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ブッダ 悪魔との対話』

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No.0390

 

 『ブッダ 悪魔との対話』中村元訳(岩波文庫)を読みました。

 

 原始仏典の一つである『サンユッタ・二カーヤ』(Samyutta-nikaya)の第1集「詩をともなった集」のうちの第4篇から第11篇までの邦訳註解です。


 本書に収められた7つの篇は、それぞれ、「悪魔についての集成」「尼僧に関する集成」「梵天に関する集成」「バラモンに関する集成」「ヴァンギーサ長老についての集成」「林に関する集成」「ヤッカについての集成」「サッカ(帝釈天)に関する集成」です。


 悪魔をはじめとしたさまざまな相手との対話から、はるかな昔、貧乏、病、死、戦争、煩悩などにうちひしがれた人々の姿が浮かび上がってきます。そして、それらの人々の間をたゆみなく歩き、彼らの苦しみを救ったブッダの姿が生き生きとよみがえってきます。本書で最も興味深いのは、なんといっても、悪魔とブッダの対決の場面です。


 たとえば、悪魔・悪しき者は、農夫のすがたを現わします。大きな鋤を肩にかけて、長い棒を手に髪を振り乱し、大麻の衣を着て、足は泥にまみれたままで、ブッダに近づき、次のように言います。


 「修行者よ。眼はわたしのものです。色かたちはわたしのものです。
 眼が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものです。
 修行者よ。そなたは、どこへ行ったら、わたしから脱れられるだろうか?」 


 悪魔は、五官のすべてが自分のものだと主張します。そして、ついには心までも自分の手中にあると言い張ります。これに対して、ブッダは次のように述べるのでした。


 「悪しきものよ。眼はそなたのものである。色かたちはそなたのものである。
 眼の接触から生じた識別領域はそなたのものである。
 しかし眼が存在せず、色かたちが存在せず、眼の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない」


 このようにブッダは、悪魔の「五官は自分のものだ」という主張を逐一反論します。そして、最後にブッダは「心」について次のように述べます。


 「悪しきものよ、心はそなたのものである。考えられるものは、そなたのものである。
 しかし心が存在せず、考えられるものが存在せず、心の接触から生ずる識別領域の存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない」


 言うまでもなく、悪魔とはブッダにとって最大の敵です。そして、かのイエス・キリストにとっても最大の敵でした。


 鎌田東二著『呪殺・魔境論』(集英社)には、ブッダとイエスの悪魔への対処の仕方が詳しく比較されてており、非常に興味深いです。『新約聖書』の「マタイによる福音書」や「ルカ伝」によれば、イエスは悪魔の「誘惑」を体験します。しかし、イエスはこれをすべて神の名によって退けるのです。


 すなわち、イエスは絶対者に拠って悪魔を撃退したわけです。いっぽう、ブッダの場合は逆に「存在しないところ」、つまり「無」をもって悪魔を退散させました。このあたりは、キリスト教と仏教の違いを考える上でも非常に興味深いと思います。


 じつは、本書に出てくる最初の言葉で、ブッダは悪魔を打ち負かしています。それは、以下のような言葉です。


 「不死に達するための苦行なるものは、
 すべてのためにならぬものであると知って、
 乾いた陸地にのり上げた船や艫のように、
 全く役に立たぬものである。
 さとりに至る道―戒めと、精神統一と、智慧と―を修めて、
 わたしは最高の清浄に達した。破滅をもたらす者よ。お前は打ち負かされたのだ」


 面白いのは、全篇を通じて、悪魔がブッダにいろんなことを囁くのですが、そのたびにブッダは「この者は悪魔・悪しき者なのだ」と知って、詩をもって答えるのです。


 その言葉は多岐に渡りますが、いずれの場合も、ブッダの言葉を聞いた悪魔は「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消滅してしまうことです。このパターンが毎回繰り返されるのです。これは、一種の形式詩のようなものだと思いました。


 本書の中に出てくるブッダの言葉で、心に残ったものを紹介しましょう。まずは、「寿命」に関する言葉です。


 「人間の寿命は短い。立派な人はそれを軽んぜよ。
 頭髪に火がついて燃えている人のようにふるまえ。
 死が来ないということはあり得ないからである」


 「修行僧たちよ。この人間の寿命は短い。来世には行かなければならぬ。
 善をなさねばならぬ。清浄行を行わねばならぬ。
 生まれた者が死なないということはあり得ない。
 たとい永く生きたとしても、百歳か、あるいはそれよりも少し長いだけである」


 「昼夜は過ぎ行き、生命はそこなわれ、人間の寿命は尽きる。―小川の水のように」


 そして、先程も触れましたが、五官についての言葉です。


 「快く感ぜられる色かたち、音声、味、香り、触れられるもの、―これらに対するわたしの欲望は去ってしまった。そなたは打ち負かされたのだ。破滅をもたらす者よ」


 「色かたちと、音声と、味と、香りと、触れられるものと、ひとえに思考の対象たるものと、―これは世人をおびきよせる恐ろしい餌である。
 世人はそれにうっとりとしてまともに受けている。ブッダの弟子は、これを超越して、気をつけていて、悪魔の領域を超えて、太陽のように輝く」


 最後に、本書の前篇である『ブッダ 神々との対話』には「砕かれた破片」という、ブッダが足を負傷したときのエピソードが登場しました。面白いことに、本書にも同じような話が出てきます。「砕かれた破片」という同じ題名で、状況もまったく同じです。ブッダが王舎城のうちのマッダグッチという〈鹿の園〉にとどまっていたときのことです。


 「そのとき尊師の足が岩の破片で傷つけられた。実に尊師の苦痛は、身にこたえ、激しく、苦しく、烈しく、ひどく、鋭く、不快で、不愉快であった。
 それらの苦痛のうちにあっても、尊師は、よく気を落ち着けて、はっきりと自覚して、心の害われることなく、堪え忍んでおられた」


 そこで悪魔・悪しき者がやって来て、ブッダに近づきます。近づいてからブッダに向って、詩をもって次のように語りかけます。


 「あなたは、ものぐさで臥ているのですか? 
 あるいは詩作に耽って臥ているのですか?
 あなたのなすべき事柄は、数多くあるではありませんか?
 人里はなれた休息所に、眠そうな顔をして、独りで、このように眠りに耽っているのはどうしてですか?」と。


 この悪魔の言葉に対して、ブッダは次のように答えます。


 「わたしは、ものぐさで臥ているのではない。
 また詩作に耽っているのでもない。
 わたしは目的を達成し、憂いを離れている。
 わたしは、一切の生きとし生けるものを憐れんで、人里はなれた休息所に、ひとり臥すのである。矢が胸を貫いて、心臓が激しくどきどきと動悸している人々でも、矢がささっているのに、眠ることができる。
 〔煩悩の〕矢を離れたわたしがどうして眠らないということがあろうか。
 めざめているが気がかりもなく、また眠るのを恐れることもない。
 夜も昼も、わたしを後悔させて苦しめることがない。
 世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。
 それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐みながら、われは眠る」


 このブッダの言葉を聞いた悪魔が、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せたことは言うまでもありません。


 気がつけば、わたしの足の怪我もいつの間にか癒えておりました。合掌。