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もう、ひとりにさせない』

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No.0353

 

 『もう、ひとりにさせない』奥田知志著(いのちのことば社)を読みました。

 

 先日、著者から直接手渡していただいた本です。早速読んでみて、非常に考えさせられ、大いに共感しました。


 サブタイトルの「わが父の家にはすみか多し」は、『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」に出てくる言葉です。本書には、他にも『聖書』の言葉がたくさん出てきます。


 わたしが「隣人愛の実践者」と名づけた著者は、プロテスタントの牧師でありながら、もう22年もホームレスの人々の支援活動を続けておられます。


 NPO法人・北九州ホームレス支援機構理事長であるだけでなく、全国組織であるホームレス支援全国ネットワーク代表も務めておられます。


 著者は、ある新聞記者から「奥田さんがホームレス支援をしておられるキリスト教的な背景には、何があるのですか?」と質問をされたことがあるそうです。


 著者は、質問者が期待している答えが、いわゆる「キリスト教的な無償の愛」であろうことが容易に想像がつき、次のような模範解答が頭に浮かんだそうです。


 「キリスト教は愛の宗教です。イエス・キリストは隣人を愛せよと教えられています。しかもその愛は、アガペーという言葉で、すなわち無償の愛とか自己犠牲の愛と言われるものです。罪のないイエスが私たちのために十字架にかかってくださった。このような無償の愛こそがキリスト教的愛なのです。マザー・テレサを御覧なさい。自分を顧みず、ただ貧しい人に仕え、与え続けられました。それがクリスチャンというものです。それゆえに、私はホームレス支援を続けているのです」


 こう答えれば「愛の宗教」の面目も立つと思いながらも、著者は「それは私にとって事実ではない。私は、決してそんなふうに答えることができない」と正直に告白します。


 では、著者のホームレス支援はキリスト教とは無関係なのかといえば、そうではありません。その背景には間違いなく、聖書のみことばやキリスト教信仰があるのです。ギリシャ語の「アガペー」は「無償の愛」とされます。クリスチャンは常にこの「愛」を意識すべきであり、自己愛に完結してはなりません。


 しかし、著者がホームレス支援の現場でしがみつくように認識している「キリスト教的背景」は、そのようなことではないというのです。


 著者は、夜になると路上で寝るホームレスの人々に声をかけて回ります。夜回りをした数時間後、著者は彼らを路上に残したまま自宅の暖かい部屋に戻り、子どもたちが眠るベッドにもぐり込みます。ついさっきまで、路上生活者たちに親身に声をかけていた自分が暖かい寝床にいることに対し、著者は「私はいったい何をやっているんだろう」と自問するそうです。


 ですから、著者はホームレス支援の現場でアガペーを実践しているので決してなく、それどころか全く逆で、夜間パトロールのたびに、自分がいかにアガペーから程遠い存在であるかを思い知らされるというのです。そして、ここが重要なのですが、その時点で著者は「キリスト教的背景」にたどり着く、いやたどり着かざるをえないというのです。


 その「キリスト教的背景」とは何か。イエスは刑場の十字架の上で、自分を殺そうとする人々のために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分でわからないのです」と祈りました。このことを踏まえて、著者は次のように書いています。


 「かわいそうな人を慈しむことは、あるいは可能かもしれない。しかし、自分を殺す者のためにとりなし、その者のために神の赦しを請うことなどできるだろうか。アガペーは『無償の愛』ではあるが、それは『神の愛』を指す言葉だと思う。それは、容易には人間が行うことも、真似することもできない『神の業』なのだ。
 私は、十字架において明らかにされた『神の愛』によって、なんとか生きているにすぎない。『何をしているのかわからない』とは、ほかならぬ私のことなのだ。『アガペー』は、私のような不完全で不徹底な者を赦し、結局は自己本位にしか生きていない私をとりなす『神の愛』を言う。失礼ながら、かのマザー・テレサもアガペーを実践した人ではなく(当然私などとは比較にならないほど徹底しておられたが)、アガペー(神の愛)によって、やりきれない自分を赦され、励まされ、そしてそれでもなお、キリストに従う道を歩み続けていたのだと思う」


