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身辺怪記』

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No.0347

 

 『身辺怪記』坂東眞砂子著(角川文庫)を読みました。

 

 現代日本を代表するホラー小説家による初のエッセイ集です。いろんな意味で、わたしの心に強く残る1冊でした。


 著者がホラー小説を書くとき、執筆中に身の周りで怪現象が頻発するそうです。


 著者はよく霊的に敏感な人から、「気をつけたほうがいいよ」と耳打ちされるそうです。


 もちろん著者が怖い話を書いているからですが、「この世のものではない事柄をテーマにするのは、心してかからないと危険らしい」と書いています。


 それでも、著者が怖い話を書こうと取材に入ると、不気味なことが起こりはじめます。


 本書の冒頭の「身辺怪記」というエッセイで、著者は次のように書いています。


 「一作目の『死国』では、舞台となった四国霊場のひとつ、禅師峰寺を訪ねて行った日の晩、悪夢にうなされた。血の池から、子供たちがぞろぞろと這いあがってくる。これは夢だ、と思って、目を覚ました。


 ああ、よかった、と蒲団の中でほっとした時、隣に別の蒲団が見えた。いつも私は部屋で一人で寝ている。おかしいな、と思ったとたん、隣の蒲団の中から、がばっ、と血まみれの骸骨が飛びでてきて、私の腕に喰いついた」


 『死国』が印刷にまわったくらいの頃にも、怪現象が起きました。著者は、次のように書いています。


 「近所に住む友人のYさんが、妙なことをいいだした。『死国』では、私は『かごめかごめ』の童謡を下敷きにしていたのだが、彼女の家の留守番電話に、頻繁に『かごめかごめ』の歌が入るようになったというのだ。誰がかけているかわからないまま、機械音の歌が、延々繰り返し録音されている。本の発売と共に、その現象も収まった」


 さらに著者は、『死国』に続く作品でも怪現象が起きたことを次のように書いています。


 「『狗神』の時は、ワープロが一回壊れ、『蛇鏡』になると、修理したばかりのそのワープロがまたおかしくなった。
 しかも尋常の様子ではない。画面がふわあっと暗くなっていき、文字がそれこそ蛇のようにくねりだす。と、突然、ぱっと元通りになったかと思うと、今度はじりっじりっと画面の隅へと寄っていく。まるで文字が身を捩って逃げていきたがってる気がする。ついに修理に出したが、プリンターの故障だといわれただけだった」


 このような怪奇現象についてのエピソードの他にも、本書にはさまざまな興味深いエッセイが収められています。たとえば、現代日本人の心の奥底にひそむ土俗神への信仰心、古都の放つ魔力、異国の地での神秘あふれる体験、人々の心をとらえてやまぬ神話や伝説などなど・・・・・。その中でも、本にまつわる話を気に入りました。


 「夢の残り香」というエッセイでは、子どもの頃の著者が本の匂いが大好きだったことが綴られています。革製のランドセル、新しいノート、村の公民館の木の床、猫の腹毛・・・・・幼い頃の著者はそれらの匂いに鼻を埋めては陶然としたそうです。


 そんな「好きな匂い」の中に、本の匂いも入っていたというのです。


 著者は多くの本を読み漁りましたが、その内容が思い出せないといいます。題名を挙げられるほど気にいった本でも、物語の断片しか浮かばないというのです。


 著者は、「記憶に残るのは、ただ、あんな雰囲気の話だった、あんな感じの本だった、というような曖昧な印象でしかない。内容よりも、挿絵や表紙や手触りのほうを覚えている」と書いています。このことを著者は実に恥ずかしいことだと内心思っていたそうですが、ある大手書店の副社長氏にこんなことを聞いたそうです。


 「売れる本というのはね、段ボールの箱を開いた時に、匂いでわかるんですよ。それは本全体の持つ匂いのようなものだと思うんです。手触り、肌触り、表紙、題名。そういったものがすべて合わさって、ひとつの匂いを放つんですね」


 ここにも「本の匂い」を語る人がいたわけですが、とても素敵な言葉だと思いました。


 また、「藁半紙の本」というエッセイにも、著者の本に対する愛が溢れています。著者は、幼い頃の思い出について次のように書いています。


 「子供の頃、本屋に行って、母親から『今日は、好きな本を一冊、買ってあげる』といわれると、最高に幸せになった。そうなると、胸をどきどきさせながら、本棚の前を行ったりきたり。一冊の本を選ぶために、一時間でも費やしたものである」


 しかし、最高に幸せな時はそう頻繁には訪れませんでした。著者は書きます。


 「だけど、こんな幸運が巡ってくるのは、誕生日に父親のボーナス費、夏休みと正月くらいのものだ。そのたびに私は、本屋の子供の本のコーナーにへばりつき、一生に一度の買物だといわんばかりの真剣さで選んだ」


 そして、著者は次のように非常に重要なことを述べています。


 「思うに、子供の時の気分の高揚は、本自体にあったというより、親に買ってもらうという行為自体に根ざしていたのだ。両親が私に本を買ってやろうという気持ちになるのは、まるで神様の気まぐれのように予測不能のことだった。そして、そういう幸運に恵まれると、私には奇跡が起きたように思えたのだろう。だからこそ、その機会は貴重であり、その貴重な機会に与えられたものは宝物となったのだ」


 本が好きでたまらない人は、この文章を読んでうなずくのではないかと思います。わたしも、両親から本を買ってもらうことほど幸福なことはありませんでした。


 親から買ってもらった本で、わたしが記憶している最初のものは、講談社から出ていた「ディズニー名作童話館」のうちの『みにくいアヒルの子』でした。


 実家の近くにあった小さな書店から購入した本でした。わたしは、その本を何度も何度も読みました。いや、母親から読んで聞かせてもらいました。


 それから、「ディズニー名作童話館」シリーズの中から毎月1冊づつ買ってもらいました。


 全巻を一度に購入するのではなく、毎月1冊づつというところが良かったと思います。


 幼いわたしは同じ本をひたすら1ヶ月間読み続け、内容も暗記したほどでした。


 そのシリーズで、『ダンボ』や『バンビ』を読み、『白雪姫』や『シンデレラ』を読み、『ピノキオ』や『ジャングル・ブック』を読んだのです。


 それらの本を読む時間は、まるで魔法のような時間でした。


 また、次の新しい本を買ってもらったときは、もう天にも昇るくらい嬉しかったです。


 あの頃、わたしは本を読む楽しさ、本を手に入れる喜びを知ったように思います。


 わたしのディズニー本は、その後、弟が読み、2人の娘たちが読みました。


 両親から本を買ってもらう習慣を持てて、わたしは幸せでした。


 そして、本への愛情に満ちたエッセイの最後に書かれている次の言葉を読んで、わたしは涙が出るほど強く共感するのでした。


 「自分の稼いだ金で好きな本を何冊でも買えるようになった今は、もう決して味わえない感覚である。人は成長するに従って、何かを得て何かを失う。私は確実に、本に対するあの崇高なる感情を失ったのである」