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原爆投下は予告されていた』

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No.0407

 

 『原爆投下は予告されていた』古川愛哲著(講談社)を読みました。

 

 「国民を見殺しにした帝国陸海軍の『犯罪』」というサブタイトルがついています。少し前に注文していた本ですが、奇しくも「長崎原爆の日」に入手しました。本書には、じつに驚くべき内容が書かれていました。


 帯には、「福島原発事故と原爆投下 2つの悲劇に隠された驚愕の真実!」とのキャッチコピーが踊り、「被爆直後の長崎に上陸した米軍捕虜救出部隊の証言、そして原爆投下を黙認した日本軍上層部の陰謀・・・・・『昭和史最大の闇』を東日本大震災が暴いた!!」とセンセーショナルに書かれています。


 著者は1949年生まれの歴史資料収集家とのこと。日本大学芸術学部映画学科で映画理論を専攻した後、放送作家として活躍しました。


 著書には、『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた』『九代将軍は女だった!』『江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた』『坂本龍馬を英雄にした男 大久保一翁』『悪代官は実はヒーローだった江戸の歴史』(以上、講談社+α新書)などがあります。


 本書の目次は、以下のようになっています。


「まえがき―なぜ政治家・官僚・高級軍人だけが生き残ったのか」

序章  ある元陸軍二等兵の死

第一章 歴史から消された作戦命令

第二章 裏切りの軍都・広島

第三章 米英共同作戦の深き闇

第四章 慟哭の軍都・長崎

第五章 長崎上陸の捕虜救出部隊

「あとがき―よみがえる『国策』という名の亡霊」

主要参考文献・映像作品


 「まえがき」の冒頭で、著者は長らく歴史資料を収集し、それを書籍にまとめることを生業とする中で、自らの中に1つの疑念が生まれてきたといいます。その疑念とは、「第二次世界大戦において、なぜ日本国内では、政治家や官僚、高級軍人の多くが生き残ったのか」というものでした。


 その疑念は、次第に「空襲や原爆投下を、一部の人間は事前に知っていたのではないか」というものでした。とりわけ原爆において、アメリカによる事前の投下予告がなされたのではないかと著者は推測します。


 もし投下予告があったのならば、日本の対応次第では、原爆の投下なしに終戦を迎えることもできたはずなので、これはきわめて重要な問題です。ある大事件を事前に知っていた人々がいるのではないかという憶測は、「9・11」が好例ですが、いわゆる陰謀論になりがちです。


 しかし、本書の著者はフリーメーソンとかイルミナティとかのオカルト的陰謀論には走らず、とにかく歴史的資料に基づいて論を組み立てていきます。少なくとも、本書は出版市場に跋扈するトンデモ陰謀本ではありません。歴史的事実をきちんと踏まえた上で、著者は次のように述べています。


 「二度にわたる原爆投下は、予告なしになされたとするのが定説だが、私は疑問を持っていた。なぜならば、政治家や官僚、高級軍人の戦災死者が少なく、しかも、原爆投下予告を中国の広東で傍受した1人の日本人兵士が存在したからだ。この兵士、黒木雄司氏は当時伍長、そして自らの体験を書物として残していたのだが、歴史家は認めてこなかった。ところが一本のドキュメンタリー映画が、この人物の証言を補強し、あたかもパズルの最後の一片をはめ込むかのごとく整理してくれた。それがまた、私の原爆投下と終戦工作に対する疑念を、ますます深めることになったのだ」


 著者に原爆投下と終戦工作に対する疑念を深めさせたドキュメンタリー映画は、アメリカで制作された「原爆死」というタイトルの作品です。1994年度の学生アカデミー賞のドキュメンタリー部門で金メダルを獲得しています。


 この作品によると、長崎への原爆投下直後、それも当日、連合軍の捕虜救出のために、米軍の救出部隊が長崎に上陸したといいます。しかも、その救出部隊の1人が中心的な登場人物となっているのです。


 この映画を観て大変なショックを受けた著者は、真実を隠蔽してきた「この国の偽らざる姿を本質」が浮かび上がるとして、次のように述べます。


 「思うに、この国は強者が弱者を盾にして利を貪り謳歌し、失敗すると強者が弱者を置き去りにして逃げ打つ―その歴史を繰り返してきたのではないか。たとえば第二次世界大戦では、内地でも戦地でもこれが繰り返されてきた」

 

 内地では、空襲や原爆投下において政治家や官僚、高級軍人の死者の比率が低いという摩訶不思議な現象から導かれる事実。いわゆる「ノブレス・オブリージュ」が息づくイギリスなどでは、貴族階級出身者が就く高級軍人の死亡率は非常に高いとされます。また戦地ならば、ノモンハン事件における関東軍参謀の所業に代表されるそうです。


