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もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

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No.0286

 

 『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』ウンベルト・エーコ&ジャン=クロード・カリエール著、工藤妙子訳(阪急コミュニケーションズ)を読みました。

 

 昨年は、日本でも「電子書籍元年」などと言われましたね。


 本書は、インターネット隆盛の現在、2人の老練読書家が「紙の書物に未来はあるのか?」という問いをめぐって縦横微塵に語り合うスリリングな対談です。


 本書は470ページもあり、厚手の紙を使っているせいか本の厚さも4センチです。


 黒をベースとした美しい装丁で、非常に重厚な雰囲気を醸し出しています。


 ウンベルト・エーコは、イタリアの中世学者、記号学者、哲学者、文芸評論家です。


 小説家としても知られ、1980年に発表した『薔薇の名前』は世界的ベストセラーとなり、ショーン・コネリー主演で映画化もされました。


 ジャン=クロード・カリエールはフランスの作家、劇作家、脚本家です。


 ルイス・ブニュエル作品の脚本家として有名で、「欲望のあいまいな対象」「昼顔」「ブルジョワジーの秘かな楽しみ」「小間使の日記」などの脚本を書いています。


 ブニュエル作品以外では、「ブリキの太鼓」「存在の耐えられない軽さ」といった名作、さらには大島渚監督の「マックス、モン・アムール」でも脚本を担当しています。


 2人とも年季の入った古書収集家にして愛好家です。


 かつ稀代の博覧強記でもある2人の古書談義はまさに圧巻です。


 2008年に開催されたダボス会議でのこと。ある未来学者は、これから15年のあいだに確実に人類を揺るがすような現象として、以下の4つをあげました。


 1番目は、石油価格の高騰。2番目は、水が石油と同じような交易商品となること。3番目は、アフリカが大きな経済勢力となること。そして最後は、書物の消滅です。


 「書物が本当に消滅したとして、その決定的な消滅が、人類にとって、たとえば近い将来に水が足りなくなるとか、石油が採掘不能になるとかいうことと同じくらい重大なことかどうか」をテーマに、本書の対談はスタートしました。


 インターネットが出現したことで、書物は消滅するのか。エーコは、その可能性は2つに1つだとして、次のように述べます。


 「本が読書の媒体として残ってゆくか、もしくは、本が印刷技術の発明以前においてさえ担っていた、そして担いつづけてきた役割を担う、本とは似て非なる何かが登場するか。物としての本のバリエーションは、機能の点でも、構造の点でも、五百年前となんら変わっていません。本は、スプーンやハンマー、鋏と同じようなものです。一度発明したら、それ以上うまく作りようがない。スプーンを今あるスプーンよりよいものにするなんて不可能でしょう」


 このエーコの比喩は、なかなか説得力がありますね。


 また、映画人であるカリエールは、「今日、映像保管庫を作るとしたら、どうやって、どの記録媒体を採用するのか」という問題を考えます。


 銀塩フィルムの複製を自宅で保管するのは、映写室や試写室、フィルムの保管スペースが必要となるため不可能です。


 ビデオテープは色が褪せるだけでなく、解像度が低下して消えてしまいます。


 DVDもそれほど長く持たないとされていますし、CD-ROMの時代は終わりました。


 さらにカリエールは、これらの機械を機能させるのに充分な電力が将来あるかどうかという問題をあげ、次のように述べます。


 「電気がなくなれば、すべてが失われ、手の施しようがありません。それに対して、たとえ視聴覚的遺産のすべてが失われたとしても、本だけは、昼間なら太陽光で、夜だって蝋燭を灯せば、読むことができます。二十世紀は、人類の姿や歴史が、動画や音声で記録された最初の世紀ですが――記録媒体はまだまだ不安定です。昔からそんなに変わっていないだろうと想像できるのは、鳥の囀り、小川のせせらぎ・・・・・」


 このカリエールの発言に、わたしは手を叩きました。


 なぜなら、わたしは常々「本は究極のメディアである」と述べているのですが、それは戦場においても無人島においても本は読めるからです。


 iPadだろうがキンドルだろうが、そういった21世紀型メディアはいずれも、本に比べて致命的な欠陥を持っています。それは、バッテリーが切れたら機能を果たせないということです。つまり、デジタル・メディアというものは、すべて電気がなくては無用の長物になってしまうのです。


 イギリスの行動生物学者パトリック・ベイトソンは、過去2000年で最大の発明を「電気の実用化」だとしています。コンピュータにはもちろん電気が必要ですし、わたしにとって生活上欠かせないもの、蛍光灯、エアコン、DVDプレーヤーなどの恩恵を受けられるのも電気のおかげです。さらには、飛行機・電話・映画・テレビといった近代の大発明はすべて電気なくしては開発もありえなかったのです。


