No.0331 国家・政治 『3・11クライシス!』 佐藤優著(マガジンハウス)

2011.05.22

 『3・11クライシス!』佐藤優著(マガジンハウス)を読みました。

 東日本大震災の発生以後、”稀代の論客”として知られる著者が、ネット、新聞、雑誌などのさまざまな媒体で、今回の大惨事について発信したメッセージの記録です。まだまだ著者の発信は続いていますが、とりあえず4月初頭までの発言をまとめて、「緊急出版」として本書が刊行されました。

 2011年3月11日14時46分、マグニチュード9.0の大地震が東北・関東地方を襲いました。史上最大級の大地震は、巨大津波や原発事故を引き起こしました。

 放射能汚染、避難生活、電力不足など多くの問題に、いま日本人は直面しています。

 日本は地震大国であり、地震や津波に対する備えも十分になされていました。

 過去に何度も被災した三陸海岸周辺では「世界一」ともいえる津波対策をしていたにもかかわらず、その備えでさえ対応できない事態が生じたのです。

 今回、地震や津波に関して専門家から「想定外」という言葉が何度も語られました。

 マスコミは「想定外」という言葉に反発しましたが、著者は「これを『逃げ口上』ととらえるのは間違いだ。想定は、合理的推論によってなされる。その合理性の枠組みを超える事態が生じた場合には、当然、想定外の事態が生じるのである」と述べています。

 わたしは、もともと大自然に対して「想定内」など有り得ないと思います。「想定」という発想自体が自然に対して不遜であると思うのですが、著者は次のように述べます。

 「人間の力では絶対に及ぶことができない超越的な『何か』があることを、われわれ日本人は、今回の東日本大震災を通じ皮膚感覚で理解した。この超越的な感覚を日本復興のために生かさなくてはならない」

 さて、2011年3月11日14時46分という時間は日本人にとって何だったのか。著者は、ギリシャ語で時間を表す「クロノス」と「カイロス」という2つの言葉を取り上げます。

 「クロノス」とは何年何月何日の何時何分のような流れていく時間のことで、英語の「クロノロジー(年表、時系列表)のもとになる言葉です。

 これに対して、「カイロス」とは運命あるいは神の意思によって決められた時間のことで、英語では「タイミング」と訳されることが多いようです。

 重要なことは、カイロスの前と後では時間の意味が異なってくるということです。

 著者いわく、日本史において、1945年8月15日の終戦はカイロスです。

 米国人にとって、2001年9月11日の同時多発テロ事件もカイロスです。

 そして、今年3月11日14時46分に発生した東日本大震災も、日本民族にとってのカイロスであるというのです。

 また、その東日本大震災はカイロスであるだけでなく、日本にとっての大きな危機でもありました。英語の「クライシス(crisis)」とは、そもそも「分岐点」という意味です。

 わたしが石段で足を踏み外し骨折したのもクライシスであり、分岐点でした。

 あのまま石段を転げ落ちて頭を打って絶命していた可能性もあったからです。

 こういうときは、「足の骨折ぐらいで済んで良かった」と考えなければなりません。

 それはともかく、東日本大震災は、日本の重要な分岐点となりました。

 というより、あの瞬間から日本は新しい歴史段階に入ったのです。

 著者は、2つの意味での戦後が終わったと述べています。

 1つは、太平洋戦争敗北後の戦後という意味です。

 あの戦争で壊滅的打撃を受けた日本は、その反省から、「合理主義」「生命至上主義」「個人主義」を重んじる国になりました。

 その3つの主義は、日本の社会と国家を支配する考え方となったのです。

 また東日本大震災によって、冷戦後という2つ目の戦後も終わりました。

 ソ連型共産主義体制の崩壊によって資本主義システムが世界を席巻しましたが、そこでは「新自由主義」が純粋な資本主義とされました。

 市場競争で勝利した人や企業だけが富の大部分を得ることができました。市場ですべてを決定することが正しいとされ、国家による規制は悪と見なされたのです。

 その結果、格差が拡大し、絶対的貧困が生れました。ひとたび貧困層に転落してしまうと、自力で這い上がることが不可能な社会となりました。

 そして、2008年のリーマンショックで、新自由主義の限界が明らかになったわけです。

 2つの戦後の終わりを迎え、未曾有の危機に直面した日本。

 著者は、歴史的に見て、日本人は危機に強い民族であると述べます。

 「普段はふにゃふにゃしている人でも、いざというときになると、心の底から勇気が湧いてくる」というのです。そして、著者は明治天皇御製である「しきしまの 大和心の を丶しさは ことある時ぞ あらはれにける」という和歌を紹介します。

