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花と死者の中世』

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 No.0307

 日本列島の各地で桜の花が満開になっています。


 いっぽう、東北の被災地では死者の埋葬がはかどらず、事態が深刻化しています。


 そんな中、『花と死者の中世』中島渉著(解放出版社)を読みました。


 日本文化の数々の謎を解く、大変な名著でした。


 著者はジャーナリストですが、国際政治や外交関係をリーダーのファッションから分析した主著『スーツの法則』(小学館)など、独自の視点で評論活動を展開しています。


 近年はアジア全体の中で日本の伝統文化を捉え直し、そこで得た新しい視座から日本文化を読み解く試みを行っているそうです。


 日本を代表する古典芸能として、能・華・茶があります。


 その核にあるのはキヨメであり、いずれも中世被差別民が創出した文化であったというのが本書のメイン・テーマです。


 本書の構成は以下のようになっています。


序 「ネアンデルタール人の花」


第1章 華 
1.石立僧と山水河原者
2.時衆と同朋衆
3.六角堂池坊の登場


第2章  能     

1.世阿弥と観阿弥の革命
2.黒い翁の向こう側
3.「乞食所行」からの脱却
4.能舞台という宇宙
5.傀儡子と白拍子の衰退


第3章  茶    
1.北東の嘉木
2.自治都市・堺が生んだ利休
3.雪駄と茶筅をめぐる謎
4.茶場御政道と樂茶碗
5.擬死再生儀礼と花


第4章  中世のパラダイムシフト   
1.武家社会の時代へ
2.賎なる者のとり立て
3.芸能を生むエネルギー場
4.華はつたえられるのか


「あとがき」


 本書の序「ネアンデルタール人の花」の冒頭は、「ヒトはなぜ、死者に花を手向けるのだろうか」という一文で始まります。


 これは、拙著『花をたのしむ』(現代書林)でも追求した問題でした。


 1953年から57年にかけて、イラク北西部から南東部へ向かって走るザーグロス山脈にあるシャニダール洞窟遺跡からネアンデルタール人の化石が発見されました。


 このことから約6万年前のイラク北部にネアンデルタール人が暮らしていたことが明らかになったわけですが、シャニダール遺跡が重要なのは、屈葬にされたネアンデルタール人たちの遺体のかたわらからタチアオイなど数種の花粉が検出されたことによります。


 彼らは、墓穴を掘って死んだ同胞を葬り、その死を悼んで花を手向けたと考えられます。


 死者に花を供えるのは、わたしたちホモ・サピエンスとネアンデルタール人のみに見られる特徴であるとされています。考古学的に、ネアンデルタール人は約20万年前にこの世界に姿を現し、約2万年前に絶滅したとされています。


 彼らとホモ・サピエンスの間に直接のつながりはないとされていましたが、最近のDNA解析によって、わたしたちの祖先と混血していた可能性が出てきました。


 そうなると、「旧人」と呼ばれたネアンデルタール人と、「現生人類」のホモ・サピエンスが縁戚関係にあることになります。


 いずれにせよ、ネアンデルタール人もホモ・サピエンスも死者を悼んで花を供えます。


 なぜ、ヒトは死者に花を手向けるのでしょうか。花によって死を飾るためでしょうか。それとも、花が象徴する生命力を死者に注入するためでしょうか。著者は「世界のあらゆる芸能も、すべからく死者の鎮魂あるいは死からの甦りへの願いがこめられている。それは、魂をふるい立たせ、カミ(神)を楽しませ、招きよせる儀式であったといっていい」と述べた後、次のように書いています。


 「日本における芸能を見ても、猿楽・狂言・浄瑠璃・歌舞伎といった舞台芸能、茶・華(花)・連歌といった室内芸能、鉢たたき・傀儡子・千秋万歳・説教師などの雑芸能、または作庭技術・・・・・今日、民衆芸能とよばれるものであれ、芸術といわれるものであれ、その淵源は同じであろう。わたしたちは、そのほとんどが、中世社会のなかで卑賤視されてきたひとびとによって生みだされてきたものであることを知っている」