 電気の実用化によって、20世紀の100年間はそれまでの人類の歴史をすべて加算した合計よりも、はるかに多くのテクノロジーを生みだしました。


 その最先端の成果が、iPadやキンドルなのです。


 そして、これらのデジタル・メディアは「本を殺す」存在であるとも言われています。


 しかし、デジタル・メディアは電気がなければ使い物になりません。一方、本はいつでも、どこでも読めるのです。


 さて、保存すべきものを保存するためのツールが、今日なかなか見つからないことがわかりました。そこで対談のコーディネーターは「記憶の機能とは、すべてをとっておくことでしょうか」との問いを投げかけます。


 その問いに対して「違う」と即答したエーコは、次のように語ります。


 「記憶には―それが個人の記憶であれ、文化という集団の記憶であれ―2つの働きがあります。1つはある種のデータを保存する働き、もう1つは使わなくて脳内で無駄にかさばる情報を忘却のなかに沈めこむという働きです」


 エーコは、ボルヘスの『記憶の人フネス』を引き合いに出して、先行する世紀から受け継いだ遺産を選別せずにすべて記憶するというのは文化というものの対極に位置するとして次のように述べます。


 「文化とは永久に失われた書物やその他の物品の墓場です。最近では、過去の残滓をそれとなく放棄するいっぽうで、残った文化を将来に備えて冷蔵庫のようなものに入れておく、という例の現象についての研究というのが存在します。資料室や図書室は、記憶の空間がこういう雑多な寄せ集めで散らからないように、それでいてそれらを完全に捨て去るわけではなく、記憶をストックしておく冷蔵室です。そこに入っている記憶は、将来、その気になればいつでも取り出し可能です」


 さて、インターネットの登場で、統制不能な記憶が入手可能となりました。それによって、わたしたちが置かれることになった状況をカリエールは次のように語ります。


 「インターネットが与えてくれるのは、未精製の情報です。まったくといっていいほど玉石混淆で、出典の保証も、権威づけもありません。ところで、誰もがチェックしなければならないのはもちろんですが、方向性を与えること、つまり順序立てること、発言の途中のどこかに自分の知識を配置することも重要です」


 しかし、何を基準にすればよいのかということが問題です。


 世にある歴史書は、国家の都合で書かれており、一時的な感化やイデオロギーの選択が随所に感じられます。カリエールは「フランス革命の本で100パーセント信用できる本などありません」と述べています。


 一方でエーコは、インターネットはすべてを与えてくれるけれども、それによって人々はもはや文化という仲介によらず、自分自身の頭でフィルタリングを行うことを余儀なくされていることを指摘します。


 その結果、いまや、世の中に60億冊の百科事典があるのと同じようなことになりかねず、それはあらゆる相互理解の妨げとなります。


 エーコによれば、人々が同じことを信じるように仕向ける力は今後も存在するそうです。


 つまり、いわゆる国際科学界という万人の認める権威が存在しつづけるだろうということです。その権威は、一度出した結論を見直し修正する手続きを公開でしかも日々行うことができるため、人々はこれを信頼しています。


 エーコは、科学的な事実はある程度万人に通用する根拠でありつづけると言います。


 「数字に関して同じ概念を共有していなければ、家一軒建てられない」と指摘してから、彼は次のように述べます。


 「インターネット上を少しうろうろすれば、我々が万人の常識と信じて疑わない概念を槍玉に挙げるような説を唱える団体がごろごろ見つかります。たとえば、地球の内部は空洞で、我々はその内側の球面に住んでいるのだとか、世界は本当に六日間で創られたのだとか。したがって、異なる複数の知識に出合う可能性があるわけです。グローバリゼーションにより、みんなが同じようにものを考えるようになるものとばかり思っていましたけれども、じっさいにはまったく逆の結果になりました。グローバリゼーションがもたらしたのは共有経験の細分化という現象でした」


 本書には紙の本をめぐるあらゆる話題が取り上げられていますが、本を焼くという行為、すなわち「焚書」についてエーコが語った次の発言も興味深く読みました。


 「焚書を行なう者は、焼いたからといってその本を一冊残らず消し去れるわけではないことを重々承知しています。それでは何がしたいのかというと、これは世界を、そして一つの世界観をまるごと焼き尽くすことのできる造物神のような力を誇示する一つの方法なんです」


 ある種の書物のせいで腐敗した文化を浄化し、生まれ変わらせるというのが大義名分ですが、「焚書は一種の治療行為」とエーコは述べています。


 ちなみに、ナチスで焚書を行った文化政策の指導者はゲッベルスでした。


 彼はナチスで唯一の愛書家であり、インテリであったそうです。


 カリエールは「ナチスによる焚書から『毛主席語録』への移行」というテーマを提示し、数年間で10億人の人民が1冊の本を熱狂的に支持した事実を取り上げます。それに対してエーコは次のように答えています。


 「毛沢東の発想が天才的だったのは、『毛主席語録』を、掲げるだけでいい旗印のようなものとして設定したことです。読む必要はないんです。というより、最初から最後まで通して読まれる本じゃないということがわかっていましたから、暗礁して、マントラや連祷のように唱えられる、まとまりのない抜粋や箴言ばかりを集めたんですね」


