No.0319 歴史・文明・文化 | 評伝・自伝 『SF魂』 小松左京著(新潮新書)

2011.05.03

 『SF魂』小松左京著(新潮新書)を読みました。

 東日本大震災の発生以来、東北や関東では余震が続いています。人々は、かつて『日本沈没』という大ベストセラーが存在したことを思い出しました。本書は、その『日本沈没』の著者によるコンパクトな半生記です。

 いま、小松左京が読まれるべきだと思います。大地震に大津波、そして原発事故・・・未曾有の国難に遭って、状況はわたしたちの想像力を完全に追い越してしまいました。「想定外」という言葉を菅首相が使いました。もともと自然に対して「想定内」とか「想定外」という考えを持つこと自体が人間の驕りかもしれません。

 しかし実際の話、マグニチュード9.0の地震、40メートル近い高さの津波、最悪のレベル7の放射能漏れを誰が予測できたでしょうか。これらの出来事は、完全にわたしたちの想像力を超えていました。

 想像力のチャンピオンといえば、なんといってもSF作家です。古くはヴェルヌやウェルズにはじまり、アシモフやクラーク、ディックといったSF作家たちが多くの作品を残してきました。彼らは、これまで地底探検、時間旅行、宇宙旅行などの夢あふれるロマンだけでなく、宇宙人襲来、未知のウィルス、人工知能の反乱、核戦争、そして人類滅亡といった、ありとあらゆる極限状況をも描いてきたのです。

 今こそ、日本人は、SFにおける想像力を「人類の叡智」として使う時期かもしれません。そして、日本には小松左京がいます。31歳でデビューするや、矢継ぎ早に 『復活の日』『果てしなき流れの果てに』『継ぐのは誰か?』といった大作を発表し、『日本沈没』で大ベストセラー作家となった日本SF界の草分け的存在にして最大の巨匠です。

 本書『SF魂』には、その巨匠によって創作秘話やSFの神髄が語られています。面白かったのはペンネームの由来で、著者は次のように述べています。

 「『地には平和を』で小松左京というペンネームを初めて使ったのだが、あの時『右京』にしようか『左京』にしようか迷った。ちょうど兄貴が姓名判断に凝っていて、『右京』なら名誉と金が手に入る、『左京』は新しいことができると言った。まあ、単に左がかった京大生だったから『左京』にしたかったのだが、『右京』にしていればもっと賞にも縁があったかもしれない」

 それで、ケッサクなのは、『日本沈没』刊行後の以下のエピソードです。

 「(『日本沈没』は)売れ行きもさることながら、反響も相当に大きかった。投書も来たし、家にもバンバン電話がかかってくる。右翼からも左翼からも文句を言ってきた。右翼は『あれだけ大事なことを書いていて、天皇という言葉が一回しか出てこないのはどういうことだ』。左翼は、『自衛隊を英雄視していてけしからん』。左翼系の方がしつこかった」

 さすがの「左京」サンも、左翼のしつこさには閉口したようですね(苦笑)。また、『日本沈没』の反響は、官僚や国家首脳にまで及びました。著者は、次のように述べています。

 「大蔵、外務、通産の官僚たちがずいぶん読んでいた。政治家では福田赳夫氏が早くから読んでくれていたらしい。当時首相だった田中角栄氏も、ホテル・ニューオータニですれ違ったら、『あ、小松君か』と向こうから声をかけてきた。『君とはいっぺんゆっくり話したい。今度時間を作ってくれ』と。そんなことを言っているうちに、田中首相は翌年、金脈問題で失脚してしまったが。とにかく政治家がけっこう読んでいて、全ての政党の機関紙からインタビューや党首対談の依頼が来た」

 やはり、最悪のシナリオを描いた小説というのは、政治や行政の人間にとっての最高のテキストとなるのでしょう。本書の帯には、「私が日本を沈没させました。」と大きく書かれていますが、著者は両親の関東大震災の体験をヒントに『日本沈没』を書いたそうです。

 その後、著者自身が阪神淡路大震災に遭遇し、「あの震災は本当にショックだった。あれだけ地震や地殻変動について調べているのに、阪神間にあんな地震が来るとは思ってもみなかった」と述べています。自らが大地震に遭遇したショックで、著者は「うつ」状態になったそうです。このたびの東日本大震災について、著者は、一体どのような感想を抱いたのでしょうか? わたしは、それが知りたいです。現在、『日本沈没』以上に『首都消失』が政治家や官僚の必読書のような気がします。

 さて、小松左京といえば、盲ろうの東大教授である福島智氏のことを思い出します。光も音も存在しない世界をどう生きるのか。福島智氏は、なんと自分はSFの世界を生きているといいます。そして福島氏は、ある研究会で次のように語るのです。

