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論語力』

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No.0392

 

 『論語力』齋藤孝著(ちくま新書)を読みました。

 

 于丹著、孔健監訳で同じ書名の本があります。本書の著者・齋藤孝氏は日本を代表する教育学者で、著書の数も膨大です。ここ数年は、「力」という言葉が最後に入った書名が多いようです。本書も、そんな流れから『論語力』と名づけられたのでしょう。


 言うまでもなく、『論語』は多くの人々の「精神の基準」となった大古典です。そこには、学びへの意欲を高め、社会の中での自分の在り方を探るヒントとなる多くの言葉が収められています。また、『論語』に登場する孔子は、柔軟かつ合理的に、弟子たちに対してそれぞれに配慮した言葉をかけています。著者は、この孔子の生き方が多くの現代人にとって最高のロールモデルになると言います。


 しかし、『論語』を1回ざっと眺めてみただけでは、なかなかその面白さがわかりません。まとまったストーリーがあるわけでもなく、テーマごとに編集されているわけでもないからです。500ほどの非常に断片的な言葉ややりとりが、いかにも無造作に収められているだけのように見えるのです。このことを踏まえて、著者は「はじめに」で次のように述べます。


 「実は、何度も何度も読み返していくと、その言葉が身体になじんでくるにしたがって、この一見バラバラな断片から、生き生きと『論語の世界』が浮きあがってきて、それはとても気持ちがよいものなのですが、そこまでいかないうちに、『なんだか退屈だなあ』となってしまう危険性も大いにあります。それではあまりにももったいない」


 そこで著者は、『論語』を読んでいく上で「こういうところに注目して読んでいくとおもしろいのではないか」というポイントを本書で紹介してくれます。


 本書の目次構成は、以下のようになっています。

 

「はじめに」
序章 つながる力
第1章 他者のリクエストに応える~自己実現と社会
第2章 本物の合理主義を身につける~非神秘性・実践性・柔軟性
第3章 学ぶということ~人生の作り上げ方
第4章 人間の軸とは何か~〈礼〉と〈仁〉
第5章 弟子から読む『論語』~魅力的な脇役たち
「おわりに」


 序章で、著者は『論語』のキーワードとして「つながり」をあげます。一見、脈絡もない言葉やエピソードが、バラバラに収められているだけの本に思える『論語』ですが、何度も読み返していると、意外なことにそこに強く感じるのは「つながり」だというのです。


 『論語』のあちこちの言葉が実はそれぞれ深く関連しており、この「つながり方」を実感するのが、『論語』を読むコツのひとつだと著者は言います。また、「つながり」は状況とのつながりでもあります。そこで発せられた言葉は、ライブの言葉になります。著者は述べます。


 「孔子の言葉は、イエスの言葉、ゴータマ・ブッダの言葉と同じように、ある状況の中で発せられた言葉、ライブの言葉です。そのライブの言葉がどうしてこんなに普遍的な力を持っているのか。これは一見不思議なことに思えます。
 たとえば、私たちが本を書くときは、その場その場の状況だけにとどまるものではなく、ずっと残るようなものを目指して言葉を選びます。状況とは少し距離をおいた方が、長く残るものになるのではないかと考えるからです。
 しかし、聖書、仏典、『論語』といった、人類の歴史の中で最も長い生命力を持ち、今でも影響を与え続けている本というのは、状況の中で発せられた言葉なのです。
 そして、その言葉は、それぞれの特殊な状況から切り離されても、諺のように、あるいはスローガンのようなものになって、普遍的な知恵として人々に深い感銘を与えます」


 まさに「温故知新」という言葉そのものですが、この言葉も『論語』に由来します。状況をまったく無視してしまって、普遍的な真理だけを述べようとするとどうなるか。そこには生きた人間の言葉の魅力が欠けてしまうとして、著者は次のように述べます。


 「『論語』の魅力というのは、孔子の「肉声」が聞こえてくる、というところにあります。
 諺として成立するほどの普遍性を持ちながら、そこには孔子の人格・身体性が彷彿としてくる。肉を持った言葉です。そこには論理だけではなく、感情がこもっている。普遍的な理だけではなく、状況の中で揺れ動く感情、勢いというものが、言葉の生命力になっているのです」


 『論語』には、さまざまな価値あるテーマが込められています。その中のひとつに、「個人と社会との関係のあり方」があります。


 孔子はブッダ、ソクラテス、イエスと並んで世界の「四大聖人」、あるいは「人類の教師」と呼ばれる人物です。しかし、社会との関わり方という観点から見ると、孔子は他の3人とは明らかに違っています。ブッダは政治や社会から離れて真理を追究しましたし、ソクラテスとイエスは社会から受け入れられず最後には死刑に処せられます。


 孔子のみが教育者として社会の中で活動しながら、天寿を全うしています。孔子は終生、社会へ参画する意欲を失いませんでしたが、それは旅を重ねた人生によく表れています。著者は次のように述べます。