 このように、著者のホームレス支援には覚悟があります。いわば「筋金入り」なのです。ホームレス支援において重要なのは、「ハウスレス」と「ホームレス」という2つの困窮という視点です。このことを、著者は何度も本書で繰り返し強調しています。ハウスレスは「家」に象徴される、食糧、衣料、医療、職などあらゆる物理的困窮。ホームレスは「家族」に象徴されてきた関係を失っていること、すなわち関係的困窮。


 著者は、この2つの視点から困窮者の支援を行ってきました。路上で亡くなる人の多くが、「無縁仏」として最期を迎えます。ホームレス支援は、物理的困窮=ハウスレスとの闘いであると同時に、この無縁=ホームレスとの闘いでもあるのです。 「畳の上で死にたい」という切実な願いに応えてアパート入居の支援を行ったとしても、それですべての問題が解決されたわけではないと著者は述べます。


 そこから、本来の「問い」が始まるからです。それは、「自分の最期はだれが看取ってくれるだろうか」という問いです。この問いこそが、ハウスレスを脱しても、いまだホームレス状態にある人の問いだというのです。


 著者がホームレス支援活動を始めてすぐの頃、深夜に中学生が、寝ている野宿者を襲撃するという事件が頻発しました。著者は大きな衝撃を受けるととともに、夜中の1時、2時に町をウロウロしている中学生もまた家はあっても帰る場所のない「ホームレス」であることに気づきます。著者は、次のように書いています。


 「中学生とホームレス―共に絆(ホーム)を失った人たち。家庭崩壊、学級崩壊、地域の崩壊、関係がことごとく崩壊する時代に私たちは生きている。野宿ではないが、小学生のホームレスがいるのではないか。サラリーマンのホームレスがあおり、ホームレス老人が孤独死を遂げる。家(ハウス)には住んでいるが、帰るところ(ホーム)を失っている人々、絆が切れた人々の現実が見えてきた。ホームレス支援の現場は、現代社会の現実と問題点を見事にあぶり出していたのだ」


 著者は、わたしたちの社会そのものがホームレス化していたというのです。


 「無縁社会」とは「ホームレス社会」であり、「孤族の国」とは「ホームレスの国」だというわけです。ならば、ホームレス支援は単なる路上生活者の社会復帰の問題だけではなくなります。それは新しい社会の形成、絆の創造に向けた働きとならざるを得ません。


 著者のめざす社会の方向は、当然ながら、わたしがめざす「支え合い社会」、「助け合い社会」、そして「有縁社会」に通じます。さらには、「隣人の時代」にも直結します。


 実際、本書には「隣人」という言葉がたくさん登場します。たとえば、著者は次のように書いています。


 「ホームレスは、常に『異人』とされ、排斥されてきた。『異人』の排除には、『社会のため』という歪んだ倫理がつきまとう。虐殺は、『隣人を異人と見なす』時に起こる。テロリスト、悪の枢軸・・・・・『異人化』の波は、世界を戦争の危機に陥れている。


 しかし福音は、異人(とされた人)を隣人とするのである。和解の神の働きは、『隣人となる』ということによって現れる。教会の使命も異人を隣人にすること、すなわち和解の務めにある。神様からすれば、すべての人間はかけがえのない存在だ。ホームレス状態であろうが、『放蕩息子』であろうが・・・・・だ」


 「『自己責任論』は、『助けないための理屈』にすぎない。もっともらしい『理屈』を掲げ、『道の向こう側』に逃げる私たちに対して、『あなたも行って隣人になりなさい』とおっしゃるイエス。『赤の他人の事柄に口を出せ』とイエスは要求される」


 わたしたちは、赤の他人に関わることを避けて生きています。 関わると時間も自由も犠牲になり、お金もかかるかもしれません。第一、面倒ですし、疲れます。だから、赤の他人のことは見えないふりをして「向こう側」を通り過ぎていきます。それが賢い生き方であるかのように。しかし、著者は次のように述べます。


