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世界の遺児100人の夢』

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No.0333

 

 『世界の遺児100人の夢』あしなが育英会編著(岩波ジュニア新書)を読みました。

 

 日本にやってきた世界16カ国の子どもたち100人のメッセージ集です。その子どもたちは、みな、地震や津波、テロ、病気などで親を亡くしています。彼らが、癒えない悲しみ、日々の暮らし、将来の夢、平和への思いなどを率直に語っています。


 100人の遺児たちの中は、アフガニスタンの戦争遺児、アメリカの9・11テロの遺児、ウガンダのエイズ遺児たち、そして世界各地の災害遺児たちがいます。


 彼らは2005年の夏に日本に集まり、日本の遺児100人と交流しました。招待したのは、日本の「あしなが育英会」です。ACの広告でもおなじみの「あしなが育英会」とは何か。


 それは、1967年に交通事故遺児の進学支援を訴えた2人の呼びかけから始まった「支え合い」のコミュニティです。その2人とは、交通事故で姉と甥を亡くした岡嶋信治さん、そして母を亡くした玉井義臣さんでした。


 彼らの呼びかけ以来、「あしなが育英会」は募金と遺児奨学金支給を超えて、遺児と遺児が友情を結び支え合う団体に発展しました。83年には交通遺児から災害遺児へ、89年には病気遺児へ、99年には自死遺児へ・・・・・自立した遺児から異なる不幸による遺児へ呼びかける形で「支え合い」の輪は拡がっていきました。


 「あしなが育英会」は、けっして奨学金を送るためだけの団体ではありませんでした。


 それは、孤立した悲しさを結ぶ遺児と遺児の「こころ」のつながりだったのです。


 やがて、遺児たちが集まる夏のキャンプを持ち、東京に学生寮を作られました。


 95年の阪神淡路大震災のときには、先輩遺児たちが親を亡くした子どもたちを訪ねて、「つどい」の場を開きました。さらには、震災遺児の拠り所として「レインボーハウス」を次々に建てていったのです。


 本書の序文は、関西学院大学教授で精神医学者の野田正彰氏が書いています。その冒頭で、以下の3人の遺児の言葉が紹介されています。


 「まだ両親の遺体さえ見つかっていません。もう二度と両親の顔を見ることはないでしょう。・・・・・・両親に会いたいです。お父さん、お母さん、愛しています」(インダ・サリ、バンダアチェ)


 「大好きな母が海に流されていくのが見えました。そのときの悲しみは言葉で表現できないほどです。母の代わりに私が死んだほうがよかったのにと思うことは少なくありません」(ティハーリ・カウシャルヤ、スリランカ)


 「他の人が愛する人の遺体を見つけるたびに、私はもっと悲しくなります。特に母と同じ職場の人が戻ってくるのを見ると、私は母に会いたい気持ちでいっぱいになりました。どんな状態でも、もう遺体になっていたとしても、私は母に会いたい」(チュティマー・ワラック、タイ)


 野田氏は、交通事故遺児の進学問題からスタートした「あしなが」の歴史において、大震災遺児の発見は大きな意味を持っていたとして、次のように述べます。


 「大震災遺児の発見は、世界各地で起きた大震災による遺児への声かけにつながり、今や『あしなが』は地球にかかる虹になっている。親を喪った悲しさが霧となり、悲しみと悲しみの水滴が虹となっている」


 阪神淡路大震災以後、中学生や高校生による陰湿な殺人事件などが多発しました。


 そのたびに、「心のケア」という言葉が標語や流行語になりましたが、野田氏によれば、「あしなが」の「心の癒し」はあまたの癒しとはまったく違うそうです。


 ファッションになったと言ってもいい「心のケア」は上から、せいぜい斜めから行うもの。これらは、「心の専門家」とか「癒し」のビジネスマンによるサービスに過ぎない。


 いっぽう、「あしなが」による心の心の支えはそんなサービスではありません。それは、遺児たちの心のなかに3つの柱をしっかりと立ちあげているというのです。


 その3つの柱とは何か。野田氏は次のように述べます。


 「ひとつは、遺児が遺児に語りかけることから生まれる「つながりの感情」である。親を喪くした子ども、とりわけ突然喪くした子どもは、この世界から見捨てられた、自分を全面的に受け入れてくれる人がいない、頼れる人がいない、生きている自分を喜んで見守ってくれている人がいない、といった一人ぼっちの感情に閉ざされる。親族、周りの人びとにどんなに支援されても、この感情は精神の底に固まっている。誰かから語りかけられたとき、子どもは健気を装っていても、一人になると悲しさが噴き出てくる。しかし「あしなが」では、不幸は自分だけでないことを実感する。世界に見捨てられたと思っていたのに、遺児と遺児のコミュニティがあり、そこでは見捨てられるどころか、自分もまたつながりのなかの大切な一人であることを実感する」


