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ブッダの真理のことば・感興のことば』

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No.0387

 

 『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳(岩波文庫)を再読しました。

 

 本書は、『発句経』の名で知られる「真理のことば(ダンマパダ)」と「感興のことば(ウダーナヴァルガ)」を訳出した本です。ともにブッダの教えを集めたものですが、簡潔な句の中に、人間そのものへの深い反省や生活の指針などが説かれています。


 南方アジア諸国に伝わっている『ダンマパダ(Dhammapada)は、パーリ語で書かれた仏典の中でも最も有名なものだとされています。「ダンマ」とは「法」と訳され、人間の真理という意味です。また「パダ」は「ことば」という意味です。つまり「ダンマパダ」は「真理のことば」と訳されるわけです。


 短い詩集で423の詩句より成っており、全体は26章に分れています。もともと南アジアの諸国で尊ばれて愛誦されてきましたが、近代では西洋諸国でも翻訳されて有名になりました。最も多く西洋の言語に翻訳された仏典と言えるでしょう。日本では大正年間に翻訳が刊行され、昭和になって盛んに読まれるようになりました。


 それでは、『真理のことば(ダンマパダ)』の中から、わたしの心に残った言葉を備忘録的に紹介したいと思います。まず、「真理」や「愚かさ」について以下のように語られています。


 「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。―車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように」
 「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」
 「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、『愚者』だと言われる」
 「愚かな者は、悪いことを行なっても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現われたときには、苦悩を受ける」
 「人々は多いが、彼岸に達する人々は少い。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている」
 「真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸に至るであろう」
 「何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、―かれこそ実に最上の人である」
 「村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい」
 「人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである」
 「最上の真理を見ないで100年生きるよりも、最上の真理を見て1日生きることのほうがすぐれている」


 『真理のことば(ダンマパダ)』では、「死」についても以下のように語られています。


 「大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い」
 「生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない」
 「生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる」


 『真理のことば(ダンマパダ)』では、「愛するもの」について以下のように語られます。


 「愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい」
 「それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない」
 「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?」
 「愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?」


 次に、『感興のことば(ウダーナヴァルガ)』です。日本の学者は「ウダーナ(udana)」を「感興語」と訳すことが多いそうです。ブッダが感興を催したとき、自らから発した言葉であるとされています。問われないのにブッダが自ら説いたという意味で、「無問自説」と訳す学者もいるとか。また「ヴァルガ(Varga)とは「集まり」を意味します。


 それでは、『感興のことば(ウダーナヴァルガ)』の中から、わたしの心に残った言葉を紹介しましょう。冒頭では、「無常」について以下のように語られています。


 「『わたしは若い』と思っていても、死すべきはずの人間は、誰が(自分の)生命をあてにしていてよいだろうか?若い人々でも死んで行くのだ。―男でも女でも、次から次へと―」
 「或る者どもは母胎の中で滅びてしまう。或る者どもは産婦の家で死んでしまう。また或る者どもは這いまわっているうちに、或る者どもは駈け廻っているうちに死んでしまう」
 「老いた人々も、若い人々も、その中間の人々も、順次に去って行く。―熟した果実が枝から落ちて行くように」
 「熟した果実がいつも落ちるおそれがあるように、生れた人はいつでも死ぬおそれがある」
 「陶工のつくった土器のように、人の命もすべて終には壊れてしまう」
 「糸を繰ってひろげて、いかなる織物を織りなそうとも、織る材料(糸巻き)が残り僅かになってしまうように、人の命も同様である」
 「死刑囚が一歩一歩と歩んで行って、刑場におもむくように、人の命も同様である」
 「山から発する川(の水)が流れ去って還らないように、人間の寿命も過ぎ去って、還らない」


 『感興のことば(ウダーナヴァルガ)』では、「戒しめ」「信仰」「道」についても以下のように語られています。


 「聡明な人は、3つの宝をもとめるならば、戒しめをまもれ。―その3つとは、世の人々の称讃(=名誉)と、財の獲得と、死後に天上に楽しむことである」
 「明らかな知慧があり、戒しめをたもつ人は福徳をつくり、ものをわかちあって、この世でもかの世でも、安楽を達成する」
 「信ずる心あり、恥を知り、戒しめをたもち、また財をわかち与える―これらの徳行は、尊い人々のほめたたえることがらである。『この道は崇高なものである』とかれらは説く。これによって、この人は天の神々の世界におもむく」
 「信は人の最高の財である。徳を良く実行したならば、幸せを受ける。真実は、実に諸の飲料のうちでも最も甘美なものである。明らかな知慧によって生きる人は、生きている人々のうちで最もすぐれた人であると言われる」
 「信仰あり、徳行そなわり、ものを執著しないで与え、物惜しみしない人は、どこへ行こうとも、そこで尊ばれる」
 「生きとし生ける者どものあいだにあって、信仰と知慧とを得た賢い人にとっては、それが実に最上の宝である。そのほかの宝はつまらぬものである」
 「究極に住するために、みずからをととのえるために、清らかになるために、迷って流れる生存における生死をなくし亡ぼすために、生存の多くの構成要素を区別して知るために、世間を知る人(=仏)がこの道を説きたもうた」
 「ガンジス河の水が集まり流れて、汚れを離れて海に向うように、善く行なった人(=仏)の説きたもうたこの道も、不死の獲得に向って流れる」
 「昔にはまだ聞いたことのない法輪を転じたもうた人、生きとし生けるものを慈しみたもう人、迷いの生存の彼岸に達したもうた人、神々と人間とのうちで最上である人、―そのようなかたにつねに敬礼すべし」


 『感興のことば(ウダーナヴァルガ)』では、最後に「安らぎ(ニルヴァーナ)」について以下のように語られています。


 「健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の友であり、安らぎ(ニルヴァーナ)は最上の楽しみである」
 「ひとびとは因縁があって善い領域(=天)におもむくのである。ひとびとは因縁があって悪い領域(=地獄など)におもむくのである。ひとびとは因縁があって完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。このように、このことは因縁にもとづいているのである。
 「水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ―、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない」
 「そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する」
 「さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である」
 「これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である」