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ブッダ 神々との対話』

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No.0389

 

 『ブッダ 神々との対話』中村元訳(岩波文庫)を読みました。

 

 原始仏典の一つである『サンユッタ・二カーヤ』(Samyutta-nikaya)の第1集「詩をともなった集」のうちの第1篇から第3篇までの邦訳註解です。『スッタニパータ』と並ぶ貴重な原始仏典として知られ、実際にブッダが発したとされる言葉の数々が紹介されています。


 「サンユッタ・ニカーヤ」とは「主題ごとに整理された教えの集成」の意味で、全部で5集あります。本書には、第1集「詩をともなった集」の113篇が取り上げられています。いずれも、ブッダが神々らと交す言葉を詩の形で記した章をまとめたものです。


 さまざまな人がブッダに問いを発していますが、それらに対して、ブッダがシンプルかつ明快な回答を与えています。ブッダの言葉は後期の仏典に比べて表現は地味ですが、そのぶん真理に近いイメージを与えてくれます。本当の真理の言葉とは複雑ではなく、ひたすらシンプルなのかもしれません。


 さて、本書のタイトルには「神々」という言葉が入っており、「あれ、仏教は仏じゃないの? なぜ神々?」と思われる方がいるかもしれません。本書には「神」とか「神の子」とか「神の娘」とかいろんな名称が出てきますが、訳者の中村元は解説で次のように述べています。


 「仏教においては、世界創造者としての唯一神は、これを認めない。ありとあらゆるものは、因縁、すなわち無数に多くの因果関係によって形成されるというのである。
 その代りに、人間よりもすぐれた者としての多数の神々の存在を認めていた。
 天にも、地にも、日月の中にも、樹木の中にも、多数の神々がいるということを想定したのである。それらはいずれも仏教成立以前から、民衆の間で信奉されていた神々であり、その信仰は民衆に定着している。その神々の性格は多分にギリシャの神々やまたわが国の神々と類似している」


 神の原語は、「輝く」という意味の語源に由来する「deva」です。これはギリシャ語の「theos」やラテン語の「deus」と語源的にも同一起源です。漢訳仏典では、神のことを「天」と訳します。弁才天とか帝釈天という場合の「天」ですね。


 それでは、本書の中で、わたしの心に残った言葉を紹介しましょう。ちなみに、本書においてブッダは「尊師」と呼ばれています。まずは、「死に導かれるさだめ」と題された言葉です。傍らに立って、その神は、尊師のもとで、次の詩句をとなえた。


 「生命は〔死に〕導かれる。寿命は短い。
老いに導かれていった者には、救いがない。
死についてのこの恐ろしさに注視して、
安楽をもたらす善行をなせ」


〔尊師いわく、―〕


「生命は〔死に〕導かれる。寿命は短い。
老いに導かれていった者には、救いがない。
死についてのこの恐ろしさに注視して、
世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ」


 次に、「時は過ぎ去る」と題された以下の言葉です。傍らに立って、その神は、尊師のもとで、次の詩句をとなえた。

 

「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。
青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。
死についてのこの恐ろしさに注視して、
安楽をもたらす善行をなせ」


〔尊師いわく、―〕


 「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。
青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。
死についてのこの恐ろしさに注視して、
世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ」


 このように、本書の言葉は、神の言葉をブッダが基本的に繰り返して、最後の一言だけはブッダの考え方を述べるというスタイルが多いです。


 次に、「高慢を愛する人」と題された以下の言葉です。傍らに立って、その神は、尊師のもとで、次の詩句をとなえた。

 

「高慢を愛する人は、この世で心身を制することがない。
心を統一しない人には沈黙の行がない。
独りで森に住んでいても、ふしだらで怠けているならば、
死の領域を超えて彼岸に達することはできないであろう」


〔尊師いわく、―〕


「慢心を去り、よく心を統一し、心うるわしく、あらゆる事柄について解説していて、独り森に住み、怠ることのない人は、死の領域を超えて、彼岸に渡ることができるであろう」


 また、以下のような神の問いに対して、ブッダが答えていきます。

 

〔神が問うていわく、―〕


「世にはいくつの光明があって、世を照らすのですか。
あなたにおたずねしたいと思って来たのですが、
われらはそれを、どうしたら知ることができるでしょうか?」


〔尊師いわく、―〕


「世には四つの光明がある。ここに第五の光明は存在しない。
昼には太陽が輝き、夜には月が照らし、
また、火は昼夜に、あちこちで照らす。
正覚者(ブッダ)は、熱し輝くもののうちで最上の者である。これは無上の光である」と。


〔神いわく、―〕


「何が人を生まれさせるのか? 人の何ものが走り廻るのか? 
何ものが輪廻に堕しているのであるか? 
人にとって大きな恐怖とは、何であるか?」


〔尊師いわく、―〕


「妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。
生存するものが、輪廻に堕している。
人にとっての大きな恐怖とは、苦悩である」