 「第二は、成長のモデルを持つことができる。同じく遺児でありながら、こんなにしっかり生きているお姉さん、お兄さんとの出会いは、自分もまたあんな風に希望を抱いて、生きることを楽しんでいけるという確信を与えてくれる。第一の「つながりの感情」は子どもたちを精神的に安定させ、第二のお姉さん、お兄さんの像は目標をもって生きていく意欲を呼び起こし続ける」


 「第三に、先輩である遺児たちは後輩遺児を世話することによって、同時に大きな生きがいを得ている。現代社会において、絶望している人が人間への信頼を取り戻していくのに係わる仕事ほど、生きがいのある仕事はない。「あしなが」に集う遺児たちは、新たに遺児となった子どもたちに語りかけることによって、生きている意味を確かなものにしていっている」


 本書を読んで、わが社でも取り組んでいる「グリーフケア・ワーク」の本に他ならないと思いました。


 たとえば、「あしなが」の心の癒し交流会には、心理学者やカウンセラーなどはいないそうです。心理の専門家が来て、カウンセリングのようなこともしないそうです。


 「あしなが」が40年来ずっと変えずに行なってきた遺児の心のケア方法とは何でしょうか。それは、「自分史語り」と呼ばれるものです。「あしなが育英会」の国際課長である岡崎祐吉氏が、「自分史語り」について次のように説明しています。


 「遺児同士でまるく輪になり、自分の親の喪失体験を語ります。そういう話は普段、学校ではなかなか言えません。一生懸命に相手の話も聞きます。心の重荷が軽くなり、互いに信頼し、心を開きます。癒し、励まし、お互いに元気を分け合うというものです。同じ経験をした者同士だからこそ話せることもあります。自分が一番つらく苦しいと感じていた遺児たちが、仲間の話を聞いて、『ひとりぼっちじゃない』『もっと苦しい仲間も毎日頑張っている』と、今までうつむいていた顔がパッと明るくなり、前を向くようになります」


 「あしなが育英会」では、遺児たちの心を癒すのは、「自分史語り」が一番大切な方法であると、40年間の経験から考えています。同じことが、国や言語や文化の異なる海外の遺児たちにも言えるというのです。この「自分史語り」は、葬儀後のグリーフケアのサポートグループの方法と同じです。


 公益社さんの「ひだまりの会」や当社の「月あかりの会」などがサポートグループです。


 本書には、とても感動的な「自分史語り」の場面が出てきます。


 それは、アメリカ・ニューヨークの同時多発テロ遺児と、アフガニスタンの空爆による戦争遺児の自分史でした。岡崎祐吉氏が、「支え合いが国境を越えた」というレポートで、以下のように報告してくれています。


 まず、アフガンの男の子が、「僕の父さんはアメリカに殺された」と怒りの表情で話すと、となりに座っていたアフガンの女の子も、「私のお父さんもアメリカに殺された」と同じ表情で話しました。同じ班にいた他の国の遺児たちも日本の遺児たちも、ニューヨークの子とアフガンの子に何という言葉をかけたらいいのかわからず、静まりかえりました。その時です。輪の中にいたニューヨークの男の子が、スーッと手をあげました。班の全員が息を止め、ニューヨークから来たそのテロ遺児の言葉に耳をすませました。


 「ほんとうに申し訳なく思います。ごめんなさい。僕はここに座っているのが恥ずかしいです」。彼はアフガンの戦争遺児に頭を下げました。班の輪は、再び静まりかえりました。


 すると、アフガンの男の子が返しました。


 「いや、君が悪いんじゃないよ。大人たちが悪いんだ」


 お互いの国の大人たちが殺した、殺されたといがみ合っている中、親を亡くした遺児同士が素直に胸のうちを語り合いました。ニューヨークの子もアフガンの子も日本の子もみんなその場で泣き崩れました。


 死因は違っても、親を亡くした悲しみはみんないっしょ。自分史を語り、同じ仲間の自分史を聞くことで、相手を理解し、共感し合うことができたのです。


 そのあと、アフガンの子たちがニューヨークの子たちに近づいていき、交流会で覚えた英語で、「ユー、ブラザー。ユー、シスター(わたしたちは、きょうだいだ)」と泣きながら抱き合いました。(岡崎祐吉「支え合いが国境を越えた」)


 それでは、本書で夢を語っている海外の100人の遺児の中から、わたしが個人的に選んだ5人の子どものメッセージを以下に紹介したいと思います。

 


