No.0409 歴史・文明・文化 『霊園から見た近代日本』 浦辺登著(弦書房)

2011.08.12

 『霊園から見た近代日本』浦辺登著(弦書房)を読みました。

 本書の存在は、「朝日新聞」の日曜日の読書特集で知りました。同紙の書評担当者の1人である荒俣宏氏が本書を絶賛していたのです。それで興味を抱いたわたしは、早速アマゾンで取り寄せ、一気に読了しました。

 なんとも不思議な本ですが、一応は「歴史書」の部類に入るでしょう。幕末から明治をへて昭和初期までのいわゆる近代史を扱っていますが、その中心テーマは、頭山満を中心とした《玄洋社》です。

 著者は、青山霊園をはじめとして、谷中霊園、泉岳寺、木母寺、築地本願寺といった霊園めぐりをします。それらの霊園にある墓石には、近代という日本の国家形成期に活躍した人物たちの名が刻まれていました。著者は墓石に刻まれた人脈を《玄洋社》をキーワードに読み解き、近代日本を再検証するのです。

 昭和31年福岡県生まれの著者は、福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌への投稿を行っており、オンライン書店bk1では「書評の鉄人」の称号を得ています。著書に『太宰府天満宮の定遠館』(弦書房) があります。本書の冒頭で、著者は青山霊園について次のように述べています。

 「この青山霊園は明治7年(1874)9月1日に開設され、総面積263000平方メートル余(およそ8万坪)の広さを誇るのですが、東京ドーム5・5個分にもなる広さです。青山霊園と名前がついているように墓地でありながら公園としても整備されているために霊園と呼ぶそうですが、表通りの華やかさとは裏腹に樹木と墓石だけという閑散とした雰囲気に拍子抜けしてしまいます。徳川家の墓所がある上野の谷中霊園のみならず、東京の都心にこれほど広い墓地が開発されたことに驚きを隠せません。もしかしてこの青山霊園は旧徳川幕府への対抗意識から明治新政府が意図的に開発していった墓地なのではと疑問を抱いたのですが、谷中霊園は明治政府の命令で30万坪余もあった敷地を10分の1に縮小させられたのだそうです。青山霊園の8万坪、谷中霊園の3万坪と明治維新の余波があの世にまで及んでいるところに旧徳川政権を抑えこみたいという明治新政府の鼻息の荒さを感じてしまいました」

 わたしも何度か訪れていますが、青山霊園は著名な人々が多く眠っていることで知られます。著者は、次のように述べています。

 「青山霊園に眠る歴史上の人物の数は想像以上です。パンフレットに記載されているものから拾ってみただけでも250人以上が記載され、その中には明治新政府の顔ともいうべき大久保利通、土佐派の後藤象二郎、佐佐木高行があり、乃木希典、島村速雄、秋山好古、川上操六、廣瀬武夫という明治の軍人、緒方竹虎という敗戦国日本の戦後政治の舵取りをした政治家など、幕末から昭和にかけての歴史教科書をなぞっているかの如くです」

 さて、著者が青山霊園を訪れたきっかけは、福岡を拠点とした政治結社として有名な玄洋社についての手がかりを得るためでした。かの中村天風の師でもあった頭山満が率いた玄洋社は、今では右翼という固定的な言葉で語られがちですが、実際は欧米列強に抵抗し、アジアの植民地解放を支援した団体でした。

 その玄洋社が関わり、支援した朝鮮開化党の金玉均の墓が青山霊園にあると知った著者は、わずかな手がかりであっても玄洋社の輪郭を知りたいと思ったのでした。金玉均について、著者は次のように述べています。