 「孔子の旅は、上司を求めての就職活動という面があります。
 これも、イエスやブッダやソクラテスには考えられない。ブッダなんかは、王族の出で将来は国を治めていくことを期待されていたのに、それを捨ててしまったくらいです。就職活動するイエスもイメージできない。ソクラテスはひとりの完全な市民で、だれかに仕えたりはしない。ところが、孔子はまさに、上下の関係を軸にした社会の中に、自分の活動の場を見いだそうとしています。
 イエスやソクラテスは、たしかに立派な人間ですけれども、これを真似して生きろ、死刑になってもかまわないから自分の信念を貫け、とは凡人には言えません。
 その点、孔子の態度は、現代日本人にも非常に参考になります。多くの人は、やはり上下関係のある組織に属し、そこで生きていくしかない。その点、孔子は非常にロールモデルにもしやすい聖人、と言えるのです」


 孔子は、なぜ社会の中で活動し続けたのでしょうか? それは、「人間の生きる場所は人間社会なのだ。自己実現するというのも、それは結局のところ、社会を離れてはありえないのだ」という確信があったからだというのです。


 本書には各章の終わりごとにコラムが収められています。その中で、「東洋の対話と西洋の対話」というコラムが特に興味深かったです。そのコラムは、次のような書き出しで始まっています。


 「およそ2500年前、中国で『論語』の基になった対話がかわされていたころ、ギリシャでは、プラトンによって、ソクラテスを主人公にした対話編とよばれる書物が、次々と書かれていました。プラトンの著作は、西洋世界にとって、『聖書』と並ぶ古典ですが、それが、『論語』と同じく『学ぶことの意義』を説き、また、『対話』というスタイルで書かれていることは、非常に興味深い一致です」


 『論語』とプラトンの著作の共通点を著者は次のように指摘します。


 「孔子も、プラトンが描くソクラテスも、目指しているのは『真理』です。そして、その場合の『真理』というのは、自然科学的な意味での事実ではなく、『人としてよく生きるとはどういうことか』という問題に対する回答です。そして、その真理を追求するのに、対話が重要な役割を果たしていることも共通しています」


 しかし、両者には異なっている点もあります。『論語』が短い断片で構成されているのに対して、プラトンの著作は非常に長くてボリュームがあります。プラトンの『国家』や『法律』といった大作は、『論語』全体よりもははるかに分量がほどです。なぜ、このように言葉にボリュームの差が出るのか。


 そもそもまったく異なるプロセスを経て生み出された書物であるという事情もあるでしょうが、著者は、もともとの対話のスタイルや物事を探求する意識自体に差があるのではないかとして、次のように書いています。


 「孔子の場合、『目指すべきもの』は、すでにどういうものであるかは決まっています。『仁とは何か』と考えることはあっても、いろいろ考えた結果、仁とは何かが、かえってわからなくなってしまった、という結果に至ることはありません。そこまで突き詰めたことはしない。すでに述べたように、『論語』では、追求すべきものは明らかで、問題は、それを求めるための「回路」にどうやって入っていくか、どうやってそこからそれずに歩んでいけるか、ということです。それに対して、ソクラテス、プラトンが追い求めるのは、かなり徹底した意味での『認識』です」


 彼らの物事を探求する意識の違いは、議論というものによく表れます。著者は、続けて次のように書いています。


 「ソクラテスが、議論の中でとった立場、『相手を矛盾に追い込んで、そこからより高い立場を導き出す』というこの方法は、以降、西洋の伝統になっていきます。
 近代哲学の大物、ヘーゲルは、この伝統的な方法を洗練された形で定式化し、自分の哲学の主要な方法論としました。『弁証法』です」


 東洋には馴染みにくいけれども議論というスタイルが、西洋では大いに発展してきたこともよく理解できますね。議論から生まれる矛盾でさえもエネルギーにして、そこから一段高い認識が生み出されるのだというわけです。「東洋の対話と西洋の対話」は、東洋と西洋の思想的違いを説明する、非常に良いコラムだと思いました。


 最後に、『論語』や孔子を語るのならば、やはり「礼」が大きなテーマになります。著者が「礼」をどうとらえているかというと、ひとまずは「心のこもった形式」です。


 さらに積極的にいえば、「形式を通すことによって心がこもってくる」という効用が期待できるといいます。たとえば、スポーツの試合で勝てば、誰でも嬉しい。負ければ、誰でも悔しい。でも、ゲームが終われば、自分の気持ちをぐっとこらえて深々と一礼をする。また、相手と握手をしたり、相手チームの監督のところに挨拶に行ったりする。こういった行為によって、負けた悔しさや、勝って高ぶる気持ちを、あまりこじらせないように上手にコントロールすることができるとして、著者は次のように述べます。


 「自分ひとりの心の中でだけでは、その自分自身の心ですらも、十分うまくは制御できないものです。それを一回「礼」という形式を使って外に出す。そうすることによって、心がすっと落ち着く。そして、このようなとき、礼には一定の強制力がある、というのにも有効性があることがわかると思います。人間には、実際に『やってみる』前に、なんだかんだと言い訳を用意して行動に移さないケースが多いものですが、そこできちんと行動させる力が『礼』にはあるのです」


 また著者は、もうひとつ重要なことを指摘します。それは、「形」にしてしまえば、それが誰にでもできるようになるということ。正確にいえば、誰もが「学んで習得できる」ものになるということです。これは、まさに『論語』で展開されている孔子の思想そのものです。わたしは、非常にわかりやすい「礼」についての説明だと感心しました。


 やはり、著者の説明能力の高さは現代日本において最高レベルにあります。本書は、「学び」を軸にして人生を向上させる優れた『論語』入門だと思います。