 戦時中だけではありません。このたびの東日本大震災の直後にも、それは繰り返されたと著者は言います。福島原発のメルトダウンが確実視されはじめた頃、霞ヶ関ではあるリストが出回ったとか。それは、関東よりも西にあたる都市のホテルの空室状況、ガソリンスタンドの営業状況などを詳細に記入したリストでした。著者は述べます。


 「つまり、官僚たちが考えたことは、自らが西へ西へと逃げることであり、組織を挙げて、ホテルの空室状況とガソリン不足の実態を、把握しようとしたのである。そして事実、多くの職員が名古屋、大阪などのホテルを予約し、家族を『退避』させたという。この話を聞いたとき、私は怒髪天を突く思いに駆られた」


 さらに著者は、政府と東京電力が放射能被害の実態を隠し続けて国民を欺いてきたとして、次のように述べています。


 「震災後、政府は放射線予測システムSPEEDI(スピーディ)の情報公開の遅れを詫びているが、何のことはない、実際は福島原発被災直後から、そのデータを知っていたのである。事実、震災翌日、福島原発に向かう際に、管直人首相は、自分自身の生命や健康に影響が出ないことをSPEEDIにより確認したうえで、現地に赴いたというではないか。つまり、政府・高官はSPEEDIのデータを自らのために使いはするが、国民に対しては隠蔽し続けたのである。その結果、本来は被曝する必要がなかった約1万人が放射能を浴びたという・・・・・・」


 このように政府・官僚・高級軍人に対する疑惑の視点で本書は書かれているわけですが、その多くは歴史的資料の紹介でした。


 わたしが最も興味をもって読んだ箇所は、やはり、「小倉原爆」に関するくだりでした。昭和20年8月9日、なぜアメリカは第1目標だった小倉に原爆を落とさず、第2目標の長崎に落としたのか? わたしの関心は、ずばり、この1点に絞られました。そして、本書には非常に驚くべき内容が書かれていました。


 まず、米軍が原爆投下目標の都市を選定する際、捕虜収容所の存在の有無が大きく左右したそうです。たとえば、原爆の太平洋地域における最高責任者であったトーマス・ファレル准将の覚え書きを見てみると、第1目標は「広島」、第2目標が「小倉」と決められたことが分かります。


 8月6日、予定通りに第1目標の広島に第1回目の原爆投下が行われました。8月9日、第2回目の原爆投下の目標都市は第1が「小倉」で、第2が「長崎」でした。


 ところで、戦争当時、小倉には大量のアメリカ人捕虜がいました。小倉の連合軍兵士捕虜収容所の正式名称は「福岡俘虜収容所第三分所」です。日本において、捕虜は伝統的に「俘虜」と呼ばれました。


 さて、映画「原爆死」の中で、ギャラガー元通信士が驚くべき一言を発します。彼は第2回目の原爆投下機の搭乗員の1人でしたが、なんと、こう語ったのです。


 「ある日、幼なじみが訪ねてきたとき、私が小倉と長崎に行ったというと、彼はこう答えたのです。『何てことだ、俺の兄貴をもう少しで殺すところだった。あの日の2日前、小倉には5000人のアメリカ兵が集められていたんだ』」


 8月7日、急遽、アメリカ兵5000名が小倉に集められたというのです。もちろん、こんなことは日本側の記録としても米軍の文書としても公開されていません。著者は、中国憲兵隊の松本、藤田両憲兵大尉が引き出した特殊爆弾の投下地域らしき「爆撃禁止都市」の情報で、参謀本部が小倉の防御に入ったと推測します。その結果、小倉にアメリカ兵を集める作戦を取ったのではないかというのです。著者は、次のように述べています。


 「原爆投下の目標都市と判断した小倉に5000名のアメリカ兵捕虜を集めた理由は何だったのか。おそらく、捕虜を盾に使おうとしたのであろう。小倉にアメリカ兵捕虜が5000名もいることを日本側の対米宣伝放送『ラジオ東京』で伝えれば、さすがにアメリカ側も小倉への投下を止めざるを得ない。それでも原爆投下を強行すれば、同盟通信を通じてアメリカ国内にニュースとして流す。これによってアメリカ国民の批難を巻き起こせ、批難一色にできる可能性さえもある。むろん、推測でしかない。対米宣伝放送『ラジオ東京』が何を放送したかの記録は、処分されているからである」


 小倉への原爆投下が見送られた理由は、これまで流布してきた説がありました。それは、投下当日の小倉の空が曇って視界が悪かったというものです。これには、天候不良だったとか、前日の八幡空襲の煙が残っていたとか、いろいろ言われています。わたしも、これまで「あの日、小倉の空が晴れていたら、自分は生まれていなかった」と信じ込んできました。ところが、この小倉を覆った煙の正体は驚くべきものでした。