 「日本人の勇気は、日本に一大事が起きるときにこそ発揮される」という意味ですが、福島第一原発の事故現場で働いている人々も、目に見えない「大和心の雄々しさ」によって突き動かされているのだと著者は言います。

 また、今上天皇は3月16日のビデオメッセージで、「何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」とおっしゃいました。

 著者は、今上天皇が述べられた「雄々しさ」がまさに明治天皇が御製で詠まれた「大和心の を丶しさ」であることを指摘します。

 では、わたしたち日本人は、いま何をすべきなのか?

 著者は、「今こそ翼賛体制を確立せよ!」と主張し、次のように述べます。

 「国家的危機に際して、政治家のみならずわれわれ日本人一人ひとりが守るべきもの、それは日本国家と日本国民そのものです。そのためには日本人すべての力を結集する必要がある。現在の与野党協力も『一時的政治休戦』や『大連立』というようなレベルではこの危機に対処できません。存在論的な次元から対処すべきと思います」

 著者は、そこで「翼賛」というキーワードを持ち出します。

 戦時中の大政翼賛会や翼賛選挙という手垢のついた言葉に思えます。また戦前のトラウマから、日本人は「翼賛」という言葉にアレルギーを感じてしまいます。

 しかし、今だからこそ「翼賛」という言葉の悪魔祓いを行い、言葉の真の意味を取り戻す必要があると著者は訴えるのです。ならば、「翼賛」の真の意味とは何か。

 著者は、雑誌「月刊日本」のインタビューで次のように語っています。

 「『翼賛』とは、『力をそえてたすけること、補佐すること』です。この大震災に対処するには、民主的手続きによって選ばれた日本の最高指導者である菅直人首相を文字どおり全力で支える必要があります」

 また、インタビュアーは「翼賛体制とはファシズムのことなのか」と質問します。

 これに対して、著者は以下のように答えています。

 「語源から言えばファシズムとは『一つにまとまる』という意味です。すると、一つにまとまるには二つの方法があることに気づきます。まず、上から『お前ら、まとまれ』という命令として下ってくるまとまり方。これがいわゆる、世間一般で悪の代名詞として通用している『ファシズム』です。

 それに対して、国民が自発的に力を持ち寄って、一つの方向へ力をあわせる、下からのファシズム、これを『翼賛』と呼ぶのです。大政翼賛会はその意味では、『翼賛』ではなく、上からの『ファシズム』となっていました」

 企業でいえば、トップダウンが「ファシズム」で、ボトムアップが「翼賛」でしょうか。

 著者は、今必要とされているのは、危機を乗り越えるためには社会の側からの翼賛体制の確立であるとして、次のように語ります。

 「一人ひとりの国民、団体、政治家、すなわち社会の側がそれぞれの立場から、菅首相が日本国家と日本人のために最適の決断ができるようにすることが大事です。また、菅首相は、能力主義の観点から、与野党を問わず、官民を問わず、必要とされる人材を登用して、危機に対応するべきです」

 菅直人首相に嫌悪感や忌避感を持つ人も多いでしょうが、著者は「菅直人」という固有名詞など重要ではなく、危機にあっては日本国の内閣総理大臣を全力で支えるということが大事なのだと力説します。

 そして、著者は「危機管理の要諦はリスクを恐れないこと」といいます。

 すなわち、危機管理の現場を預る人々が「死」を恐れないということです。

 太平洋戦争後の日本の社会システムは個人主義と生命至上主義によって構築されていますので、国家は「国民のために死んでくれ」という命令を出すことはできません。

 しかし、福島第一原発の事故による放射能被害の拡大を食い止めるために、東京電力をはじめとした原子力専門家たちは文字どおり命がけで働いています。

 そこにも日本人の「雄々しさ」を見る著者は、「危機を乗り切るためには思想が必要となりますが、日本人にあっては、それは究極のところ、大和魂なのです。真の危機になると自ら働きだすのが大和魂なのです。なぜなら、『大日本者神國也(おほやまとはかみのくになり)』だからです」と述べます。

