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夏と花火と私の死体』

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No.0420

 

 『夏と花火と私の死体』乙一著(集英社文庫)を読みました。

 

 著者は1978年生まれ、「乙一」という名前はもちろんペンネームで、愛用していた関数電卓機「ポケコン」の名前「Z1」に由来するとか。本名は安達寛高で、福岡県出身だそうです。現在は東京で暮しているという著者は、自身の故郷について著書『小生物語』に次のように書いています。


「小生はかつて福岡県の片田舎に住んでいた。どれほどの田舎だったかというと、近所の光景をモデルに書いた小説に対して『ひと昔前の日本の風土がよく描けている』という感想がよせられるほどの農村である。本当はひと昔前ではなくばりばりの現在だったので小生の心中は複雑であった」


 その著者の実家の近所の光景を描いた小説というのが、他でもない本書『夏と花火と私の死体』なのです。著者のデビュー作ですが、これを書いたときの著者はなんと16歳でした。そして、17歳のときに第6回ジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞し、衝撃のデビューとなるわけです。じつは、わたしは高校に入学したら凄いホラー小説を書いて文壇デビューを果たしたいなどと考えていた時期があるのですが、まさにその夢を実現した人物こそ著者なのです。


 読んでみると、すでに文体は完成しており、ストーリーも練られています。乙一という人は紛れもない天才であると思いました。


 物語の主人公は五月という9歳の少女です。「ネタバレ」などと言われるといけませんので、本書のカバー裏にある内容紹介を以下に引用したいと思います。


「九歳の夏休み、少女は殺された。あまりに無邪気な殺人者によって、あっけなく―。こうして、ひとつの死体をめぐる、幼い兄妹の悪夢のような四日間の冒険が始まった。次々に訪れる危機。彼らは大人たちの追及から逃れることができるのか? 死体をどこへ隠せばいいのか? 恐るべき子供たちを描き、斬新な語り口でホラー界を驚愕させた、早熟な才能・乙一のデビュー作、文庫化なる」


 タイトルの通りに、主人公が冒頭でいきなり死体になってしまいますが、ずっと一貫して主人公の視線で物語が進行していきます。つまり、途中からは死者が物語を語っているのです!


 この仕掛けが、著者を「早熟な天才」と言わしめた才能に他なりません。ブログ『屍鬼』で紹介したように、日本ホラー小説の金字塔を打ち立てた作家の小野不由美氏は、本書『夏と花火と私の死体』の文庫版解説で著者・乙一氏について次のように述べます。


 「氏は明らかに非凡だ。そう言われていることなど、当人だって知っているだろう。にもかかわらず氏は、極めて凡庸な小市民の、日常的な感性の発露としか思えない表現をすることがある。それを自身に許す。非凡であるという自意識が希薄なのか、あるいは、そもそもそんなことに価値を置いていないのか。非日常のくせに、極めて日常的、その日常的な表現がものすごく『浮く』。忘れがたく突出する。
  ―つまりは、そういうことなのだ。『夏と花火と私の死体』の死体による一人称。神となった五月による記述は異常だ。にもかかわらず、五月は時折、極めて日常的な感慨を漏らす。その異物感と、異物であるにもかかわらず極めて日常的である、という眩暈感。
 結果生じる感興はさまざまでも、氏の作品には一貫して、この語り口が用いられている。非日常の中に混在する極めて日常的な感性、そして日常的な感性に率直で、衒いを持たない氏の在り方こそが、氏の得難い個性なのだ」


 小野不由美氏は、最初に本書を読んだとき、「短いのでやや食い足りない感がしないでもない」と思ったそうです。そのことについて、小野氏は「ものすごく常識的なことの確認になって恐縮なのだが、我々の思考は我々を取り巻く環境から有形無形の拘束を受けている。たとえばかつて、重厚長大な小説はよろしくない、という風潮があった。これに対する反動として、あえて重厚長大を求める風潮が生まれた。今から思えば、『夏と花火と私の死体』は、その風潮の中で登場したわけだ。にもかかわらず、本作は重厚長大を目論んではいなかった。簡潔にして明瞭、饒舌に物語るのではなく淡々と物語る。素のままの物語、過剰なものがまるでない。素朴と言えるほど「物語」を、ただ語った、という作風と文体。当時はそれが食い足りなく思えた。だが、すでに重厚長大に疑惑を感じ始めた今になって、この作品はこれで良かったのだ、と思う」と述べています。


 文庫版で全5巻。全部で2563ページもある大長編『屍鬼』を書いた本人の言葉だと思うと、興味深いですね。ちなみに、「夏と花火と私の死体」は文庫版で143ページです。本書には、もうひとつ「優子」という短編も収録されています。この「優子」は、江戸川乱歩の「人でなしの恋」を思わせるような人形ホラーで、わたしの好みでした。


 最後に、「夏と花火と私の死体」は、明らかにインモラルな物語です。わたしはすでに著者のほぼ全作品を読み終えていますが、いずれもインモラルな内容であり、そこが「乙一」の個性であると言ってもいいでしょう。こういう作品を16歳の少年が書き上げた意味を社会的に、また倫理的に語ることも不可能ではありませんが、まあ野暮でしょうから、やめておきましょう。


 物語では、幼い兄妹が必死になって少女の死体を隠そうとしますが、度々ピンチが訪れます。そのピンチをスレスレで切り抜ける描写が多くの読者にスリルを与えたようで、ラストのどんでん返しも高い評価を受けたようです。


 しかし、わたしはまったくスリルなど感じませんでした。死体が誰かに見つかりそうになるたびに、わたしは「早く見つかれ!」と心の中で叫んでいました。正直言って、9歳で死体になった少女がかわいそうで、かわいそうで、仕方がありませんでした。物語の結末を知って、やはり少女がかわいそうだと思いました。少女を探しまわる母親の姿も気の毒だと思いました。けっして、そこにスリルなどは感じませんでした。


 人間は必ず死体になりますが、それを隠すことは絶対に許されません。なぜなら、死者は弔わなければならないからです。


 本書を読み終えたとき、思ったことは、「いつか、五月も弔われてほしい」ということだけでした。早熟な天才作家が書き上げたホラー小説に対して、こんな感想を持つなんて、やっぱり野暮でしょうか?