 とにかく博覧強記の2人が次から次に繰り広げる対話は目がくらむような感覚さえおぼえますが、そんな2人でさえ蔵書のすべてを読んでいるわけではありません。


 また、彼らは読まなければならないとも思っていません。


 初めて家に来た人が、大きな書棚に気づいて、「ここにある本、全部お読みになったんですか」と訊いてくるとします。


 こういう質問への答え方はいろいろあり、エーコの某友人なら「ここにある本だけじゃありませんよ、もっとです、もっと読んでいます」と答えるそうです。


 しかし、エーコならば2通りの答え方を知っています。


 1つは、「いえ、ここにあるのは、来週読まなくちゃならない本です。もう読んだ本は、大学に置いてあります」というもの。


 もう1つの答え方は、「ここにある本は1冊も読んでません。でなきゃ、どうしてここに置いておく必要があるでしょう」というもの。


 さすがは、ウンベルト・エーコ! やりますねぇ。


 また、カリエールは書棚の中の本について次のように述べています。


 「本棚は、必ずしも読んだ本やいつか読むつもりの本を入れておくものではありません。その点をはっきりさせておくのは素晴らしいことですね。本棚に入れておくのは、読んでもいい本です。あるいは、読んでもよかった本です。そのまま一生読まないのかもしれませんけどね、それでかまわないんですよ」


 そのカリエールの秀逸な発言に対して、エーコは「知識の保証みたいなもんですよ」と言い、対談のコーディネーターも「ワインセラーにも似ていますね。全部飲んでしまったら困りますね」とコメントしています。たしかに!


 では、なぜ、人は本を読むのでしょうか。


 この問いに対しては、本書の訳者である工藤妙子氏が「訳者あとがき」で、世にあるすべての書物1冊1冊が旅路のようなものだと指摘したうえで次のように述べています。


 「世界じゅうの名所旧跡を見尽くすことが不可能だからといって、旅することを諦める旅人がいるだろうか。与えられた時間と予算の範囲内で、私たちは自分の好きな旅先を選ぶように、好きな本を選んで読みさえすればいい。どの旅路を選んだところで、そこで待っているのはあたたかい本の世界である」


 わたしは、『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)で、「読書は、こころの王国への入口である」と述べましたが、工藤氏の意見にもまったく同感です。


 この工藤氏による本書の翻訳は読みやすくて非常に素晴らしいのですが、「訳者あとがき」の内容がまた感動的です。工藤氏は、エーコとカリエールの2人の巨人に負けずに本への愛を次のように熱く語っています。


 「本を読む私たちは、日頃、夥しい書物と出会いながら、書物のほとんどの側面を忘れていると言っていい。本書は、まずそのことを思い出させてくれる。私たちは、たしかに、ある本の表紙に手を触れる。ページを開いて、紙とインクの匂いを嗅ぐ。そして、その魂を読み取ろうと、ページを繰る。紙の擦れる音を聞く。やがて本は書棚に戻る。もしくは、人手に渡る。場合によっては、火にくべられて、灰になる。さもなくば、紫外線に晒されて朽ちてゆく。けれども、魂である物語は、私たちの心に転写されている・・・・・。私たちが、ある本のことを思い出すとき、イメージするのは、どちらかというと、この魂のほうだと思う。しかし本も、なにせ魂のほうだけですでに充分な量感がある(ことが多い、と言っておく・・・)ので、忘れられがちだが、人間と同じで、魂と肉体が合わさってできている」


 そう、本というものは魂と肉体が合わさってできているのです。


 この当たり前のことを、わたしたちは、ついつい忘れてしまいます。


 そして、工藤氏は、おろそかにされがちな「肉体」を失い、本は近く「魂」だけの存在になりそうだとの風説を紹介したうえで次のように述べるのです。


 「それがはたして惜しむべきことなのかどうなのか、判断しかねるが、確かに思えるのは、本の姿がどれほど変わっても、それがたとえ肉体を持たない魂だけの本だとしても、新しく生まれる本を喜んで迎え、慈しみ、不断の解釈により養い育て、老いれば労わり、失われれば惜しみ、嘆きつつおくる、という人々の営みは変わらず続いてゆくだろうということだ。魂も肉体も、残す価値があるかないかが問題なのではない。残したいか、それともどうでもいいのか。それこそが、むしろ問われるべきなのだろう。どうしても残したい、誰かのところへ届けたい、その思いが、書物にふたたび肉体を与えることだってあるかもしれない。そうして昔ながらの姿でありつづけることを切実に望まれ、惜しみない努力と手間の結晶として生まれてくる本こそ、齢五百を数えても、あたたかく支えられ、愛され、守られ、残ってゆく書物なのではないかと私は思う」


 わたしは、この文章を読んで非常に感動しました。


 本への愛情をこれほど美しく綴った文章を他に知りません。


 この訳者の言いたいことは、つまるところ、「どんなに愛おしくても電子書籍を抱きしめて眠ることはできない」ということなのでしょう。


 やはり、愛の対象としては、魂だけでなく肉体も必要なのですね。