この世は夢なのだろうか。そうだとしたら良心なんかなくてもよいことになる。
 そんなことが有り得るだろうか。この『良心』には、何か大きな意味があるのではないかと思っていました。
 その一方で、自分が生きる世界はこの世でしかなく、死ぬと無になれるのならどんなに楽だろう、この世で何をしてもよいし、疲れたら死ねばよいことになる。幼いながらも、生きるということに対して何かとんでもない旅路につかされているようなしんどさを感じていた私は、何も考えなくて済むなら無になりたいものだとも思っていました。
 また、なぜ自分は今ここにいるのだろうか、自分のいる地球を含めたこの宇宙はどうして存在するのだろうか、この宇宙は誰が作ったのだろうか、といったことをよく考えていました。私が子供の頃には、お年寄りが『お天道様が見ている』と言っているのをよく耳にしたものですが、その『お天道様』という言葉の中に、人を超越した何か大きな意思の存在を、子供心にも漠然と感じていました」

 この冒頭の文章には、哲学の原点ともいうべき問題がすべて語られていると思います。このような疑問を持った少年が成長して、医学に関わる人物になったという。それだけで、本書を読み進んでいく興味が大きく膨れ上っていきました。

 本書は、何と言っても、現役の東大医学部の教授で臨床医である著者が「霊」の存在を確信し、「人は死なない」と言い切ったところに最大の価値があります。

 ある意味で非常に勇気が要ることであったと推察しますが、それだけに多くの人々の関心を呼ぶ本となりました。著者は、医師という仕事を通して死と生に直視してきた経験、大好きな登山で二度も死にかかった経験を語りながら、西洋医学では説明のつかない事実のエピソードを紹介します。また、これまでの宗教研究やスピリチュアリズム研究の事例なども目配りよく豊富に紹介しています。

 著者いわく、本書のモチーフはきわめてシンプルなものだそうで、「人間の知識は微々たるものであること、摂理と霊魂は存在するのではないかということ、人間は摂理によって生かされ霊魂は永遠である、そのように考えれば日々の生活思想や社会の捉え方も変わるのではないかということ、それだけです」と「あとがき」に記しています。著者のメッセージは、本書の最終部分にも次のように明確に述べられています。

 「人の一生は一瞬の夢にも似た儚く短いものです。だからこそ、人は現世に執着するのかもしれません。愛する人の死を悼み、自分の死を怖れる、その気持はよくわかります。しかし摂理、霊魂の永遠に思いを重ねつつ、今に没頭すれば、肉体の死を恐れることなく勇気を持って生きることができるのではないかと思います」

 「人は、今生を生きているうちは、生きることを懸命に考えなければなりません。なぜなら、我々は摂理によって創られた自然の一部であり、摂理によって生かされているからです。したがって、自分の体はまず自分自身で労り、よりよい状態を維持するように努力しなければなりません」

 「人はみな理性と直観のバランスをとり、自分が生かされていることを謙虚に自覚し、良心に耳を傾け、足るを知り、心身を労り、利他行をし、今を一所懸命に生きられたらと私は思っています。そして、『死』を冷静に見つめ穏やかな気持ちでそれを迎え、『生』を全うしたいものです」

 さらに本書の最後に、著者は次のように書いています。

 「寿命が来れば肉体は朽ちる、という意味で『人は死ぬ』が、霊魂は生き続ける、という意味で『人は死なない』。私は、そのように考えています」

 本書に書かれてあるような内容は、目新しいことではありません。 これまで多くの宗教家やスピリチュアル研究家がすでに述べてきたことばかりです。わたしも、『ロマンティック・デス~月と死のセレモニー』(国書刊行会)などを書きましたが、本書の内容と共通点が多いと思います。

 しかし、繰り返しになりますが、本書の場合は著者が日本を代表する一流の医学者であるということが大きな説得力を生んでいます。本というのは、「何を書くか」も大事ですが、ある意味ではそれ以上に「誰が書くか」が大事なのだと痛感しました。

 また本書を一読して、わたしは著者が大変な読書家であることを知りました。死についての研究では、エリザベス・キューブラー=ロス、レイモンド・ムーディーをはじめ、マイクル・セイボム、メルヴィン・モース、ケネス・リング、ロバート・モンローらの業績にも言及しています。まさに、臨死体験研究のオンパレード!