 そして、著者は三浦綾子の小説『塩狩峠』の主人公にもその大和魂を見ます。

 明治時代、客車の暴走を止めるために車輪の下に飛び込んだ青年の物語です。

 結婚を目前に控え、幸福の絶頂にあった青年は多くの人々の命を救うために自らの命を犠牲にしたのです。著者は、この『塩狩峠』という小説には、今回の福島第一原発事故に通じる大事なテーマがあると述べています。

 ちなみに、大和魂の例としてよく出されるのが、太平洋戦争末期の神風特別攻撃隊です。著者はこの神風特攻隊について「インテリジェンスの観点からは意味があった」と述べていますが、これはわたしと反対でした。

 わたしは、あくまでもあの作戦は無謀な悲劇であったと考えているからです。もちろん、若い命を散らせた特攻隊の若人たちの心に大和魂が宿っていたことは認めますが。

 それにしても、本書では「翼賛」、「大和魂」、「ファシズム」、「超法規的措置」といった戦時中を思わせるようなキーワードが連発されており、驚かされます。

 「まえがき」で、著者はあえて、マスメディアや論壇で強い忌避反応をもたらす言葉を用いたと述べています。こういう言葉を用いれば、読者は「さてどう考えるべきか」といったん立ち止まります。そして、自分の頭で考えることを余儀なくされるというのです。

 また「あとがき」で、著者は次のように書いています。

 「ここに収録された論考は、いずれも現実に具体的に影響を与えることを念頭に置いた戦略的文書だ。当然、目的論的な構成になっている。政治に影響を与えることを本気で考えるときには、書きすぎないことが重要だ。それとともに反語法を用いなくてはならない場合がある」

 ならば、本書を読んだ誰もが気になるであろう記述の重複も、戦略的な目的があるのでしょうか。初出がネットや雑誌、新聞など、複数のメディアであることも関係しているでしょうが、それにしても本書には重複部分が多すぎます。

 明治天皇の御製など、わたしが数えただけでも9回紹介されていました。

 『塩狩峠』の引用や「翼賛」の説明も、5回ぐらい出てきたような気がします。

 著者自身、原稿の「かぶり」を戒めるような文章を過去に書いたことがあるとか。

 しかし、はっきり言って、本書ほど原稿の「かぶり」が多い本は初めて見ました。

 著者の責任というよりは編集者サイドの問題かもしれません。

 しかし、わたしも自分が本を書くのでわかりますが、いくら「緊急出版」とはいえ、著者が校正をノーチェックということは有り得ません。

 また、常軌を逸したともいえる、これほどの内容の重複は確信犯としか思えません。

 繰り返しによるプロパガンダなどの何らかの意図があったのでしょうか。

 だとすれば、その企みは失敗したと言わざるを得ないでしょう。

 9回も登場した明治天皇などは、AC大量広告の仁科母娘と同じで、「またか!」という読者の拒絶反応を呼ぶ可能性があります。著者は明治天皇をリスペクトしているのでしょうが、これは、かえって失礼、さらには不敬に当たるのではないでしょうか。

 個人的には、重複部分をカットしてスリム化し、大前研一著『日本復興計画』(文藝春秋)のような100ページちょっとの薄い本にしたほうが良かったと思います。

 最後に、「国会感謝決議」とか「沖縄と差別」などの論考は、わたしと考えがまったく同じであり、深く共感しました。あの混乱の中で、著者の「気づき」はさすがです。

 今回の大震災で日本を支援してくれた国々への感謝の気持ちを国会で決議することには大賛成です。また、半分は沖縄人の血が入っているという著者の「東日本大震災後、日本と沖縄の関係もカイロスに直面している」という意見には説得力があります。

 内容の重複にさえ目をつぶれば、政治家や官僚はもちろん、経営者やビジネスマンなど多くの日本人が、具体的提案に満ちた本書を読むべきであると思います。

Archives