〔神いわく、―〕


「世の人々は何に縛られているのであろうか? 
それへの経めぐり歩きは、何であるのか? 
何を断つことによって一切の束縛の絆を断ち切るのであるか?」


〔尊師いわく、―〕


「世の人々は快楽によって縛られている。
人々がくよくよと思慮するのは、逸れてよろめき歩くことである。
妄執を断つことによって一切の束縛の絆を断ち切るのである」


〔神いわく、―〕


「世の人々は、何によって縛られているのか? 
何を制することによって、解脱するのか?
何を断つことによって一切の束縛の絆を断ち切るのであるか?」


〔尊師いわく、―〕


「世の人々は、欲求によって縛られている。
〔しかし〕欲求を制することによって解脱する。
欲求を断つことによって一切の束縛の絆を断ち切るのである」


〔神いわく、―〕


「何ものを断ち切って、安らかに臥すのであるか? 
何ものを断ち切って、悲しまないのであるか? 
いかなる一つのものを滅ぼすことを、あなたは好ましく思うのですか? ゴータマよ」


〔尊師いわく、―〕


「怒りを断ち切って、安らかに臥す。怒りを断ち切って、悲しまない。
その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを、聖者たちは称讃する。
神よ。それを断ち切ったならば、悲しむことがない」


〔神いわく、―〕


「この世で、人にとって最上の財は、何であるか? 
何を良く実行したならば、幸せをもたらすか? 
実に諸々の飲料のうちですぐれて甘美なるものは、何であるか? 
どのように生きる人を、最上の生活と呼ぶのであるか?」」


〔尊師いわく、―〕


「信(まこと)は、この世において人の最高の財である。
徳を良く実行したならば、幸せをもたらす。
真実は、実に諸々の飲料のうちで、すぐれて甘美なるものである。
明らかな智慧によって生きる人を、最上の生活と呼ぶ」


〔神いわく、―〕


「この世で、多くの人々は何を恐れているのでしょうか?
道は、種々のしかたで説かれたが、あなたにおたずねします。智慧豊かなゴータマよ。――何に安住したならば、かの来世を恐れないですむでしょうか?」


〔尊師いわく、―〕


「ことばと心を正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、
もしも飲食豊かな〔富んだ〕家に住んでいるならば、
〔一〕信(まこと)あり、〔ニ〕柔和で、〔三〕よく分ち与え、〔四〕温かい心でいるならば、
これらの四つの事柄に安住している人は、来世を恐れる要がない」」


〔神いわく、―〕


「〔自分の〕利益を求めている人は、何を与えてはならないのか? 
人は、何を捨て去ってはならないのであるか? 
いかなる善きものを解き放つべきであろうか? 
また、いかなる悪を放ってはならないのであろうか?」


〔尊師いわく、―〕


「人は〔利を求めて〕自分を与えてはならない。
自分を捨て去ってはならない。人は、善い〔やさしい〕ことばを放つべきである。
悪い〔粗暴な〕ことばを放ってはならない。
〔やさしいことばを口に出せ。荒々しいことばを口に出すな〕」


 最後に、ブッダが足を負傷したときのエピソードを紹介したいと思います。「砕かれた破片」という話で、あるときブッダが王舎城のうちのマッダクッチという名の「鹿の園」に滞在していた頃のことです。


 「そのとき、尊師の足が、砕かれた石の破片で傷ついた。尊師には劇しい痛みが起こり、全身にわたって、鋭く、荒く、くい入る、不快な、好ましからぬ苦痛が起こったが、尊師は、心を落ち着けて、気を静めて、それを堪え忍び、悩まされることがなかった。
 さて尊師は、大衣を四重に畳んで、右脇を下にして、右足の上に左足をのせて、心を落ち着けて、しっかりと気をつけて、獅子が臥すようなすがたを示した」


 この様子を見た、ある神はブッダのもとで次の感興の言葉を発しました。


 「精神統一によって修養を積み、解脱した心を見よ。―上ずったこともなく、沈みこむこともなく、自己の潜在的形成力によってその行いが抑えられることもない。
 このような、すばらしい人、獅子のような人、駿馬のような人、牡牛のような人、軛をつけられた荷牛のような人、修養のできている人、に挑もうと思う人がいるなら、〈見る力のないこと〉以外の何であろうか?」


 わたしは、この「砕かれた破片」の言葉を知って、大変驚きました。なぜなら、わたしが足を骨折しているときに初めて、この言葉を知ったからです。


 さらに驚くべきは、ブッダが足を負傷したときの言葉は、本書の続篇である『ブッダ 悪魔との対話』にも出てきたのです。おそらく足の怪我による苦痛にも心を乱されないことを説いているのでしょうが、自分が足を怪我している時期だけに、非常な説得力をもってブッダの言葉がわたしの心の中に入り込んできたのです。合掌。