 「現代の日本人に知名度が高い韓国人といえば『ヨン様』こと俳優のペ・ヨンジュンさんと思いますが、一昔前はハルビン駅頭で初代韓国統監の伊藤博文を暗殺した安重根ではないでしょうか。明治42年(1909)10月26日、ロシアの蔵相ココフェツとの会談のために満洲のハルビンを訪れ、ロシア儀仗兵の閲兵をするために列車を降りた瞬間、伊藤博文は反日血盟グループの1人であった安重根の凶弾に倒れたのです。この伊藤が暗殺されたことで日本人の間には朝鮮に対しての反感が高まり、日本国内で庶民相手に『飴売り』の行商をしていた朝鮮人までもが『かたき討ち』と称して暴行を加えられたそうです。しかし、この伊藤博文暗殺事件の以前、明治初期の日本においては李朝末期の政変である甲申事変(朝鮮開化党による政治改革事件)で失脚し、明治17年(1884)12月に朴泳孝等同志8人とともに日本に亡命した金玉均が有名でした」

 甲申事変による亡命後、ほとんどの同志がアメリカに渡ってしまった中で、金玉均は日本に留まり続けました。明治19年(1886年)、清国や朝鮮が放った刺客から身の安全を図るという理由で、金玉均は太平洋に浮かぶ小笠原に軟禁されます。

 現在は東京竹芝桟橋から26時間の船旅で小笠原諸島の父島に到着しますが、当時は20日もかかる絶海の孤島でした。この小笠原には、南洋探検と称して玄洋社の来島恒喜、的野半介、竹下篤次郎らが滞在していました。

 彼らは同志ともいうべき金玉均を迎え、小笠原の地で東アジアの植民地解放や政治刷新について語り合い、朝鮮の政治改革についても熱く議論を重ねたようです。

 このように、玄洋社とはアジアを侵略する欧米に抗い、アジアの植民地解放の邁進した政治結社でした。玄洋社の看板であった頭山満は、終生、西郷隆盛を尊敬し続けた生粋の九州男児でした。当時、ある雑誌が英雄の人気ランキングを企画したところ、物故者では西郷隆盛がトップで、存命者では頭山満がトップだったそうです。

 それぐらい、頭山満は明治の民衆にとってのヒーロー的存在だったのです。非常に平和思想の持ち主でもあった彼が、「右翼」の代名詞になっている現状について、著者は次のように述べています。

 「頭山満が右翼の大物であるとか、玄洋社が超国家主義団体と称されるのはGHQによる東京裁判(極東国際軍事裁判)の影響が大きいと考えます。この裁判所の開廷にあたり、戦争犯罪人として玄洋社社長(当時)であった進藤一馬、玄洋社系の黒龍会主幹の葛生能久、元内閣総理大臣であり玄洋社員であった広田弘毅が巣鴨に収監されています。玄洋社自体も超国家主義団体としてGHQから解散を命じられていますので、日本の戦争遂行に協力した団体、及びその関係者と決めつけられたことが大きいと思います」

 さらに著者は、玄洋社について次のように書いています。

 「頭山満が所属した玄洋社ですが、そもそもの始まりは自由民権運動からでした。薩長政府への抵抗勢力であるというところは他の自由民権団体と同じですが、異なる点としては積極的にアジア諸国を支援したということではないでしょうか。これは、玄洋社の存立基盤である『博多』という地域が朝鮮半島、中国大陸と古くから密接な位置にあり、交易のための朝鮮半島、中国大陸からの居留民を受け入れていたという歴史的背景を持っていたからだと思います。自由民権運動団体のなかでも玄洋社や黒龍会がアジアへと活動範囲を広げたのも、大陸の政治状況が安定しなければ経済的繁栄が望めないことを『空気』として身にまとっていたからではないでしょうか」

 本書で興味深かったのは、以下のような「墓」についての著者のとらえ方です。

 「青山霊園の墓所をめぐることで墓石に刻まれた文字や雰囲気から故人の何かをつかみ取ろうと試みるのですが、ふと、墓とはなんぞやと考えるときがあります。墓地・埋葬法という法律の考えからいえば、物理的に焼骨した骨を納める場所でもあるのですが、精神的なものとしては死者と生者との語らいの場、死者がどう生きてきたのか、生者が今後どう生きていけば良いのかを語りかける場所と思います。岩手県花巻市の『宮沢賢治記念館』を訪れた話をしましたが、ここの展示資料の中にエスペラント語に関係した人々として北一輝、出口王仁三郎、大杉栄が紹介されていましたが、死者との語らいの場所と考えれば記念館に展示されるということも1つの墓なのではと思います」