 オスマントルコでは宮廷庭師は首切り役人も兼務していたといいます。


 著者は、「庭をつくる者が、なぜ首切り役人をもかねたのだろうか」と疑問を抱きます。


 庭は花という生命が咲き誇り、美が集約された場所です。楽園や天国のイメージさえも連想させる庭にたずさわる者が処刑をも担っていたのです。


 そのことは日本の中世被差別民の世界を考える上でも大きなヒントになると著者は考え、「古代末期から中世へと時代が下るにつれて、とくに都市の貴族たちの、死穢(人間だけでなく動物の死体・死牛馬処理もケガレの発生源とする)への忌避感は過敏になっていく。ケガレは伝染する実体であり、ケガレにふれた者もケガレとして忌む『延喜式』は10世紀に制定されている。これは、ケガレの国家管理がはじまっていることをしめすものだ」と述べています。


 その頃から、平安京では死穢のケガレを放逐するための方策が練られました。


 まずは平安京内での埋葬が禁じられ、都の東の郊外に葬送の地がつくられたのです。


 死穢のケガレと日本の伝統芸能とをつなぐものとして「同朋衆」の存在があげられます。


 同朋衆とは何か。それは、室町時代、合戦に同行した従軍僧たちです。


 戦死者があればその死を弔い、負傷者の介抱をしました。いっぽうで、合戦のないときには芸事をして雇い主である武家を愉しませたそうです。


 彼らは将軍のかたわらで雑事も引き受けましたが、茶の湯や連歌といった芸事に通じて、将軍を慰めたのです。


 僧であった彼らは剃髪していましたが、異風の衣服を身につけていたとされ、室町文化の形成に大きな役割を果たしていくのです。


 著者は、同朋衆について次のように述べます。


 「義満に仕えた最初の同朋衆である6人の法師は、みな時衆であったとされる。時衆僧は葬送儀礼にたずさわることから、非人たちとも深い関係をきずいていた。じっさい、つたえられている『一遍聖絵』絵巻をながめると、さまざまな非人・乞食の生きざまが描かれている」


 時衆とは、一遍の教えを受け入れ、それに従う人々です。


 著者は一遍の教えを生んだ「鎌倉新仏教」について次のように述べます。


 「無条件にあらゆるひとびとを平等に救済するという鎌倉新仏教は、それまでの身分秩序をうちやぶるものだった。だからこそ、この時期活発な活動をはじめた商人や職人たちに受け入れられたのだが、そのいきおいに脅威を感じた旧仏教の大寺院に、法然や親鸞が迫害されたように、一遍も非難をあびせられながら、都市の商工手工業者、非人、女性にささえられ、急速に教線を伸ばした。ちなみに時宗とよびならわされるようになるのは、一遍の死後、江戸時代に教団として立宗されてからのことだ」


 時衆にとって、重要な意味を持ったのが満開の桜です。


 鎌倉中期から室町末期まで「花の下連歌」という文化が盛んでした。


 これは文字どおり、春の満開の桜の下で連歌を愉しむという趣向です。


 満開の桜は生命の謳歌を示しつつ、やがて枯れてゆく死を暗示します。


 生命力が衰えて花が枯れてしまうと、怨霊が跋扈することになります。


 著者は、次のように述べます。


 「花の下とは異界へ通じる扉でもあった。あえて異界への扉を開き、そこに住む怨霊(御霊)を慰撫するために、連歌という言霊の呪術が必要とされたのだろう。菅原道真や崇徳上皇の怨霊を恐怖したように、古代末期から中世のひとびとは、無念を抱いて死んだ者の霊は成仏できずに異界に身を落とし、相手を呪う超自然的存在になり、雷や地震などをおこすとかんがえた。それを鎮めるため、貴賎同座で連歌が愉しまれた」


 無縁社会としての日本の源流は中世の「連歌」の場所にあったというものでした。


 花の下連歌では、乞食のような姿で町を歩く僧、すなわち念仏聖たちが寺の枝垂れ櫻のもとに、貴賎をとわずに多くの人々を集めて、連歌の会を催しました。


 この花の下連歌では、参加者は、それぞれの身分や名前を隠すことが、規則になっていました。高貴の身分の者や、名だたる歌人も、その身分を隠し、名前を隠して、つまり「無縁」の人として、連歌を聞き、ある場所には自ら参加したのです。