 「私はSFが大好きなんですよ。盲ろうというのは、いわば、SF的状態なんですね。光も音もないという世界に、どうやって対処していくか。これは、非日常的な状況の中で、あらゆる可能性を追求し、想像力をぎりぎりまで働かせていくというSF的発想が役立つんです。盲ろうになった私が生きていくうえで、SFはすごく役に立ちましたね。一番好きな作家は、小松左京です」

 福島智氏は大の本好きで、いろんな本を点字で読みます。かつて盲ろうとなって落ち込んでいた彼に、いろいろな人が元気づけようと障害者関係の本を紹介してくれたりしたそうです。そうした本の多くは、「見えなくなったけど、僕はがんばったのだ!」とか「重い障害を克服して、私は人生を切り開いたのよ!」といった内容のものでした。それらの本には実体験の重みがあり、感動的でもあるのですが、落ち込んでいる著者にしてみれば、こうした本を読んでも少しも元気が出なかったそうです。一方、著者の『日本沈没』などのパニックSFに見られる、極限状況における人間の生きざまが、”盲ろう”という一種の極限状況のもとで生きる福島智氏にとって、不思議なエネルギーを与えてくれたのでした。

 『日本沈没』『復活の日』『さよならジュピター』『首都消失』・・・著者は、これでもかこれでもかというくらい、極限状況下の人間を描きました。それらは、すべて福島智氏の「こころ」のエネルギーになっていったのです。でも、彼が一番好きな小松作品は、『果てしなき流れの果てに』だそうです。本当に、人間の幸福とか文明について考えさせてくれるからというのです。

 福島智氏が著者の大ファンだと知って、ある著者の知人が福島氏を会わせてくれます。憧れの作家に会った福島氏は緊張しながらも、自分がいかに小松作品によって救われてきたかを伝えたそうです。2人は大いに意気投合しました。その後、しばらくして2人は再会します。酔った著者は、次のように言い出します。

 「僕はこれまでいろいろ書いてきたけど、福島くんのような人が点字で僕の作品を読んでくれているとは思わなかったなあ。前に会ったとき、僕の作品が『生きる上での力になった』って言ってくれたよね。僕はあのあと一人になってから、涙が出てきて仕方がなかった・・・・・」

 それに対して、福島智氏は答えます。

 「ええ、目が見えず、耳が聞こえないっていう盲ろうの状態自体が、言わば、”SF的世界”ですからね。でも、いったんそう考えてしまうと、何だか楽しくて、明るい気分になってきますし、不思議に生きる勇気や力がわいてくるんです。どんな状況におかれても、SFのように、きっと何か新しい可能性が見つかるはずだっていうふうに・・・・・。小松先生の作品には、人類の文明や社会のあり方を問い直すというテーマと同時に、圧倒的な逆境に立ち向かう人間の姿の素晴らしさ、そして、人の人生や幸福というものの意味を考えさせられるモチーフが裏にあると感じました。『復活の日』『地には平和を』『こちらニッポン・・・』『継ぐのは誰か?』、そして『果てしなき流れの果てに』。みんな、そうですね」

 著者は絶句し、全盲の通訳者によれば、やっと次の言葉を絞り出したそうです。

 「僕は・・・・・、こういうふうに僕の作品を読んでくれている人が、たった一人でもいた、とわかっただけで、これまでSFを書いてきた甲斐があったよ・・・・・、僕は・・・・・」

 そこで声は途切れました。小松左京は泣いていたのです。こんなに著者として嬉しいことはなかったと思います。わたしも、時々、「一条さんの本で救われました」と読者の方に言われることがありますが、このときの著者の胸の内を想像すると、こちらの胸まで熱くなってきます。この会話は、史上最も感動的な著者と読者との「こころ」の交流だと思います。

 そして、著者のいう「SF魂」とは何か。それは、処女短編集である『地には平和を』の「あとがき」に、以下のように見事に表現されています。

 「SFという形式には、他の小説形式にはない表現の自由と、たのしさと、未来への可能性がふくまれている。それは近代文学の正統からは無視されていた文学的要素―無視されながらも大衆の中には生きつづけて来た自由で、グロテスクで、明るい哄笑に満ちたイマジネーションを解放する可能性をはらんでいるのではあるまいか」

 本書『SF魂』の「あとがき」の最後は、次のように結ばれています。

 「SFとは思考実験である。SFとはホラ話である。SFとは文明論である。SFとは哲学である。SFとは歴史である。SFとは落語である。SFとは歌舞伎である。SFとは音楽である。SFとは怪談である。SFとは芸術である。SFとは地図である。SFとはフィールドノートである・・・・・。
 いや、この歳になった今なら、やはりこう言っておこう。
 SFとは文学の中の文学である。
 そして、SFとは希望である―と。」

 この格調高く、SFへの愛にあふれた宣言に、わたしは感動しました。ポスト大震災の日本に希望を見出すためにも、わたしたちは今再び、小松左京を読む必要があります。

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