No.0425 ホラー・ファンタジー 『暗いところで待ち合わせ』 乙一著(幻冬舎文庫)

2011.08.25

 『暗いところで待ち合わせ』乙一著(幻冬舎文庫)を読みました。

 小説『死にぞこないの青』に続く書下ろし長編です。映画化されており、わたしも観ていました。ですので、ストーリーについては知っていましたが、原作は映画を超える素晴らしい名作でした。本書のカバー裏には、次のように内容が紹介されています。

 「視力をなくし、独り静かに暮らすミチル。職場の人間関係に悩むアキヒロ。駅のホームで起きた殺人事件が、寂しい二人を引き合わせた。犯人として追われるアキヒロは、ミチルの家へ逃げ込み、居間の隅にうずくまる。他人の気配に怯えるミチルは、身を守るため、知らない振りをしようと決める。奇妙な同棲生活が始まった―。書き下ろし小説」

 著者は、「あとがき」の冒頭で本書について「警察に追われている男が目の見えない女性の家にだまって勝手に隠れ潜んでしまう」という内容であると述べています。まさに、その通りなのですが、本書は前作『死にぞこないの青』から生まれたということを著者は告白しています。

 主人公の少年が先生からいじめられる物語である『死にぞこないの青』には、プロットの段階で、完成作品にはないエピソードがあったそうです。それは、「主人公の少年が先生のいじめに耐えきれなくなって逃げ出し、目の見えない人の家に勝手に隠れる」というエピソードでした。その部分を削って単純明快な物語にしてしまった著者は、「あとがき」で次のように述べています。

 「今回の『暗いところで待ち合わせ』は、その切り捨てたエピソード部分を、ひとつの作品としてまとめたわけです。正直に言うと、捨てたエピソードがもったいなかったのです。
 枯渇する資源を大切にしなければと思いました。
 僕は大学でエコロジー工学を専攻していましたし」

 本書はじつに不思議な小説ですが、いたるところに著者の非凡な筆力を感じました。たとえば、主人公ミチルが視力を失う次のような場面です。

 「やがて、ミチルの視界は暗闇に包まれた。
 時計の針が深夜の時間帯に固定されたまま、動かなくなったようだった。
 ただし、まったく見えなくなくなったわけではない。太陽や、写真のフラッシュなど、強い光だけはかろうじて暗闇をつき抜けてミチルの視神経にまで届いた。といっても、輝くような光が見えるわけではない。小さな弱々しい赤色の点として、それらは見えた。
 晴れた日に空を見上げると、蝋燭の炎よりもさらに弱々しい赤い太陽が、黒一色の世界に浮かんでいるのだ。ミチルが医者に聞いた話では、完全な盲目という人間は意外と少ないらしい」

 また、家の中に引きこもるミチルの心理を、著者は次のように描写しています。

 「家の中に一人でいるのはきっと安らかにちがいない。悩むことも、だれかとの別れに悲しむことはもうないし、クラクションを鳴らされることもない。何もない見知った暗闇は安全だ。一人でいれば、孤独さえもない。自分に何度もそう言い聞かせる。
 それ以上の幸福な生活を夢見てはいけないのだ。どんなに叫んでも、自分を振りかえってくれる人はいない。自分は一人で生きなくてはいけないのだ」

 そんなミチルが、家の中に潜むアキヒロの存在に気づいたとき、何かが変わります。次の一文は、本書の中でもわたしの一番好きな言葉です。

 「自分ではない他人がいるのだということを、なかったことにはできない。お互いがお互いをいないことにすることなどできなかったのだ。二人ともお互いを知っていると気づいた瞬間から、たとえ無視をしようと、すでにふれあうことは始まっていた」

 本書『暗いところで待ち合わせ』には、素敵なハッピーエンドも用意されています。とかく「インモラル」や「グロテスク」といった印象のある乙一作品の中で、本書はこの上なく「ハートフル」な本でした。

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