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ブッダのことば』

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No.0386

 

 『ブッダのことば』中村元訳(岩波文庫)を再読しました。

 

 本書は、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダを歴史的人物としてとらえたとき、その生前の姿に最も近くまで迫った書とされています。


 『ブッダのことば』という題名は、『スッタニパータ』(Sutta-nipata)の訳です。「スッタ」とは「たていと」「経」の意味であり、「ニパータ」は集成の意味です。本書には、ブッダが明らかにした永遠の真理を伝える言葉が集められています。本書を訳した仏教学者の中村元は、本書の「解説」で次のように述べています。


 「いまここに訳出した『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した1つの聖典である。シナ・日本の仏教にはほとんど知られなかったが、学問的には極めて重要である。これによって、われわれはゴータマ・ブッダその人あるいは最初期の仏教に近づきうる1つの通路をもつからである」


 この『スッタニパータ』の主要部分は、もともと詩として読まれていました。すなわち、単に書物として読まれるものではなく、吟詠されたものだったのです。わたしも、なるべく吟詠するように音読しながら、本書を読みました。


 本書には多くのブッダの言葉が収められていますが、その中で特にわたしの心に残ったものを備忘録的に紹介したいと思います。聖人の言葉にわたしの浅知恵による解説や感想などは一切不要ですので、そのまま紹介させていただきます。


 まず、本書の冒頭には、「かの尊き師、尊き人、覚った人に礼したてまつる」と書かれています。この本を読むには、「めざめた人」であるブッダへの礼が義務づけられているのです。そして、第一「蛇の章」には、次のような言葉が出てきます。「蛇」や「犀の角」といった比喩を使っているのが特徴です。


 「蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。―蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」
 「この世に還り来る縁となる〈煩悩から生ずるもの〉をいささかももたない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。―蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」
 「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」
 「朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」
 「子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め」
 「今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め」


 第一「蛇の章」には、以下のように「破滅」に関する言葉も出てきます。


「栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる」
「みずからは豊かで楽に暮しているのに、年老いて衰えた母や父を養わない人がいる、―これは破滅への門である」
「おびただしい冨あり、黄金あり、食物ある人が、ひとりおいしいものを食べるならば、これは破滅への門である」
「血統を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも己が親戚を軽蔑する人がいる、―これは破滅への門である」
「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものをその度ごとに失う人がいる、―これは破滅への門である」


 第一「蛇の章」では、以下のように「賎しい人」についても語られています。

 

「己れは財豊かであるのに、年老いて衰えた母や父を養わない人、―かれを賤しい人であると知れ」

「母・父・兄弟・姉妹或いは義母を打ち、またはことばで罵る人、―かれを賤しい人であると知れ」

「相手の利益となることを問われたのに不利益を教え、隠し事をして語る人、―かれを賤しい人であると知れ」

「他人の家に行っては美食をもてなされながら、客として来た時には、返礼としてもてなさない人、―かれを賤しい人であると知れ」

「自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、―かれを賤しい人であると知れ」


 第一「蛇の章」では「慈しみ」についても語られています。


「足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない」
「他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」
「何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない」
「また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)」


 第一「蛇の章」では「勝利」についても語られています。


「また身体が死んで臥すときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない」
「犬や野狐や狼や虫類がこれをくらい、烏や鷲やその他の生きものがこれを啄む」
「この世において智慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)のことばを聞いて、このことを完全に了解する。何となればかれは、あるがままに見るからである」
「〈かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう〉と、内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである」
「この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した」
「人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を似て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている」
「このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは〈見る視力が無い〉という以外の何だろう」


 第二「小なる章」では、以下のように「なまぐさ」について語られています。


「粗暴・残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、ものおしみする性で、なんぴとにも与えない人々、―これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない」
「怒り、驕り、強情、反抗心、偽り、嫉妬、ほら吹くこと、極端の高慢、不良の徒と交わること、―これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない」
「この世で、性質が悪く、借金を踏み倒し、密告をし、法廷で偽証し、正義を装い、邪悪を犯す最も劣等な人々、―これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない」
「この世でほしいままに生きものを殺し、他人のものを奪って、かえってかれらを害しようと努め、たちが悪く、残酷で、粗暴で無礼な人々、―これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない」