 「助けるにも、介抱するにも『道のこちら側を通る』ことから始まる。『隣人』、この存在こそが、ホームレス状態に置かれた人々が求めていることにほかならない。訪ねたところで、すぐさま問題が解決するわけではない。出会ったその日に入居できる家もない。しかし、そもそも『訪ねる』こと自体に意味があると思っている。すべてはそこから始まる」


 著者によれば、「ホームレス状態」とは「隣人不在の状態」を意味するといいます。だから、ホームレス支援は野宿者だけの問題ではないのです。著者は、「異人を隣人に。これは希望の言葉である」と述べます。


 そして、神の国の門には、きっと看板がかっていて、そこには「あんたもわしもおんなじいのち」と書かれているというのです。この言葉は著者が理事長を務める北九州ホームレス支援機構のテーマでもあります。


 本書を読んで気づいたのは、食事の場面が多いことでした。少年時代に、教会の牧師さんからごちそうになったサバの塩焼きやラーメン。炊き出しでホームレスの人々と一緒に食べる豚汁やおにぎり。路上生活から脱した人が奢ってくれたイワシフライ定食。食事の問題は、キリスト教の核心にも関わってきます。最後の晩餐において主イエスが示したことは、自身の体を人々のために裂いたということでした。


 「取って食べなさい。みんなで食べなさい」と言ったイエスの食事は徹底していました。


 また、かのマーティン・ルーサー・キング牧師は「私には夢がある」という有名な演説を行いました。その中で、キング牧師は「私は夢を見るのです。いつの日にか、ジョージアの赤土の上で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷の主人の息子たちがいっしょに兄弟愛というテーブルにつくことになるであろうことを」と語りました。


 著者は、キング牧師が「デスク」ではなく「テーブル」と言ったことに注目して述べます。


 「キング牧師の見た夢は、かつて主イエスが荒野において多くの人々と共に見た夢の続きであった。いつの日にか私たちは、共に兄弟愛という食卓につく時がくる。そのような夢の食卓が準備されている。そのためにイエスは、パンの余りをかごに入れ、無駄にせぬようにと言われたのではないだろうか」


 夢の食卓! なんと素晴らしい言葉でしょうか。著者は、教会で食べるうどん、カレー、炊き込みご飯などは、すべて主イエスの荒野の食事、夢の食卓を受け継ぐものだといいます。


 そして、わたしはわが社が開催のお手伝いをさせていただいている「隣人祭り」がなぜ食事会なのかという理由がわかったような気がしました。


 隣人祭りはフランスで生まれ、ヨーロッパを中心に広まっていきましたが、そこにはキリスト教の影響があったのでしょう。最初に隣人祭りを開いたパリの人々も、イエスの「夢の食卓」をイメージしていたのかもしれないなどと思いました。


 最後の「あとがきにかえて」は、東日本大震災の後に書かれています。傷ついた多くの人を癒すことは容易ではないとしながらも、著者は述べます。


 「理由なき苦難は、私たちを自責へと向わせる。家族を助けてやれなかった悔しさ、弔うことさえままならない現実。皆、自分を責める。時に愛は、そのような表現をとる。だが、そうせざるを得ないのなら私も一緒に苦しみたい。自分のことだけを責めるのは良くない。一緒に責められようと思う。一緒に傷つきたいと思う」


 この「傷」という言葉は「絆」に結びついていると著者は言います。長年支援の現場で著者が確認し続けたことは、「絆」には「傷」が含まれているという事実だというのです。誰かが自分のために傷ついてくれる時、自分は生きていてよいのだと知ります。同様に、自分が傷つくことによって誰かが癒されるなら、自分が生きた意味を見出せるというのです。


 かのタイガーマスク運動は美談として大きな話題になりましたが、著者はそこに「無縁社会・孤族社会」が生み出した独特の課題を見たそうです。「匿名」で支援物資が贈られたことは、それが名誉欲からの行為ではないことの証しだと認めた上で、一方では「相手に直接出会うことを回避するため」だったようにも思えるというのです。


 この社会には「支援するなら個人の責任でやれ」という重圧があり、困窮者に対してのみならず、助ける側にも自己責任がのしかかります。それを怖れる人々が「匿名」を選んだのではないかというのです。著者は次のように述べます。