 古今東西の宗教に関する該博な知識にも驚かされましたが、特にスピリチュアリズムについての知識がハンパではありません。スウェーデンボルグ、シュタイナーなどはもちろん、アラン・カルデックとかフレデリック・マイヤースとかジョージ・ヴェイル・オーエン、さらには「シルバーバーチ」の名前まで登場して驚きました。ちなみに、シルバーバーチとは1920年にイギリス人青年モーリス・バーバネルに憑依したという霊です。

 日本人の死生観についても、柳田國男や五来重などの民俗学者の業績を中心に紹介されており、著者は次のように述べています。

 「古代から日本人は、人は死ぬとその霊は肉体から離れてあの世にいくと考えていました。そして、亡くなった人の冥福を祈る追善や供養を営々と続けてきました。
 盆には仏壇に精進料理を供え、お寺の迎え鐘を突いて精霊を迎え、精霊流しをして帰すといった先祖供養を行ってきました。昔の日本人はみな、直観的に『人の死後の存続』を信じていたのだと思います」

 その信じる心が、今日のような彼岸の風習を残しているわけですね。医師である著者は、「人の死後の存続」についてさらに次のように述べます。

 「肉親を亡くした経験のある人は特にそうではないかと思いますが、『霊魂』や『死後の世界』はその存在を証明できないから認めないと科学的に考える自分と、亡くなった人の霊魂がどこかにいて自分を見守ってくれているのではないかと直観的に感じる自分がいないでしょうか。現代の日本に生きる分別を持った人間としては人間の知性で理解できない事柄に関しては信じることができない、一方でそう考えることに何か割り切れない後ろめたさを感じる、というように二つの背反した思いが交差するのが本当のところではないでしょうか」

 東日本大震災以降、日本にも本格的な「グリーフケアの時代」が到来したと言われています。愛する人を亡くした死別の悲しみは図り知れないほど大きなものですが、著者は次のように述べています。

 「死別の悲しみは、現世が現世限りだと思うと底知れぬ深いものとなってしまいます。特に自分の子どもを亡くした親の悲しみは喪失感だけにとどまらず、ともすれば子どもの夭折の原因を自分に帰し、自らをひどく責め生きる意欲さえなくしてしまいます。はては家族の間にひびが入り、ときに離散に至ることもあります。
 けれども、人の魂は肉体が消滅した後も存続すると考えれば、ずいぶんと心が安らかになるのではないでしょうか。現世で二度と会うことはできないという喪失感は、残されて現世を生きる者にとって確かに大きなものですが、大切な人と幽明の境を異にするのは一時のこと、他界した人はどこかで自分を見守ってくれている、いつの日か再会できると考えれば、死別の悲しみの本質が変わってくるのではないでしょうか」

 まさに、わたしもまったく同じ考えです。そして、死者とは必ずまた再会できるというメッセージを綴ったフォトブック『また会えるから』(現代書林)を上梓しました。

 本書でもっともわたしの心を打ったのは、著者の実母が孤独死をされて、変わり果てた姿で発見されたというくだりでした。亡き母の葬儀を営むにあたって、著者が葬儀社の中からいちばん遺体の扱いが丁寧で良心的な業者を選んだというくだりも考えさせられました。

 著者の亡くなったお母さんは、3日間浴槽に水没しておられたそうです。検視に立ち会ったときは著者のみであり、発見者の弟さんを含めて他の身内は誰も故人の顔を見ていませんでした。その故人の顔を、葬儀社のスタッフがさりげなく「白い布で覆って棺の小窓には出ないようにしましょう」と言って気遣ってくれたそうです。著者が「遺体の顔はどうするんだろう」と心配しかけたまさにそのとき、心中を読み取ったかのごとく絶妙のタイミングだったそうです。仕事とはいえ、その心配りに本当に感心したという著者は、次のように述べています。

 「思えば、煩雑な諸手続きを代行し、傷んだ遺体をきれいに整えてくれた葬儀社というプロフェッショナル集団のおかげで、どれほど助かったことか。本当に、人は人に助けられている。我々医師は、患者やその家族にこれほどの心配りができているだろうかと、思わず考えさせられました」

 わたしは、現役の東大医学部の教授が葬儀社を「プロフェッショナル集団」としてとらえ、”おくりびと”の仕事をここまで認めてくれていることを知って、非常に感動しました。

 しかし、その直後の文章で、わたしはさらに感動することになります。著者は、本書の138ページで次のように述べているのです。

 「遺体というのは不思議なものです。
 遺体は遺体でしかなく、単なる『モノ』でしかないわけであり、したがって執着するような対象ではないということを頭では理解していても、愛する者にとっては抜きがたい愛着を感じずにはいられないというのが、偽らざる本心です。
 おそらく、遺体への配慮は理屈ではなく、情として自然に出てくるものなのでしょう。
 『愛する人を亡くした人へ』という好著があり、自ら冠婚葬祭の会社を営んでいる一条直也氏は本の中で、葬儀とは『成仏』という儀式(物語)によって悲しみの時間を一時的に分断し、その物語の癒しによって、愛する人を亡くして欠けた世界を完全な状態にもどすこと、と願っています。私も、まったくその通りと思うのです」

 このように、わたしの著書が突然紹介されて、非常に驚くとともに感動しました。ただ、まことに残念なのは、わたしの名が「一条直也」と間違っていることです。「一条直也」は、「柔道一直線」の主人公ですよぉ!(涙)。

 著者および版元の関係者にお願いしたいのですが、増刷の際にはぜひ「一条真也」とお直し下さい。

 最後に、本書は万人が読むべき本であり、わたしも多くの人々に薦めていきたいと思っています。あなたも、ぜひお読み下さい。きっと、死ぬのが怖くなくなります!

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