 小倉から長崎に向かった爆弾投下機はチャールズ・スウィーニー少佐が率いるボックスカーです。そのスウィーニー少佐には『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』(原書房)という著者がありますが、その中には第2回目の原爆投下当日の様子が精しく書かれています。スウィーニー少佐は、攻撃目標の小倉に近づくと、「攻撃始点に到着した時、目印のいくつか―川、建物、道路や公園までも―がはっきり確認できたので、我々は目標である小倉軍需工場を狙える見込みは高いと考えた」そうです。


 それが突然、爆撃手から「見えません! 見えません! 煙で目標が隠れています」という報告が入ります。その煙をスウィーニーは、前日の八幡空襲で炎上を続ける建物の煙と判断しました。しかし、この解釈は間違いであるとして、著者は述べます。


 「当時の日本の家屋は木造が多く、簡単に炎上してしまい、翌日まで燃え続けることはあまりない。しかも、八幡市の空襲のあとに黒い雨が降った記録があるが、猛烈な爆撃で熱を帯びた煙が上空で冷やされて雨となって落ちれば煙は消える。さらには、その後、夜空は満天の星であったとの証言もある。そして、その日の天候は晴れで、小倉の上空には青空が広がっていた」


 それでは、昭和20年8月9日の小倉の上空を覆った煙とは何だったのか?


 ここで、参考になるのが秋吉美也子著『横から見た原爆投下作戦』(元就出版)という本です。小倉造兵廠は、約72万平方メートルと、歩くのが嫌になるほどの広さでした。「この広い区域がすっぽり白いものに覆われ、45分間晴れないというようなことが、自然状態であるだろうか?」と思った秋吉氏は「あり得ない」と結論を下します。


 そして、「攻撃機の到着時に霧か靄が濃くなっていたら、それは人工的なものである」と断言するのです。当日、空は晴れているのに地上近くを人工的な煙が覆っていたというのです。これは、攻撃の原爆調査担当アッシュワース海軍中佐による報告書にある「地表近くの濃い靄と煙」と合致します。著者・古川愛哲氏は次のように述べます。


 「その正体は、人工的に地表を覆った煙幕だったのである。煙幕の発煙装置はドラム缶を縦割りにし、コールタールを満たしたカマボコ形の容器で、その真ん中に薪が組まれていた。空襲警報発令とともに点火することになっていたのである。
 コールタールは、石炭をコークスにするため蒸し焼きにする過程で生じる副産物で、燃やすと黒い煙を発する。また警察関係者が、「八幡製鉄や三菱化成は、煙幕による遮蔽装置を持ち、発令で点火することになっていた」との記録を掲載している。
 いずれにしても、コールタールを燃やした黒い煙が地上を覆っていたのだが、それに加えて隣接する八幡製鉄所からは、溶鉱炉にアンスラチン煙幕を焚いて、送風機で煙を煙突から吹き出すことができた。そしておそらく、九六式発炎筒も焚かれたのではないか。こちらは12分間の発煙が可能だ。
 『横から見た原爆投下作戦』の著者は、伝聞ではあるが小倉で独自の自衛策を考え出した人々がいたことを記している。そして、それらの人々について語ったのは長崎出身の医者であったという。
 いずれにしても、スウィーニーの攻撃部隊は原爆を海に捨てることよりも、第2の攻撃目標の長崎へ向かうことを選んだ。こうして、小倉に集められていた5000名のアメリカ兵捕虜の命も救われたのである」


 そして、著者は次のような結論を述べています。


 「小倉上空で何も知らない爆撃手は『見えません!見えません!』と連呼する。確かに煙幕は焚かれていたが、米内海相の秘密チャンネルが小倉の原爆投下を阻止するために、『憲兵隊が小倉に米軍捕虜を集めた。小倉には煙幕を張る』との旨を伝えていたのではあるまいか。小倉は弾薬とガス弾だらけの弾丸製造地帯である。原爆が炸裂した際のダメージは大きく、しかもアメリカ側にしてみれば、弾丸とガス弾の誘爆で正確な原爆の効果判定ができない。そのあたりが、小倉に『煙幕を張る』ことで攻撃を中止する妥協点となったのではないかと思う。

 そして、『小倉は攻撃を試みるが、長崎に落とす』との情報が、すぐさま中国大陸のニューディリー放送を通じて日本に伝えられたのだろう。それも密かに・・・・・・」


 長崎に原爆が投下されるという情報が事前に長崎に伝わっていたことは有名です。しかし、長崎県知事や警察幹部たちは、市民を総退避させることができませんでした。知事が自ら県防空本部へ駆けつけ、会議を始めた途端に爆弾が投下されたそうです。