 「ランドセルを贈ることは容易ではない。費用がかかるし、何よりも勇気がいったと思う。本当にありがたく、温かい。ただ私は『タイガーマスクじゃあ、勿体ないなあ』とも思っている。タイガーマスクに申し上げたい。できるならば、あと一歩踏み込んで、あと一つ傷を増やしてみませんかと」


 もしかすると、児童養護施設の子どもが「こんなもの、いらねぇ」とランドセルを蹴飛ばすこともあるかもしれません。実際、そのようなことが支援の現場ではしばしば起こるそうです。著者は次のように述べます。


 「しかし、対人支援というものは、実はそこから始まる。叱ったり、一緒に泣いたり、笑ったり。なぜ、贈り物を蹴飛ばさねばならなかったのか。その子の苦しみを一緒に考え悩む。だから傷つく。それが、どんなに恵みに満ちた日々であることか。『匿名』のままでは、この恵みにはあずかれない。タイガーマスクにおける匿名性は、倫理的な積極面とともに自己責任論の重圧、もしくは傷つくことから逃れるための回避的な消極面を示しているように思えるのだ」


 そして、著者は次のようにこの問題を結ぶのです。


 「絆とは傷つくという恵みである。タイガーマスクは、無縁の時代に生きる私たちが健全に傷つくための仕組み作りが急務であることを示してくれたのではないか」


 『隣人の時代』(三五館)において、わたしもタイガーマスク運動は近未来の東日本大震災後の大規模な支援活動への無意識の助走だったのではないかと述べました。


 しかし、著者の深い見方は「さすが」だと思いました。机上の論理ではなく、自らが体を張って支援を体験し続けてきた人にしかわからない見方だと思いました。


 本書を読み終えて、強く思うのは著者のバランス感覚です。じつは、これまで著者のことを牧師もやられている社会運動家ではないかと思っていました。あくまでホームレス支援活動がメインで、牧師の活動はサブだという意味でです。


 しかし、それが大間違いであることに気づきました。著者はあくまで牧師であり、自身の信仰活動の延長線上にホームレス支援もあるのだということがわかりました。本書には、『聖書』の言葉がたくさん登場します。すべては、著者の活動を裏付ける的確な言葉ばかりが紹介されていました。


 また、『ルター著作集』をはじめ、ドイツ人牧師ボンヘッファーの『現代キリスト教倫理』、ユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルの『夜』といった豊富な読書体験も窺えます。本書のようなテーマの場合、とかく現場の体験談のみに終始することが多いのですが、著者はそれだけでは終わらせません。


 この体験にはどういう意味があるか、この悲劇から自分は何を学んだかというふうに、必ず抽象化の作業を行うのです。それは、かつて恩師が与えてくれた「君は、現場が合っているが、その分、現場を神学的抽象化する作業を怠ってはいけない」というアドバイスが生きているのかもしれません。


 そう、著者は「行動」の人であると同時に「理論」の人なのです。その意味で、著者は「隣人愛」を実践した先達である賀川豊彦に似ています。


 「行動」と「理論」の両方があれば、鬼に金棒です。だから、NHKの討論会でも他の論者を圧倒できるのでしょう。安易な「自己責任論」や「家族の責任論」などは、著者はいともたやすく論破します。


 できれば、『人はひとりで死ぬ』の著者とも討論してほしいです。著者は、「ひとりで死なない、ひとりで死なさない」を信条としているからです。絶対に無縁社会肯定論、孤独死肯定論を認めるはずがありません。


 『人はひとりで死ぬ』と『もう、ひとりにさせない』の2冊は対称の関係にあります。そう、『葬式は、要らない』と『葬式は必要!』のような関係なのです。著者とわたしは、ともに「人間尊重」の社会作りをめざしています。


 これからも、道は違っても、ともに励まし合って歩んでいけたらと願っています。それにしても、素晴らしい隣人に出会うことができて感謝の気持でいっぱいです。


 奥田知志さん、素晴らしい本をありがとうございました。今後とも、どうぞ、よろしくお願いいたします!