 「死者との語らいの場」として、墓も記念館も同じであるというのは、まったく同感です。さらには死者が遺した著書なども同じだと言えるでしょう。つまるところ、死者の記憶が残された場所が語らいの場所でもあるのです。

 さて、大杉栄の名前が出てきました。じつは、わたしはクロポトキンの『相互扶助論』の訳者としての大杉栄を非常にリスペクトしています。ちなみに、頭山満のことも心から敬愛しています。思想的な立場は違っていたかもしれませんが、頭山満も大杉栄もともに人類的視野を持った愛国者であったと思います。

 大杉栄といえば、警察組織を管轄する内務大臣の後藤新平から、当時の金で300円を生活費として貰っています。これに関しては、後藤自身の身内に日本共産党員がいたことから情報を探る意味もあったようですが、著者は次のように述べます。

 「この大杉栄と後藤新平との人間関係については金の遣り取りだけが強調されるのですが、世間で取りざたされる人物と政府の要職者である後藤とが面会できたことに不思議でしたが、後藤と旧知の杉山茂丸の紹介であり、さらに、その杉山茂丸に相談したのが頭山満だったとわかり、かつて政府から弾圧を受けた玄洋社ですので、相通ずるものがあったのでしょう。さらに、伊藤野枝と頭山満とは遠い親戚であったともいわれていますが、どちらかといえば、窮鳥を保護するという感覚だったのでは」

 そして、本書には中江兆民の名前も次のように出てきます。

 「右翼の源流が頭山満ならば左翼の源流は中江兆民です。この中江兆民の死期が近い時、その枕頭にあったのが頭山ですが、声を発することができない中江は『伊藤(博文)、山縣(有朋)駄目、後の事タノム』と黒板に書いて頭山に示したそうです。ともに仲良く青山霊園に眠る右翼と左翼の源流ですが、頭山のところを訪れては当たり前のようにビールをねだっている中江なのではないでしょうか」

 頭山と中江の親交についてもわたしも初めて知り、驚きました。中江兆民といえば、日本で初めて告別式が行われた人物でもあります。「日本のルソー」と呼ばれた中江兆民の生涯にはまだまだ謎も多く、興味をそそられます。

 著者は大宰府天満宮の境内にある「定遠館」について調べていくうち、玄洋社という政治結社が福岡から興り、その玄洋社が東京で活動していたことを知ったそうです。その一連の調査のなかで、玄洋社も支援したという金玉均の墓を青山霊園で見つけました。また、偶然にも筑前福岡藩主であった黒田長溥の墓所と出会いました。

 さらには玄洋社にかかわりのあった人々の墓所を目にした時、著者は玄洋社というよりも幕末から明治にかけての近代化の時代を知っておくべきではと思ったそうです。「近代化という、西欧の文明を取り込み、自国のものとして発展させた大きな時代の枠組みを知り、そこから玄洋社をとらえるべきではと考えた」というのです。著者は、本書の最後に次のように書いています。

 「とまれ、日本という資源も何もない国が西洋文明を吸収し、わずか1世紀を経ずして世界経済の真っただ中に進出したことは奇跡にも等しいことです。そこには偉人が偉人を呼び、偶然という必然が幾つも重なりあった集大成であったといっても過言ではありません。当たり前のことが、当たり前のように進んでいる現代ですが、たまたま青山霊園に足を踏み入れ、そこに眠る人々の墓石を前にした時、それら当然の物事は人類の歴史に奇跡を刻んだタイムカプセルとなったのです」

 本書を読み終えたわたしは、ちょっとしたタイムトラベルを終えて現代に戻ってきた旅行者のような心境でした。近代日本を支えた偉大な人間集団である玄洋社および頭山満については、今後も調べていきたいと思いました。

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