 連歌の場所では、念仏聖も上皇も、同じ「無縁」の人として連歌に参加したそうです。


 ところで、室町幕府が新文化の柱としたのは禅宗です。


 臨済宗の祖である栄西が関東に広めていた教えは武士の信仰を集めました。


 その教えは、自力によって物事を解決しようとする時代の風潮に合ったのでしょう。


 臨済宗を中心とする禅宗は、日本における仏式葬儀のスタイルを確立しました。


 さらに、ケガレとキヨメと芸能の関係を見ていきたいと思います。


 とにかく死穢のケガレを嫌った公家社会には、武家も非人たちと同じく「畏怖すべき存在」でした。なぜなら、武士とはプロの殺人者であり、死体の製造者だからです。


 著者によれば、獄囚・乞食・犬神人などの非人をたばねてキヨメを担っていた検非違使が武家にとって代わられてゆく背景には、武家の畏怖すべき力が影響していたといいます。いっぽう、武家の側は公家社会のケガレ観念、それゆえのケガレ忌避といったことをどう受け止めていたのか。


 この点について、著者は「日常が戦闘状態のなかにある武家は、公家のようなケガレ意識とはかけ離れていたのかもしれない。いや、ケガレを意識していたからこそ、立華や茶の湯に長じた同朋衆を重用し、さらにケガレを浄化・吸収してくれる芸能を庇護したのではなかっただろうか」と推測しています。


 しかし、中世の終焉とともに武士の意識も変わっていきます。


 そのあたりを、著者は次のように書いています。


 「武士は統治者の道を歩みはじめるとともに、死穢を忌み、ケガレが伝染しないようにする幕府法をつぎつぎと発していく。生類憐みの令では、へい牛馬処理にかかわるひとびとへの差別をおこない、服忌令では「穢(けがれ)」と身分秩序、礼をさだめた。これらは庶民の日常生活の細部にまでおよぶものであった。みずから殺生を職業とし、「屠児」とよばれて蔑まれてきた武士階級が、とりわけ「穢多(えた)」「非人」を「生来のケガレ」として、職業の世襲と身分、ケガレ観を集中させていったことは、皮肉としかいいようがない」


 ケガレの意識は、結果として中世の日本文化を花開かせました。


 本書の第4章には、「芸術を生むエネルギー場」として次のように書かれています。


 「芸術は孤独から生まれるが、文化はひとびとや物があつまり交わる場から生まれる。そうした場が、河原であり、花の下であり、座であり、会所であった。それはいいかえてみるならば、アジールであり、サロンであるだろう。河原や花の下は異界への入り口であり、それゆえにアジールとなり得た」


 この「芸術は孤独から生まれるが、文化はひとびとや物があつまり交わる場から生まれる」という一文は大変な名言であると思います。


 まったく同感ですが、続けて著者は次のように書いています。


 「立華の基礎をきずいた池坊専応、猿楽に革命をもたらした世阿弥、侘び茶を究極まで推しすすめた千利休・・・・・かれらは孤独な例外的努力をかさねた者たちであった。そして、その才能を開花させる環境があった。専応=六角堂、世阿弥=結崎座、利休=茶室がそうであろう」


 専応や世阿弥や利休は、権力者との確執の中で、自らのジャンルを芸術にまで高めましたそして、その背後には「ケガレ」と「キヨメ」の歴史が横たわっていたのです。


 いま、能も華道も茶道も日本を代表する文化です。


 それらの源流である猿楽や立華や茶の湯は、なぜ中世という時代に、姿をあらわしたのでしょうか。著者は、次のように述べます。


 「中世という時代は、それ以前の時代よりも死が濃密にあった。なによりも武家の台頭はそのことを物語る。そして武家こそが、立華・猿楽・茶の湯の庇護者として振る舞った。立華・猿楽・茶の湯に共通しているのは、死と再生をテーマにする芸能であり、それを象徴するものとして花があることだ。花とは種子植物の生殖器官で、その花が咲くことで生命がつぎの時代へと託されることになる。本能的にそのことを察知したわが祖たちは、美や生命の象徴として花をながめ愛でてきた。


 かつて死者に手向けられた花は、中世という時代にあっては生者こそが必要とした。つねに死と対峙しなければならない武家であるだけに、甦り、再生を期待したのかもしれない。あるいはケガレをキヨメる呪力を花に求めたのかもしれない」


 このあたりは、わたしの『花をたのしむ』の内容にも関連してきます。


 わたしはこよなく花を愛でる者です。


 しかし、本書『花と死者と中世』を読み終えて、さらに花が愛しくなりました。


 咲き誇る桜をながめていると、そのまま異界に行ってしまいそうです。