 これは、東日本大震災で被災したある学校が津波が来るまでに数十分の猶予があり、上手の山に逃げれば助かったものを職員たちが議論に時間を費やしたためにタイムアウトとなり、多くの児童たちの生命が失われた悲劇を思わせます。もちろん、数万人の長崎市民をどこかに避難させることなど不可能だったかもしれません。しかし、どんなときでも絶望せず、最善の道を探すことがリーダーの使命でしょう。


 本書に書かれている内容が本当なら、これは驚くべきことです。わたしは小倉を「世界史上最も強運な街」であると思っていました。それは言い換えれば、小倉に神風が吹いたということです。この日の小倉上空は前日の八幡爆撃による煙やモヤがたち込めて視界不良だったため投下を断念したのだと理解していました。


 しかし、小倉に神風が吹いたのではありませんでした。人工的に煙やモヤを発生させた人々が存在したのです! 当時の八幡製鉄所をはじめとした北九州には頭脳明晰な知的エリート集団がいたと言われていますが、その中の誰かがこの作戦を考案したのでしょうか。


 それにしても、爆弾を落とさせないために小倉では2つの作戦が実行されたわけです。1つは、アメリカ人の捕虜を大量に集めるという古典的な作戦。もう1つは、人工の煙幕で空を覆うというハイテクを駆使した作戦。


 本当にこれらの作戦が実行されたとすれば、これはもう、危機を回避する最大のリスク・マネジメントであり、「史上最大の作戦」と呼べるかもしれません。もちろん、「史上最大の作戦で小倉の人々の命が救われた」などとはしゃぐ気などまったくありません。わたしは、そんな破廉恥な人間ではありません。広島と長崎の原爆で亡くなった犠牲者の方々に対して、そんな非礼はできません。


 しかし、この広島・長崎の犠牲者への配慮こそが、小倉への原爆投下回避という大作戦の存在がこれまで隠されてきた一番の原因だったかもしれませんね。


 いずれにせよ、小倉の人々はつねに広島と長崎の死者を忘れずに生きていかなければならないと思います。そして、米国民は人類で初めてアメリカが核兵器によるジェノサイドを実行したという事実を忘れてはなりません。


 驚愕の真実について映画「原爆死」からヒントを得た著者ですが、映画のラストシーンが印象深かったそうです。映画の作者であるケーシー・ウィリアムズの父親で退役軍人のデュウェイン・ウィリアムズが登場するのですが、湖にポツンと浮かんだボートの上で、釣りをしながら彼が次のように語るのです。


 「原子爆弾の恐怖をわれわれは見た。その恐ろしさを知っているから、その後、原爆は使われることはなかった。だが、われわれのあと、将来の世代はどうか。その恐ろしさを知らないではないか」


 そして、著者は2発もの原爆を落とされた後の日本の荒廃ぶり、そしてそれを復興してきた日本人について思いを馳せ、次のように述べます。


 「荒廃し尽くした国家を復興させたのは、被災し、焼けこげたトタンで雨をしのいで、困窮に耐えながらも自力で再建した国民たちだった。とにかく、誰もががむしゃらに働いた。働かなければ生きてはいけないからである。

 原子力発電所災害の報道を前に、一部の人々の姿が、過去の一部の人々の姿に重なって見える。広島、長崎―『承知しながらも、原爆を投下させた人々』の姿である。そして、責任は誰も取らない。あたかも「自然災害」であるかのようにされて、国民の血税が再び注がれるのだ。そして、広島、長崎を超える莫大な被曝者を生み出す危険性があるにもかかわらず、ここで語られる「国策」も蜃気楼でしかなく、今またそれが、亡霊のごとくわれわれの前に現れようとしている。

 思わず胸から込み上げるものがあり瞑目する。滂沱たる落涙を止めることはできない。

 だが、あの時代と現在では、1つだけ違うことがある。ネット社会においては、人と人が情報を自由に繋ぐことができることである。

 そこに一縷の希望を託そう。この惨劇は再び起こしてはいけない」


 わたしは、本書をまず小倉に住む方々に読んでほしいと思います。また、あの戦争について関心のある方々について読んでほしいと思います。そして、平和について関心のある方々に読んでほしいと思います。さらには、マネジメントに関心のある方々、経営者の方々にも一読をお薦めします。


 かつて小倉という日本の軍都において、世界史上稀に見る危機回避のリスク・マネジメントが行われたという事実からきっと大いに学ぶことがあるはずです。


 正直言って、わたしは今、ものすごく感動しています。