 第二「小なる章」では、「こよなき幸せ」についても語られています。


「父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、―これがこよなき幸せである」
「施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、―これがこよなき幸せである」
「悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、悪行をゆるがせにしないこと、―これがこよなき幸せである」
「尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、―これがこよなき幸せである」
「耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の〈道の人〉に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと、―これがこよなき幸せである」
「修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、―これがこよなき幸せである」
「世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、―これがこよなき幸せである」
「これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。―これがかれらにとってこよなき幸せである」


 第三「大いなる章」でも、ブッダは大いに語っています。まず、「お供えの菓子を受けるにふさわしい」という以下のような一連の言葉があります。


「諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい」
「全き人(如来)は、平等なるもの(過去の目ざめた人々、諸仏)と等しくして、平等ならざる者どもから遥かに遠ざかっている。かれは無限の智慧あり、この世でもかの世でも汚れに染まることがない。〈全き人〉(如来)はお供えの菓子を受けるにふさわしい」
「こころの執著をすでに断って、何らとらわれるところがなく、この世についてもかの世についてもとらわれることがない〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい」
「こころをひとしく静かにして激流をわたり、最上の知見によって理法を知り、煩悩の汚れを滅しつくして、最後の身体をたもっている〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい」


 第三「大いなる章」には、以下のように「火」や「月」や「水」に関する言葉もあります。いずれも、わたしの大好きな言葉ばかりです。


「火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー〔讃歌〕はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである」
「月は、諸々の星のうちで最上のものである。太陽は、輝くもののうちで最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである」
「人々が満月に向って近づいて合掌し礼拝し敬うように、世人はゴータマを礼拝し敬います」
「心が沈んでしまってはいけない。またやたらに多くのことを考えてはいけない。腥い臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ」
「そのことを深い淵の河水と浅瀬の河水とについて知れ。河底の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで静かに流れる」
「欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである」


 第三「大いなる章」には、以下のように「苦しみ」について語られています。


「執着に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生まれた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である」
「およそ苦しみが起るのは、すべて起動を縁として起る。諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生じずることもない」
「他の人々が『安楽』であると称するものを、諸々の聖者は『苦しみ』であると言う。他の人々が『苦しみ』であると称するものを、諸々の聖者は『安楽』であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている」
「覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。善良なる人々には開顕される。あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法が何であるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない」
「生存の貪欲にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい」
「諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。


 第四「八つの詩句の章」では、以下のように「老い」について語られています。


「ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ」
「人々は『わがものである』と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない」
「人が『これはわがものである』と考える物、―それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという観念に屈してははらない」
「夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない」
「『何の誰それ』という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである」


 第四「八つの詩句の章」には、「死ぬよりも前に」として、次のような言葉があります。


「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない」
「利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆うことがなく、美味に耽溺することもない」
「平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとは思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれには煩悩の燃え盛ることがない」
「依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない」
「諸々の欲望を顧慮することのない人、―かれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛めの結び目は存在しない。かれはすでに執著を渡り了えた」


 そして、最後の章となる第五「彼岸に至る道の章」は、修行する学生個人への問答となっています。わたしは、次の4つの言葉が心に残りました。


「世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である」
「世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう」
「修行者は諸々の欲望に耽ってはならない。こころが混濁していてはならない。一切の事物の真相に熟達し、よく気をつけて遍歴せよ」
「最上の道を修める人は、此岸から彼岸におもむくであろう。それは彼岸に至るための道である。それ故に〈彼岸に至る道〉と名づけられる」


 以上、本書の中から個人的に選んだブッダの言葉を紹介しました。


 中村元によれば、本書は現代のアジア仏教圏にとっても非常に重要な意義を持つそうです。例えば、スリランカでは、結婚式の前日に、僧侶を幾人も招待して、祝福の儀式を行います。その場合に僧侶は、この『スッタニパータ』のうちの「慈しみ」や「宝」や「こよなき幸せ」の一節を唱え、続いて説教を行い、若い2人が新たな人生の旅に出で立つに当っての心得をさとし、祝福を述べるのです。


 その他にも、人心教化のために非常に重んぜられている聖典だというのです。つまり、本書は多分に現代的意義を持っているわけですね。わたしも、本書を読んで、現代にも通用する書物であると思いました。


 孔子の『論語』のブッダ版が本書であると言ってもよいでしょう。合掌。