ミキアル・マウリタ Mikial Maulita
15歳 女 インドネシア・バンダアチェ【津波遺児】


 「2004年12月26日、それはちょうど日曜日のことでした。アチェで地震と津波が起こり、私の両親は自然災害の犠牲となりました。その自然災害以来、私は絶えず悲しみに暮れるようになり、すべての活動にまで支障をきたすようになりました。また、今後の学費のことについても私は悩みました。
 そこで、私はこの作文を通して全世界の親たちに対して、特に1つのことだけを述べたいと思います。少なくとも子どもたちが学校を続けることができるように、自分の親を失った子どもたちに関心をはらってほしいと思います。
 私にとっては、教育こそが最も重要なのです。もし教育がなければ、それは動物と同じようなもので、容易に人に騙されてしまいます。
 最後にもう一度繰り返しますが、どうか親を失った子どもたちを顧みてください。
 続いて、私の夢についてお話しします。私は先生になりたいと思っています。
 そして、自分の持っている知識を他の人とわかち合っていきたいと思っています」

 


イムダード・アリ・カズミー Imdad Ali Kazmi
13歳 男 パキスタン【震災遺児】


 「父が震災で亡くなったとき、本当に悲しかったです。勇気がでず、泣き続けました。そして希望も失いました。でも、いまは勇気が湧いてきました。というのも、勉強に熱意を持ち始めたからです。
 そして母も、僕の成績がクラスで一番になったら元気が出てきました。
 僕が訴えたいのは、愛と関心を注いでほしいということです。そしてよき道に導いてほしいです。僕たちが立派な人間になれますように。良い国民になれますように。そして、自立ができるように願っています。
 僕は、パイロットになって、兄妹と母を旅行に連れていってあげたいです。常に母の幸福を願っています。また、貧困層の人々の力になりたいです。すべての人が教育を受けられるようになるのが夢です」

 


プラブラル・ヴィシャバイ・ラバーリ Prabhulal Vishabhai Rabari
12歳 男 インド【震災遺児】


 「2001年1月26日、学校は憲法記念日のフェスティバルで、僕も学校にいました。弟は家で寝ていて、お母さんは洗濯をしていました。そのとき地震が起きました。お母さんは弟を助けに家に入り、瓦礫の下敷きになって亡くなりました。弟、おばあちゃん、妹も亡くなりました。僕は一人ぼっちになりました。近所で遊んでいた友だちも亡くなり、誰も遊ぶ人がいません。今はとても悲しいです。
 首相にお願いしたいことは、テロをなくしてほしいということです。テロは飛行場、駅、映画館を爆破しています。そして子どもたちがたくさん遺児になっています。地震、津波は自然災害です。でもテロは人間の災害です。そういう人たちに罰を与えてほしい。
 僕は医者になって病人をなおしたいです。
 医者になりたいのは貧しい人を助けたいからです」

 


モハマッド・ジャヴァード・カマリ Mohammad Javad Kamali
13歳 男 イラン【震災遺児】


 「僕は母を2003年のイランのバムの地震で亡くしました。母のいないこの世は僕にとって狭く、好きではないです。
 僕は世界の大人たちに「遺児たちのことを忘れないで」と言いたいです。また僕たちの悩みが軽くなるように優しくしてもらいたいです。そして遺児たちに必要なものを提供してもらいたいです。世界各国の指導者にも僕の悩みを理解してほしいです。
 僕は将来、勉強して建築家になりたいです。
 そして地震にとても強い家をつくりたいです」



メズガン・アリ・ハッサン Mezhgan Ali Hassan
12歳 女 アフガニスタン【戦争遺児】


 「戦争でお父さんを亡くしました。お父さんがいないととてもつらいです。他の子どもたちが父親と歩いていたり、遊んでいたりするのを見るととてもつらいです。私は絶対に子どもが遺児になってほしくないと思います。
 私のメッセージは、世界中の大統領が銃にお金を使わないで、その分で遺児を支援してもらいたいということです。
 遺児たちが心配なく、安心して生活できるようにしてほしいです。
 将来の私の夢は、医者になることです。そして子どもたちを助けたいです」



 このたびの東日本大震災では、新たに多くの遺児たちが出現しました。


 「あしなが育英会」では、早速、彼らのために行動を起こしています。もちろん、海外の遺児たちへのサポートも続けています。


 本書の帯にも登場している女優で国連開発親善大使の紺野美紗子さんは、「あしなが育英会」の活動について、「自分たちと同じような苦しみをもっている子どもが海外にいるならば、手をさしのべてあげたいという、本当にピュアな気持ちがこうした活動の原動力になっているのでしょう」と述べています。


 また紺野さんは、「同じ痛みを持つ者同士が助け合う、支え合う、育て合うというのが、この運動の良さであり強さなのだということを感じています」とも述べています。


 このようなハートフル・ウェーブが日本から起こり、それが世界中に広がっていることを、わたしは日本人として心から誇りに思います。